>成年後見を受けている人(被後見人)に選挙権を認めない公職選挙法の規定は、参政権を保障した憲法に反する
そういえば、そうだ。
日弁連の「改善提案」でも、ノーマライゼーションの理念が叫ばれた結果、その実現を目指して誕生した制度だって書いてあるじゃん。いまや世界の潮流はノーマライゼーションだぜ。
ここで、もうれつな勢いで入力した文章が消えてしまった。いつもは慎重に保存しながら打鍵しているのに...茫然自失じょうたい。
(ノーマライゼーションについての私の思いを書いた部分は消失。リンク引用したPDFを読んでね)
スポーツクラブに行って、自転車こぎ30分して復帰。ああもう、晩酌タイム。時間との勝負だ。アルジャジーラを聞きながら続きを書く。
「成年被後見人の選挙権」論文 社会の利益国家の利益のために剥奪される←論文の最終部分
(そう、この文言を読んで...怒りのあまり書いていたら機械が反乱したの)
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成年後見については恥ずかしい思い出がある。
2000年に導入された当時、わたしは法律事務所に勤めはじめたばかりだった。裁判所からの電話に、つい「青年後見」とメモ書きしてしまった。
西洋の小説には後見人が出てきて、莫大な遺産を許に青年の成長を見守るなどと展開する。わたしが愛読するのは、小説、せいぜいルポルタージュ。思わず誤字。赤面の至り。しかし、それくらい人口に膾炙していない言葉だったように思う。
それまで使われたいた禁治産者というのは、「人間じゃない」印象が強い。そのころは民法は戦前いらいの片仮名ゆえに仰々しいことこのうえない。ま、勘違いを切っ掛けに興味を持った法律。むしろ法律って冷たいもの=骸骨というか規則なのに、この制度には何か暖かい息吹が感じられた。
高齢者は陸続と増え、障碍者も社会的認知を叶えていくなかで、被成年後見人の数は増えていく。10年たったのだもの。ちなみに先ほどからインターネット検索していると広告が、たくさんだ。ということは、商売にもなっているようだ。
そのなかで見直し、いや本質的論議が必要となっている。
実は今日のブログは、杉浦ひとみの瞳ブログ後見による選挙権剥奪を争う裁判、本日提訴を応援しようとして書いている。ひとりが立ち上がったとき、ほかのひとも灯を続けたいから。