備前焼 やきもん屋 

備前焼・陶芸家の渡邊琢磨(わたなべたくま)です。陶芸、料理、音楽、路上観察……やきもん屋的発想のつれづれです。

勤労の在り方

2012-03-14 18:47:52 | Weblog
毎年、確定申告の時期になると『国民の義務』という言葉を思い出します。

日本国憲法には三大義務として、教育の義務(26条2項)・勤労の義務(27条1項)・納税の義務(30条)の3つが定められています。
(とかって社会の教科書に書いてあった)

で、このうち『教育の義務』は、「保護する子女に教育を受けさせる」という意味で、「子供だから学校に行かないとダメ!という意味ではない」と習った記憶があります。
我々世代が校内暴力全盛期だった所為か先生が時折言ってました。「親が子供を学校に行かせないといけない」とか。
まぁ、教育の場といっても色々あるとは思いますが、どこでも良いのかどうかは、さてさて。
行政側とホームスクーラーとのせめぎ合いとかもあるのでしょうね。個人的に「教育の場を考えるのだ」というエネルギーを持ち合わせていないので、体制に乗っかっています。

さて、残りの『勤労』と『納税』に関しては、大人となればくっついてくるもの。
確定申告は勤労を数字として見る行為であり、一年間の成績表みたいなものなのかも知れません。

数字以前に「働く」という事はそもそも義務なのですな。

で、思い出すのが弟子の頃にあった国勢調査。
「あなたが属している業種について選べ」という質問項目があって、そこには幾ら見てもフリーの芸術家、弟子、ルンペンの項目がありません。「その他の業種」もありませんから、調査票のどれかに必ず属しているという見解があるようです。
しかし実際には身の回りにはいらっしゃいます。これらの方々は経済活動の成果はさて置き「働いているとは見なされないのかしら」と調査用紙を前にして艱難辛苦した覚えがあります。
今の小生の立場であれば「ヤキモノ屋は製造小売業」にしておけば良いのでしょうが、当時の弟子では製造してませんし……「家事手伝い」ではありませんし……。
国の在り方を全数調査するというものに漏れが生じていると感じていました。

弟子は、遊んでる人・国民の義務を果たしていない人という位置付けなのでしょう。


さて、イソップの童話に『アリとキリギリス』というお話がありますが、あのキリギリスはどうなのでしょうか? 
思うにフリーランスのソロミュージシャンです。
でもアリから見ると「遊んでばっかりのヤツ」=「働かないヤツ」でした。

本当にキリギリスは働いていなかったと言えるのでしょうか?

生演奏の音楽は、アリにとって作業BGMとして役に立たなかったのでしょうか? 
または福利厚生の一環として女王アリと契約していれば立場が変わったのでしょうか?
一定の技量を持ち合わせなかった為に演奏が練習と思われたのでしょうか?
そもそもアリの中でもサボってたヤツはキリギリスを糾弾できるのでしょうか?

「イソップのお話は教訓的である」と言われますが、小生にはこれの教訓が何処にあるのかが難しい問題です。

契約次第で音楽は労働にも遊びにもなる=『契約は大事』という事?
生産的団体に属していれば、怠け者でも働いたと見なしてくれるという事?
フリーランスは厳しいぞという事?
アリは排他的な生物だという事?
キリギリスが冬を前に亡骸となればアリとしては食料に出来るので、計略をもって食料を効率良く確保しようという事?


勤労の在り方は難しい。
けれど納税の義務はついて回る……。国としては働き方よりも徴税が大事なんだろうけれど。


確定申告もいよいよ最終。何とか今日で終わった。(と思う)