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タイコの話

2014-01-05 | クラシック
ここに1枚の古いレコードがあります。
それは1966年3月に録音されたベートーベンの交響曲第5番(運命)と、シューベルトの交響曲第8番(未完成)のカップリング盤です。
この2曲は、私が高校時代にブラスバンドで演奏するため、繰り返し聴いた想い出のアルバムでもあります。(ジャケットも良いです)
指揮は岩城宏之で、当時のコンサート・マスターは海野義雄です。
この海野さん(ジャケットの左端に横顔が写っています)、今となっては考えられない話ですが、1962年、N響による小澤征爾ボイコット事件に際し「あいつは耳がわるい」と小澤を批判し、小澤排斥の急先鋒に立ったことでも有名です。
 
 

そして今回の話は演奏曲でもN響でもなく、名指揮者でもある岩城さんに関連することです。

岩城宏之(1932年9月6日 - 2006年6月13日)
以下はフリー百科事典の一部から
1951年、現役で東京芸術大学音楽学部器楽科打楽器部に進んだが、1年生の終わり頃から学内規則を破って近衛秀麿のオーケストラでティンパニを演奏し始め、授業に出ることなく、1年分の単位も取得しないまま6年間在学ののち中退。
学校には1年後輩の友人山本直純と、後輩たちに声を掛け合って集めた学生オーケストラを指揮するために顔を出す一方で、山本とともに、東京芸大指揮科教員渡邉暁雄の音羽の自宅や、目白の齋藤秀雄指揮教室にたびたび通って、指揮のレッスンを受けた。
当時の東京芸大音楽学部には、専攻によって根強い差別が存在し、作曲科と指揮科が階級の最上位に属し、次いでピアノ科、その下が弦楽器科、残りは全て「被差別民族」であり、その中で最下位に属するのが管・打楽器部で、特に「タイコは管・打というように、順番からして管の次なのだから、タイコ屋は、下層中の下層、少数中の少数で年中差別を感じているような状態だった」「ピアノ科の女の子とつきあおうとして、『お父さまにタイコの人なんかと友達になっちゃいけないっていわれたのヨ』なんて追っ払われたことが何度もある」と岩城は語っている。


ということで、岩城さんの音楽の始まりは タイコ 叩きだったのです。
この芸大打楽器科関連では、他にもジャズ・ドラマーの名手が2人います。

白木秀雄(本名:柏倉秀康 1933年1月1日 - 1972年8月)
岩城宏之と白木の2人が同時入学しています。(大学は共に中退)
このお方も、在学中にジャズ・ドラマーとしてブルー・コーツに参加、1957年に制作された石原裕次郎主演の日活映画「嵐を呼ぶ男」に於いて、石原が演じるドラムのアテレコを担当しています。
   

森山威男(1945年- )
大学在学中から演奏活動をはじめ、山下洋輔トリオで世界的に名を知られるようになりました。
現在は自己のグループでの演奏活動の他、名古屋芸術大学音楽学部特別客員教授も務めています。
    

かく言う私も、ブラスバンド部での最初の楽器は「タイコ」でした。
遅れて入部したため、タイコだけしか余っていなかったのです。(笑)

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