ふと、表題に迷って、窓の外を眺める。
そこには、巴川が流れている。
川を表現するのに、流れている、なんとか川、ってのは、ベタな慣用句みたいなんだけど。
わが巴川は、この時間、雨でないと、流れていない、というね。
時には、満潮に棹さして、上流に流れていく、んだから。
その昔、祖母の話か、曽祖母の話か、瓦屋のなんとかさんが、船で瓦なのか、なんだったのか。
を、運んだ、という情景が浮かんでくる。
ほぼ、フラットに近い川だから、満潮を利用して瓦を取りに上流へ、干潮時には。
その荷を清水湊まで、みたいなこと、あったかも、だな。
小さな試み、創意工夫、より効率的に、という成功体験の集積として、もしかしたら。
原子力発電所にまで至るような、大きなものも出来上がり、というようなことも。
なんだか、妄想できちゃいそうだ。
ことほどさように、人間て奴は、進取の気性に富む生き物で、つまり、未知への旅をいつだって。
してきたわけで。
未知への旅に、大きいも小さいもなく。
そこかしこに散在する、生命の発露、とでもいいましょうか。
資本主義が隆盛、猖獗を極め、そろそろ、終焉も、と囁かれる時代にあっては、モノの。
創意工夫が、どうしても優先されがちの、そんな価値観が、むしろ、人々の間には蔓延しているようにも。
見えがちなんだけど、その実、モノに限らず、コトとか、あるいは、個々人の内面への旅も。
静かかも、だけど、始まってもいて。
まるで、どこぞの新興宗教のキャッチ、みたいな、インナーへの旅、もね。
モノもコトもココロも、実のところ、そう、変わらないものではあり、むしろ、ココロが先で。
コトやモノは、後出しじゃんけんみたいなものとも言えて。
そうだ、わが骨ストレッチも、インナーへの働きかけ、インナーマッスルを緩める、というウタイだからね。
世は、インナー時代、とでもいいましょうか。
未知への旅、ということでは、わが母親が、毎朝、9時には、お迎えが来て、デイサービスへ出かける。
通常は、一時間くらいかけての朝食なんだけど、妻が、8時40分頃、かくかくしかじか、と伝えると。
ちゃっちゃと、1分くらいで、食事を終わらせ、着替えもして、さて、まだ、来ないのかね、遅いね。
とくる、らしい。
この40分頃の告知、というのか、くだんの創意工夫の賜物で。
8時の告知だと、お迎えの女性の来るまでの1時間は、まだかね、まだかね、どうしたんだか、ああしたんだか。
のオンパレードで、ということらしく、微妙は告知時間の変遷は。
未知への旅の集積、とも言えて、たくさんの未知への旅による、解が、40分の告知、というわけだ。
なんてことは、そこかしこにあるんだろうね。
あえて、上記、原子力発電所という記号を出したのも、創意工夫の結果の良し悪しは。
いちいち、未知の旅では、問われない、という法則があって。
つまり、結果主導の出来事ではない、ってのが、未知への旅の、これまた、魅力でもあるんだよね。
結果を恐れて、身構えながら話す、なんて、ああ、臆病、なんだよね、って、吉田拓郎も歌っていた。
もちろん、未知への旅の道中に、さまざまな彩色もなされるんだけど、それはそれ、何色だね、なんてのは。
暇人、というのか、昔の貴族のような、あるいは、なんだろう、とにかく、チャレンジしていないココロ。
のなせる技でもあり、というデキで。
雨も上がりそうな気配もあり、いや、また、降ってきたな。
当分、わが巴川は、暮らしのエネルギーの、ネガもポジも共に、大海へと流し去ろうという風情だ。
さて、今日は、安全パトロール、濡れて参ろう、ですか。