久々の美術館だった。
池大雅やら円山応挙やら、ゴーギャン、ミレー、ヴラマンクやら。
平木政次という画家の、富士、と名付けられた、牛臥山からの富士山、ってのがあって。
1897年の、あれ、どこだろう、沼津は西浦とか、あのへんかな、港の景色ね。
風情があって、なかなか、よかったんだけど、牛臥山ってどこかな、と。
ちょっと、グーグルおじさんに聞いてみれば、それで終了、だけど、そのままにしてある。
ミレーの「羊飼いと羊たち」という絵があって、真ん中に、朴訥というのか、生真面目というのか、羊飼いが立っていて。
まわりに羊たち、という構図なんだけど、晩鐘、だっけ、落穂拾い、だっけ、そんな絵、ミレーにあるでしょ。
あれらも含めて、割と好きなんだけどね。
絵から発せられる、なんらかの力、とは別に、羊飼い、という言葉に反応しちゃう、という近代人たるわたし、でもあって。
なにせ、世を席巻する、グローバリズムとか、金融マフィアとか、いや、あの、ハーバードのMBAとかね。
ああいった類を、羊飼いの論理、くらいに行け止めている当方としては。
ミレーの、静かな佇まいから、そちらに、思考は展開しちゃう、という哀しさでもあり。
わかりやすい例題が、3000人のイギリス人が、何億人かのインド人をコントロール、つまり、支配&統治、だね。
もちろん、巧みに、硬軟織り交ぜ、というね、あれなんか、まんま、羊飼いの戦略、なんて解釈しちゃってる。
当方としては、ミレーの、胸キュンとなる絵からも、そんなことを考えちゃう、というわけだ。
アホだね、絵は絵だし、ミレーはミレーだし、なのにね。
なんてプチ反省はともかく、昨日は、時間はたっぷりあったのに、時間がないというような強迫観念なのか。
カラダからの信号なのか、あんまりゆっくり観れなかったので、もう一度、行ってみるかな。
羊つながりで、「羊たちの沈黙」というね、アンソニーホプキンスの。
ジョディーフォスターのクラリス捜査官ね。
この映画のタイトルの、羊たち、から、また、さまざまな連想も可能だけど、そこは置いといて。
犯罪者たるハンニバルを、あれやこれやと捜査する、というのが、ジョディーフォスターなんだけど。
その過程で、天才心理学者たるハンニバルが、牢獄の中で、逆捜査して、彼女の生い立ち、嗜好まで看破し。
という構図が、なんだか、恋人同士のような、そんな錯覚に陥ってしまう、ま、そんな映画でしたが。
映画といえば、夕べ、ふと、BS、つけたら、「レインマン」やっててね。
懐かしくて、見ちゃったよ。
もう30年くらい前なのか、ワオー、とか言って、誰だっけ、ユダヤ人の、「卒業」の。
彼ね、彼が、1986年、とか言ってたから、ビンゴ、30年近く前だね。
ダスティンホフマンだ、かろうじて、思い出したよ、それに、トムクルーズだ。
レイモンドというアスペルガーの兄、チャーリーという年の離れた弟、レインマン、というタイトルは。
アスペルガーのダスティンホフマンが、チャーリーが幼かった時、熱湯を知らずに出してしまったのか。
火を出してしまったのか、その時に、レイモンド、レイモンド、チャーリーが、危ない、レイモンド、レイモン、レインマン。
というわけだろうと思う、そんなタイトルなんだな。
最後まで見ちゃって、夕べは、わが瞑想タイムがお預けとなり、という次第でね。
そうだ、表題だ、東西の絶景、というので、東の代表たる、わが列島の住人、狩野派の面々が。
山水画と名付けられた絵ね、17世記から18世紀、19世紀にかけての、なんだけど。
あれって、中国の、山水画なんだよね、あれ、どうして描いたのかね。
まさか、中国まで行ってきた、んじゃないだろうし。
ことほどさような、先進文明の享受の仕方、ってやつかな。
時代の先端をゆく、今風に言えば、インテリたちは、先に進む、わけだ。
漢字、とかの、文字にしても、なんにしても、取り入れるエネルギーに関しては、生半可ではない、というね。
しかし、受け取る側としたら、なんとも複雑怪奇な物語、でもあり、というのは。
現代においても、そう変わらずに、連綿と続いている、という構図でもあるね。
ところで、狩野派の由来、ってのは、わが駿河の狩野川なんだそうで、ジモッティだったんだ、という素直な感想です。
さて、今朝の巴川が、順調に流れています。
つまり、雨の朝、というわけだ。