日曜日の朝、そぼ降る雨が、降りしきる雨に変わりつつあるんだけど。
表題のごとくに、川が流れている。
高低差のない、まるで、中国大陸の黄河や揚子江みたいな、わが巴川。
雨の流量に押されるのか、エネルギーをいただいているのか。
降りしきる、と書いたけど、そうでもない雨です。
白山・若狭から帰ってきて、昨日は、われらの軌跡を辿ってみた。
まるで、オリンパスのデジカメで、GPSの付着した写真をパソコンに落とし込むように、か。
また、違った色彩を持つ旅に変化、変身、変容し。
白山信仰の謎を追って、と副題のある、「白の民俗学」という前田速夫さんの本を読み始めた。
何年か前から積読状態になっていたものなんだけど。
ハクサンからシラヤマへ、死と再生の儀礼の根源へ向かって、探求の手はとどまるところがない。
と、帯には書いてあって、河出書房新社の編集の方の文章なんだろうけど、うまいね。
そそる、ってなもんだ。
日本民俗学の最大の空白部分の探求、なんて言葉も踊っているんだから。
わかるでしょ、これだけ読んで、何事かを語ってしまう、という僕の習性も。
この本を世に送り出そう、というね、この間、生まれたばかりのわが孫も。
長男坊の嫁さん、母親の陣痛によって、生み出されたわけで。
そう、陣痛は、愛の別表現でもある、という実感は、わが出産の追体験でもあり。
学芸員が、ゲイジツ家の卵を、世に生み出さん、という所業に潜む、愛の表現、キュレーションね。
あれとも相通じ、というわけだ。
本の帯は、犬印の腹帯でもあるね。
さらには、啐啄同期(そったくどうき)ってやつね、卵を温める母鳥、殻をくちばしで破ろうとする雛。
それとも、相似象(そうじしょう)、カタカムナの世界に入り込んじゃいそうだけど。
物事みな、相似ている、ということか。
やっと、腑に落ちたような気もするよ、カタカムナってのは、相似象だ、なんてこと、聞いたことがあって。
キュレート、ってのを、タグ、とか、ネット上では言われたりするよね。
付箋、とか、印、とか、記号化、とか、刻印、とか、さまざまな言い方、あるんだろうけど、出来事を簡潔、わかりやすく。
というね。
もちろん、このタグづけ、って行為に、いい悪いはないんだけど、大抵は、ネガティブな使い方をされているな。
イスラムの戦闘行為は、テロ、とタグ付けされ、西欧の空爆は、止むに止まれぬ正義の、とタグ付け。
みたいなね。
いずれにしても、さまざまな出来事をひとくくりにしてまとめ、区分けし、選別し、まるで。
みかんの選別作業のような、はい、L、M、S、と。
さて、雨の日曜日、そろそろ、ブログは終わりにして、神の創りたもうた、7日周期のお休みを満喫することにしようか。
と言いつつ、西欧由来の、この周期、というのか、おやすみ、という概念については。
どちらかというと、否定的で、働くということは、つまり、労働は苦痛なんかい、というね、そんな気分が首をもたげ。
そもそも、それすら、若狭神宮寺のご住職の、はめられ・はめて、という言葉に通じるものだろう、と。
型にはめ込む、自ら、はまり込む、他人を矯正的に、策謀的にはめる、という具合の。
しかも、おたがいでしょ、おたがいさまでしょ、という、やり切れなさ、というか、潔さ、というか。
そんなものも含み込んだ、はめて・はめられ、または、はめられ・はめて、と。
例えば、西欧的な考え方では、労働は苦役だ、と、だから、懲役、とか言って、刑罰にもなっている。
といったのは、誰だったか、西欧の民、カミュだったか、ナチスの収容所から帰還した、「夜と霧」のフランクルだったか。
とかね。
早い話が、世の中、洗脳合戦。
始末に悪いのは、自分自身を自ら洗脳しちゃってる、ってことで。
なんてことを、休み、という一言から展開しちゃうオヤジって、めんどくさいかもね。
と、少々、謙虚になりながら、ブログ、終了します。