表題の方言は、どこの言葉か。
駿河オリジナルなのか、どうか。
そうらしいね、そんな噂だよ、みたいなことを、そうだっちょうよ。
と言うんだね。
って、最近は、聞かないので、ほとんど、僕と妻の会話にしかでてきませんが。
だれかが言っていた、とか、みんな言っている、とか。
なんだっけ、壁に耳あり、障子に目あり、だったか。
とにかく、だれかが、どこかで、噂している、という風情がね。
ある共同体ができたときには。
しかも、その中で完結してしまっているような、ね、噂話ってのは。
魔力を持って伝わり。
一座の空気を、おも苦しくもし、軽々しくもし。
ってのを、例の、大本営発表なんてのは、国全体でやっちゃったわけで。
三遊亭円生の弟子、カッコ破門、というわが川柳川柳さん。
高座で、戦争の流れを軍国歌謡を羅列し、って、自分で歌うんですが。
勝っているときは、威勢のいい軍歌で、だんだん、戦局が負け戦に傾くと。
うみゆかば、みずくかばね、みたいなどよーんとした歌になり。
なんてことを、名調子で話ていたけどね。
っていっても、CDですが。
この川柳さん、師匠の家の前で、だったか、玄関で、だったか。
◯◯コをしちゃって、それで破門、ほんとは、もう少し違った意味もあったらしいけど。
という、ま、お酒と歌の好きな噺家さんなんですが。
弟子に、たしか、なんとか、つくし、という女性がいるんですね。
ほんの短い期間だけど、僕は、彼の追っかけをやって。
浅草、新宿、上野、と三回、寄席に行ったことがある。
あれ、だっちょうよ、だったね。
噂によって、人は縛られ、動きはぎこちなく、やがて、タブーになって。
さらにいくと、それ、人間としてやらないでしょ、普通、なんて言い方にもなるくらい。
当たり前化しちゃってね。
知らぬ間に、自由を奪われていく、という構図ですね。
鎖やらなにやらで、それこそ、自由を奪われている姿が見える化するといいんだけどね。
だれにも見えなくて、自分で自分を縛る、というね。
これね、ほんとに、めんどくさいね。
とはいえ、ぼくのなかにも、いまだに、残り火のような感じで、くすぶっていて。
たまに、顔を出すけど。
だいたい、そんなときは、笑い飛ばしちゃいますが。
そうそう、昨日の、コメントの、おたく談義、お読みになった方もいらっしゃるかも、ですが。
あなたとわたし、という区分けでなく、おたくさぁ、って切り出す関係ってのは。
おもしろいね。
なんだろう、截然と切り分けている、んでもなく、一心同体でもなく。
そこの空気感ってのは、なんだろう、おまえもおれも一緒やん、というね。
ひょっとしたら、人間関係の新局面を、切り拓いてくれるのかもしれない、というね。
ものすごく、むりやりつなぎ、みたいな。
あの、左脳が損傷した、女性脳科学者の、ジルボルト・テーラーさんね。
右脳だけでいた時に、なんていう至福か、と。
つまり、裁判官にして検察官である、左脳から解放された、というわけで。
他人ともモノとも、区分けする機能が壊れたことによって。
彼女の至福感が手に入った、というね。
だから、親鸞は、愚禿親鸞と言った、ということにもつながりね。
そんなわけで、突然ですが、本日のブログ、終了です。
駿河オリジナルなのか、どうか。
そうらしいね、そんな噂だよ、みたいなことを、そうだっちょうよ。
と言うんだね。
って、最近は、聞かないので、ほとんど、僕と妻の会話にしかでてきませんが。
だれかが言っていた、とか、みんな言っている、とか。
なんだっけ、壁に耳あり、障子に目あり、だったか。
とにかく、だれかが、どこかで、噂している、という風情がね。
ある共同体ができたときには。
しかも、その中で完結してしまっているような、ね、噂話ってのは。
魔力を持って伝わり。
一座の空気を、おも苦しくもし、軽々しくもし。
ってのを、例の、大本営発表なんてのは、国全体でやっちゃったわけで。
三遊亭円生の弟子、カッコ破門、というわが川柳川柳さん。
高座で、戦争の流れを軍国歌謡を羅列し、って、自分で歌うんですが。
勝っているときは、威勢のいい軍歌で、だんだん、戦局が負け戦に傾くと。
うみゆかば、みずくかばね、みたいなどよーんとした歌になり。
なんてことを、名調子で話ていたけどね。
っていっても、CDですが。
この川柳さん、師匠の家の前で、だったか、玄関で、だったか。
◯◯コをしちゃって、それで破門、ほんとは、もう少し違った意味もあったらしいけど。
という、ま、お酒と歌の好きな噺家さんなんですが。
弟子に、たしか、なんとか、つくし、という女性がいるんですね。
ほんの短い期間だけど、僕は、彼の追っかけをやって。
浅草、新宿、上野、と三回、寄席に行ったことがある。
あれ、だっちょうよ、だったね。
噂によって、人は縛られ、動きはぎこちなく、やがて、タブーになって。
さらにいくと、それ、人間としてやらないでしょ、普通、なんて言い方にもなるくらい。
当たり前化しちゃってね。
知らぬ間に、自由を奪われていく、という構図ですね。
鎖やらなにやらで、それこそ、自由を奪われている姿が見える化するといいんだけどね。
だれにも見えなくて、自分で自分を縛る、というね。
これね、ほんとに、めんどくさいね。
とはいえ、ぼくのなかにも、いまだに、残り火のような感じで、くすぶっていて。
たまに、顔を出すけど。
だいたい、そんなときは、笑い飛ばしちゃいますが。
そうそう、昨日の、コメントの、おたく談義、お読みになった方もいらっしゃるかも、ですが。
あなたとわたし、という区分けでなく、おたくさぁ、って切り出す関係ってのは。
おもしろいね。
なんだろう、截然と切り分けている、んでもなく、一心同体でもなく。
そこの空気感ってのは、なんだろう、おまえもおれも一緒やん、というね。
ひょっとしたら、人間関係の新局面を、切り拓いてくれるのかもしれない、というね。
ものすごく、むりやりつなぎ、みたいな。
あの、左脳が損傷した、女性脳科学者の、ジルボルト・テーラーさんね。
右脳だけでいた時に、なんていう至福か、と。
つまり、裁判官にして検察官である、左脳から解放された、というわけで。
他人ともモノとも、区分けする機能が壊れたことによって。
彼女の至福感が手に入った、というね。
だから、親鸞は、愚禿親鸞と言った、ということにもつながりね。
そんなわけで、突然ですが、本日のブログ、終了です。