まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

人間とは習慣である

2014年01月03日 | Weblog
と言ったのは。

というか、安岡正篤が、よく言っていた。

安岡さんというのは、簡単に言っちゃうと、例の、細木数子の旦那さん。

これも、某出版社の、もと編集長によれば、なかなか、どろどろしたものもあるらしいけど。

いや、昭和の老師、と言ったほうがいいね。

終戦の詔勅に朱をいれた、ということでも有名な人ですが。

習慣の産物だ、というんだね。

人間てのが、なので、彼曰くは、良き習慣を身につけなさい。

ということになる、という理解だったんだけど、その頃は。

今朝、車中で、ふと、そうなんだろうか、というね、思考がやってきて。

ひょっとしたら、だから、それを見直してみたら、バラ色の日々があらわれるかも。

という解釈も成り立ち。

別に、謹厳実直であったり、聖人君子であったり、いい人であったり。

そういった具合ではなく、もっと、自由であるのかもしれず。

というか、自由なわけだ。

なんてことを、つらつら、と浮かべながら、事務所に到着とあいなり。

こうしてブログを書いていて。

というのも、夕べ、長男坊が、正月はタラタラしちゃって、というから。

ま、オンオフ、ってのは、逆に、いいんじゃないかな。

なんて会話をしたことから、上記のような思考が、どこからともなくやってきた。

というわけです。

かくいうわたしめも、榊の水換え、ブログ書き、新聞読み、evernoteへスキャンという一連の。

ルーティンワークを、この半年ばかり、続けているんで。

よくわからないものもあるんですが、この習慣、というやつね。

習慣が、日々のいのちの発露を、しばりもし、オートマチック化もし、退屈から開放もし。

ということなんだけどね。

そうだ、五木寛之の新聞広告を拾い読みしたら、たいくつこそが、時間をゆっくり歩ませる。

たいくつする時間があればこそ、人生の充実をえられる、くらいなことだったか。

そんな広告があってね。

まわりでは、時間がたつのが早いはやい、の合唱なので。

それへのアンチテーゼとして、ね、その広告が、頭の中に残っていて。

ところで、水野和夫さんの対談本は、めでたく、読了。

「賢者を幸せにするには、ほんの少しのもので足りる」というロシュフコーの言葉を引用していたのが。

印象に残っていて。

知足、だったか、よく観光地のお土産で、五円玉みたいなものに、書いてあるやつ。

足るを知る、ってのね。

そんな感じでもあるけれど。

この、賢者、って言葉も、なかなか、やっかいで。

そう言ったとたんに、自らを賢者の側に身を置き、高見に登った気になり。

というね、人間の心理の綾にはいりこみ、みたいなことは、よくある話しで。

だれそれよりも自分は勝っている、が、あいつよりも劣っている、という。

例の、無明の闇へ突き落とされる、ってわけだ。

なので、もっとシンプルに、さんまの言う、生きてるだけでまるもうけ、ってところへ。

というわけです。

さて、今日は、このあと、おもしろい展開が待っているのです。

掛川の道の駅へ、おもちゃを買いに、妻と長男坊とで。

あそこへ、おもちゃを買いに、という発想が、たぶん、行ったことがある方であれば。

なにそれ、ってなもんで。

というわけで、本日のブログ、終了です。

コメント
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