ところで、24日土曜日の夜、衝撃的な情報に接し、ついでに、疲労困憊の状況もあり、この一章を未完成のまま、寝ました。衝撃的な情報とは、喜和子自身が、・・・・「自分は、山田五十鈴の、隠し子である」と、高校生のころ発言をしている・・・・・と、言う情報です。さて、それを何とか、お料理しながら、この文章を完成させていきましょう。と、25日の午後1時に書いて初稿のトップに戻ります。
この一文は、100%前報
蜷川幸雄伝説から、ベニサンピットの消滅が私狙いだった事が改めて判明し、大下英二の著作本から、太地喜和子の意外性も解る 2023-06-24 00:07:47 | 政治
の続きです。
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副題1、『太地喜和子は、大勢の人から好意を寄せられており、不倫をしても、憎まれたり、うらまれたりしてはいなかった・・・・大下英二の著書より判断をすると、そうなる』
大下英二の書物を読むと喜和子さんは、大恋愛を繰り返していることがわかります。しかも相手が大物ばかり。しかし周辺の人間が悪意を持っていません。どうして悪意を持っていないかと言うと、太地喜和子に覚悟が座ったところがあるからです。つまり・・・・絶対結婚しない・・・・という筋を通している。女優が背後に生活史を見せたり、夫の影を見せたりすると、お客様が今の言葉で言うしらける(このシラケルは本の中では使ってない言葉ですが、そうなんでしょうね)つまりお客様ががっかりする。だから自分は結婚しないと、はっきり宣言をしています。
三國連太郎とか、18世勘三郎(当時の名前は勘九郎)と、交流があったことを、大勢の人が知っていますが、それで、喜和子さんが、袋叩き似合うわけでもない模様です。三國連太郎夫人からの抗議は来ていないし、かれの、子供である佐藤浩市からも来ていないし、18世勘三郎の夫人からも来ていません。
ただ十七世夫人=勘三郎の、母は貴和子さんを危険視していたみたいですけど、勘三郎の結婚相手は貴和子さんと仲良くしていたんです。勘三郎がよく説明をしてたんだと思います。
それに比べると広末涼子の場合は無残ですよね。どうしてそうなってしまうかと言うと、広末涼子の方に覚悟とか、肝っ玉とか、立場の認識とか、そういうものがないんですよ。だからみんな面白がってね。大騒ぎに発展をするのでしょう。
ところが太地喜和子には、人に隙を見せない覚悟があります。この覚悟がどうしてできたかですが、私は彼女が富豪といわれる実家の両親の実の子ではなかったからだと思っています。
ひろいっ子だとか、もらいっ子だとか、戦災孤児というのは、正しいのだと思います。それを幼い時から、彼女は知っていたから、深い覚悟ができたのでしょう。
::::::::この件ですが、太地喜和子の死後、発表をされた評伝の類に、はっきりと記されているものが少ないのです。それは、母・稔子さんが、まだ生きていたからでしょう。資料をもらわないといけないし、インタビューに答えてもらわないといけないし、・・・・かつ、母の稔子さんが、非常に聡明な人だったからでしょう。誰だって、相手の格がわかりますので、彼女に対する敬意が、その「実子ではない」と、言う部分をあいまいにさせたのだと思います。
じゃぁ誰が、その、事実を喜和子さんに教えたかですが、非常に小さい時に、女中さんが、教えたのだと思います。
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副題2、『戦後の日本において、身分制度が、無くなった。1998年にパリに行って、まだ、色濃く身分制度が残っているのに、私は、驚いたのだが、1945年以降の日本というのは、階級の、攪拌が起きて、欲求の特に強い女性が、自己解放と、アッパークラス化を目指した時代だったのだ。それが、嫁・姑・小姑のいさかいと、強弱関係の逆転を招くことに成ったし、同居する女中と、女主人との間の、逆転現象をも、もたらした。実力主義の弱肉強食の時代をもたらしたのだった。時には女主人を追い出した女中もいたが、ともかく、戦前、戦時中の、しおらしくて、忠実な女性像と、言うのは、消えていった。主人一家への尊敬など、無くなっていったのだ』
女中さんがドラマの中に出てくるのは、朝ドラ【スカーレット】が初めてでした。そこでは、女中は、立派な人間でした。しかし、実態はね。女中さんって、意外と大変なもので、悪女の場合があるのですよ。いやあ、驚いたのは、女中が主人(芸能界の、スター同士の夫婦の家)の赤ちゃんを殺したケースです。これは、悪女というよりも、勘違いが原因でした。その女中は、当時まだ、少女といっていい年齢で、・・・・スターの家の女中なら、夢の様に、楽で、きれいな生活がおくることができる・・・・・と、勘違いの想像をして、応募してきたのに、普通のレベルで、女中として、こき使われたので、復讐のために、主人のお子様を殺したのです。特に赤ちゃんのおもりを任せられた場合、赤ちゃんは利口ですから、自分を世話してくれる人に、真心がないと、泣くでしょう。だから、余計女中の方は、憎たらしく思うのです。これは、新聞紙上をにぎわわす大事件となりました。私は、世の中が、変わったと、しみじみ感じたものです。
私の実家に、1954年から、1956年まで、住み込みで、働いていた女中さんなんて、すごかったです。もし、私が、学校のお勉強に関して、日吉の町の中のスターというほどに優秀でなかったら、父は、私の願い=あの人をやめさせて=を、聞くことがなかった可能性があります。女中さんが発するフェロモンと、私が、家へもたらす名誉や好評を天秤にかけて、(下に生まれた別の子供で、いい思いができるだろうと、考えれば)フェロモンを選んだ可能性があります。で、その女中は、母を追い出して、略奪婚をしたと、思います。
彼女は、家を建ててくれた静岡の大工さんの紹介で、我が家に入った人ですが、静岡県内で、すでに、結婚をしていて、子供まで、有ったのに、離婚をして女中をしていると、言う事でした。元バレーボールの選手で、実業団チームで、全国大会にも出た人なので、むっちりした体形で、肌は、脂ぎっているし、フェロモン臭も横溢だったと、思います。
私が小学校6年生から中一の時の一年間に、彼女の父を見つめる目つき等が、いやで、いやで、たまらないので、子供ながら、彼女が母を追い出そうとしているのが、わかりました。私が父に「ね、あの女中さん、やめさせて」と言ったら、父が目覚めたみたいで、彼女に「静岡に帰ってください」と言って、事なきを得ました。が、危うく、母と、私と妹が、追い出されて、弟だけが、残されるところでした。その結果、母は、シングルマザーになり、やがて父からの仕送りも、彼女の支配故に途絶えて、私も、妹も、大学に進学できないところだったと、思います。
母は、その時、蛇ににらまれた蛙状態になってしまっていましたので、何も戦う事が出来ませんでした。で、結果として、女中と父と弟(まだ、1歳半ぐらいだった)の、3人で構成された新しい家庭を作って、そして次の子供を産んだでしょう。母より五歳ぐらい若かったので、そのくらいの人生設計は、あったはずです。そういう人でした。
彼女には、静岡県という田舎(でも、自然に恵まれていて、大・家康の地元ですが、テレビなどのまだ、無い当時は、東京との差が激しかったのです)の慎ましい生活には、とても我慢ができなかったのです。 都会で金持ちの生活を味わいたい。その希望ゆえに、静岡で、離婚して日吉(横浜ですが、慶応大学があるので、モダンです。一種の東京ですね)に出てきた人でした。
もう父がターゲットにされていたので、大変大変。父は、明治生まれですが、神宮で、陸上競技(走り高跳び)に出ています。だから背が高くて、横幅もあります。だから、スポーツマン同士で、似合いのカップルに成れると、彼女は思っていたのでしょう。もし、私が、「お父さん、お父さん」と、外で、話しかけたときに、父と、その女性が、すでに、同衾をしていたらアウトです。
(なお、1984年に、ここ、雪ノ下に引っ越してきて、あの時の女中さんと、そっくりな体型と、所作・動作を示す、女性を発見しました。はた迷惑行為を、次から次へと、繰り出し、かつ、反省しないので、「ああ、この人は、ここへ、引っ越してくる前に、略奪婚をしていますね」。と、考えました。このことは、その後、お子さんが本当の子供ではないと、ほかの人からも、聞きましたので、正統でした。
1950年代からは、30年は過ぎているので、前職が、女中だったとは、言いません。普通のOLだったでしょう。でも、女性って、大まかに分けられるタイプがあるのです。自分の肉体的長所、(胸が大きい、ヒップが豊かである。股の間とか、脇の下から、男性を誘引するフェロモン臭が常に出ている)を売りにするタイプ・・・・・も一典型としてあるのでした。金子みすずとか、杉田久女って、心とか、脳が特別に発達している別の典型的タイプです。
それで、1984年より前に、一回、道徳心を捨てたので、それ以降、毒素を含む行為を、何でも、平気で、できる様になったのでしょう」と、考えました。それが、38年前のことですが、その後、年月を経ても、間違っていませんでした。ありと、あらゆる点で、彼女が、作り上げられた奥様像とか、母親像を演じているだけであるという事がわかります。
ただね。自分が子供のころ、家に女中さんがいないで、核家族だけで、形成されている平和な家で、育った人には、これは、理解できない、私の思考過程だったかもしれません。で、『きっと、探偵事務所でも頼んだのではないの?』とか、井戸端会議で、おしゃべりをされて居るのを感じていますが、違いますよ。彼女自身が、醸し出すもので、わかるのです。隠したって無理です。
愛し合って、いる様に見える家族内でも、隠された悲喜劇はあるのです。)
これは森茉莉さんもそうですよね。女中さんに、夫、子供、すべてを乗っ取られてしまったのです。お子さんが、結婚する前に、伴侶となる人を連れて、訪れてくれて、一緒に三人で、人気のない公園を散歩したこと(お食事を一緒にとっては居ない模様です)を、人生で、最大に美しい思い出だと、言っていますが、その後、死の前の、数年間に、そのお子様、または、お孫さんが、訪ねてきて、面倒を見ると、言う事はなかったのでした。
太地喜和子の家の女中さんは、森茉莉家、程のことは、やっていないでしょう。さすがの大下英二も、昔、昔、家にいた女中さんを探してまで、確認をとっていません。でも、この私の想像は、絶対に正しいでしょう。ただ、面白がって教えたうえで、当の喜和子ちゃんに、「絶対にお母さんに私が教えたことは、言っちゃっダメよ」と、念を押したでしょう。父親が娘にセックスを迫る場合、血がつながっていない場合も、つながっているばあいも、「お母さんに、言っちゃあだめだぞ」というそうですが、あれと同じです。
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副題3、『親が、芸能界入りを勧めるのがおかしい。だから、喜和子さんは、実子ではないと、思っていた』
大下英二は、喜和子ちゃんの、担任に取材をしています。この先生は喜和子ちゃんが、小学校低学年時から、大変明るくて、才能があることをに気が付き、それを愛でています。この先生は喜和子ちゃんが、もらいっ子であるとか、養子であるという事には、まったく気が付いていなかったそうです。つまり中野と言う場所は横須賀と、比べると都会だから、ママたちがご近所の、噂話をする機会が少ないのでしょう。で、先生にまでは、伝わらなかったのです。
しかし、その先生がおっしゃる、・・・・・常に、にこにこしている子供だった。そして、クラスをリードする子供だった・・・・・と、言う状況も、どれほどに、喜和子ちゃんが、モノを考えていたかを、証明します。お父さんも、お母さんも、いい人でしたよ。しかし、本当の両親ではないからこそ、立派な子供でないといけないし、めそめそしたりしても行けないのだ・・・・・と、幼いながら覚悟を決めていたのです。
もう一つね。彼女が本当の子供ではないって言う事を感じさせるエピソードがあります。芸能界に入るという事は、彼女自身の望みだったか?どうか?わからないのです。富裕層であるお父さんがライカで撮った彼女の写真のうち、かわいいのを、選んで東映のニューフェイスに送ったんですって。そうですね。松竹大谷図書館で、見た数多くの写真類から、わかるのですが、中学生の頃、喜和子さんは、すごく可愛いです。
でね。この・・・・芸能界に子供を入れる・・・・って言う話ですが、貧しい家で、子供自身が・・・・絶対に、お金を儲けてやろう・・・・・と言う決意を持っていない限り、親は勧めない職業だったのです。
昭和、50年代にね、映画界に、子供送り出そうと言う一般家庭は、無かったと思います。特に、実の親の中には、いないです。せいぜい、【婦人の友】の写真頁に、子供服のモデルとして、自分の子供を登場させるぐらいだったと、思います。今は違います。お金持ちの家庭に育ったが、芸能界に入りましたというのは、たくさんいてね。昔ほど、芸能界が、低い方の、差別の対象になっていません。
でも、ちょっとしっかりしたおうちだったら、子供が「芸能界に入りたい」なんて言ったら、反対するはずなんですね。経済的に、余力があれば、なおさらのこと、反対するはずなんです。
お父さんはちょっとした遊び心で、どうせ受からないだろうと思って写真を送ったわけですが、なんと合格しました。で、そういう事態になっても、親は、「いや、やめなさい。将来が、不安定だから」と、言って差し止めるはずです。
しかし、喜和子さんは、その時に「はい、はい」って言って、東映ニューフェイスの演技研修所に通い始めるのです。
映画会社の新人は、俳優座の養成学校に1年間預けられて、そこでちょっとお勉強すると言う形だったらしいんですけれど、そこに入るって言うこと自体ね。即、芸能人になるっている事だから、逡巡する子もいるともいます。15歳位だったらもう十分に賢い。
社会階層の通念として、当時の日本では高いお給料を持って帰る、大企業に勤務してる。旦那さんと、結婚をして、専業主婦になるのが、まぁ女として、最も安全で、階層が上だとみなされていました。
だから中流家庭で親にお金がある人が、子供に芸能界に入ることを勧めるって言う事はありえないです。でもね、すごく可愛い子として、育ったから、芸能界に、入れたと、いう単純な動機だったかもしれません。
でも、本人が「俳優座養成所に、通います」と、言うんですよね。なぜそういったのか?
その裏に実の両親ではないって言うことを彼女が知っていたと仮定すると、これで、早めに、お金を、稼いで自立ができると彼女は考えた可能性は強いのです。大学を卒業するまで、待たなくても、自立できると考えた可能性があるのです。
かわいそうだと、言うのではないのですよ。覚悟が、決まっていたのですね・・・・・という事を、言いたいのです。
しかも、東映所属から、自分の選択で、自由になって居ます。そして、もう一回演技の勉強を俳優座でやってから、文学座へ入っています。そういう選択を、結構、すべて、自分で、行っています。自分で、道を開いています。
映画においても、芝居においても、脱ぐと言う必要が起きるたび、自分で、決断をして、ぱぱっと脱いでいます。
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副題4、『ここで、土曜日の夜に新しくつかんだ、太地喜和子、は、山田五十鈴の隠し子であうと、いう説について、入ります』
彼女が山田五十鈴の隠し子だったと、いう説は、太地喜和子関連本には出てきません。たまたま、嵯峨みちこと、太地喜和子の、似ている点を思い出し、嵯峨みちこを検索していると、太地喜和子が、山田五十鈴の隠し子だと、いう説があると出てきました。しかし、
この情報は、今のところ、私には、処理できません。そのままにしておきます。
嵯峨みちこは、1935年に月田二朗との間の正式結婚で生まれ、太地喜和子は、1943年に生まれており、
そのころ、山田五十鈴は、以下の様な活動をしています。
スターとして揺るぎない地位を占めたが、夫の月田は役に恵まれず、夫婦の収入に差が生じるようになり、夫婦仲も次第に亀裂が入る[9]。1940年(昭和15年)には別居し、娘の美和子は月田家が引き取った[4]。1942年(昭和17年)に月田と離婚し、映画製作者の滝村和男と結婚するが、1年余りで離婚した[9][10]。
1942年(昭和17年)、長谷川と共に新演伎座を結成。3月に東京宝塚劇場で菊田一夫作『ハワイの晩鐘』、川口作『お島千太郎』で旗揚げして以降、『伊那の勘太郎』『姿三四郎』などの舞台に立ち、太平洋戦争末期には軍の慰問にも回った[9]。翌1943年(昭和18年)、花柳章太郎主演の『歌行燈』に出演するが、この共演を機に花柳と恋愛関係に陥った[9
ともかく、わからないと、言っておきましょう。ともかく、戦災孤児であれ、山田五十鈴の隠し子であれ、才能豊かで、覚悟の決まった、女優であることは確かです。
太地喜和子が、「自分は、山田五十鈴の娘だ」と、公言していたころ、
嵯峨みちこは、大活躍をしています。1950~1960年代に、35本の映画に出ていて、1960年代から、テレビに移り、三姉妹など、17本に出ています。しかし、1978年からは、索引が、極端になくなります。でね、並行して、あれこれ、不安定だとか、精神安定剤を飲んでいると報道をされます。
で、太地喜和子は、自分を守るために、山田五十鈴の娘だとは、発言をしなくなったとも考えられます。そのころ、35歳です。嵯峨道子が、不安定だと、言う事は、1960年頃、も、報道をされており、太地喜和子が、18歳の時です。
16歳の東映ニューフェースデビューのころは、それが、プラスになると判断をして、山田五十鈴の娘ですと、言っていたが、異・父・姉の、嵯峨道子と、自分に共通点がある様に見られることを恐れて、急に、その件を発現しなくなったとも、考えられます。
まあ、真実は、今のところ、わかりません。
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副題5,『覚悟を決めると、言う事、または、軌道修正をしていくという事』
ここで私の問題の方に入ります。最近は政治的問題から狙われきっています。自死するように仕向けられています。または自分で精神病院に入院するように仕向けられています。
この苦労を、最近の20年間は、特に、激しくて、それを味わい尽くしていて、喜和子さん以上に強い覚悟を決めています。
だから、広末涼子の甘さに対しては、・・・なんともはや・・・と言う感じです。
この事件の登場人物は4人では無い。実際には、5人だったと言うのは、広末ママが、重要な位置を占めているからです、彼女が甘い人であるという事、それもまた大きな原因だったでしょう。
それからこの現代の事件のほうは、お金が、重要な要素であることが、非常に顕著であり、そのことを私はなんとも嫌な事だとか、無残なことだと思います。
週刊文春は、部数を増やして、儲けるために、広末涼子パパラッチしました。そして広末涼子は、子供に対して、また、キャンドルジュン氏は(自分の富裕層暮らしを守るために)妻に対して、思いがけない裏切りをしていますね。
だって交換日記を、外に出せる人はキャンドルジュン氏、しか、いないでしょう。まぁレストランの従業員とか、鳥羽周作氏の奥さんである可能性もありますが、どうでしょうかねー。感情的に力んで、怨んでいるのはキャンドルジュン氏でしょう。
一方、太地喜和子の評伝を読むと、あまり恨みを買っていないんですよね。しかも彼女の方が恨んでいい三國連太郎とも、再びの接触を、他人の、力で、はたしています。
雑誌の企画の対談と言う形で、昔の捨てられた悲しみを癒すことができています。彼女自身は若くして死にましたが、思い残す事はあまりないと言う形で、心の清算をし終わって死んでいますね。だから大勢の人から、特に彼女を知る人たちから、なんと悲しいことだ。なんて不思議なことだ。そしてこう言ってはなんだけど、まぁ死んでよかったかもしれない。スターが、花のあるうちに死んだのだからと言うふうに言われています。そうです。その死が伝説を生んだ。
なお、この一文ですが、スマホの音声入力で、メモを、書いて、それをコピペしたのですが、大量誤変換を生みました。手で、キーをたたくよりも、大量でしたね。恐れ入ります。まあ、すでに、亡くなった方を取りあげるので、ゆっくり書けばいいかなあと、思っていました。お許しください。
2023-6-23~25にかけて、これを書く。 雨宮舜(本名、川崎千恵子)
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