土木技術者が撮った中南米の「光りと影」の写真 及び 他国風情

 約22年間の中南米赴任中に土木技術者の視点から撮った写真。開通前のパナマ運河に架かる第二アメリカ橋は圧巻 & 他国事情

ペトラ遺跡(No.4)

2009-12-31 01:58:22 | ヨルダン(ペトラ遺跡)
 シークの出口=「宝物殿」前の広場からシークを逆戻りします。眼前の岩の裂け目がシークの出口です。通常はここまで(宝物殿も含む)の道程で1日です。ここまでは下り勾配ですが石畳の道等あり歩き辛く、また眼前に繰り返し迫ってくる岩石の脅威に体が固まり動きが止まります。而してこの広場に着くと「やっと出たー」と言う表現が適当と感じますし、この後ろに拡がる宝物殿の荘厳なるファサード(正面)を見れば「来て良かったー」と感激します。
 広場の左岸側(下流に向かい左側)には売店がありそこには木のベンチが設けられ太陽の光で壁面の色が刻々と変わる「宝物殿」をミネラルウオーターを飲みながら見ます。




 上記写真を「縦」に撮っております。ラクダはここから2日目以降を1日で見る人や「宝物殿」の前で写真に収まる人達用です。観光客の90%以上が金曜日の日が安息日ではない欧米人です。
 本日は閉店(この先は行きたくないの意)にし、ここで「休息したい」及び「もっと居たい」と言う感じになります。この広場では大半の人は凡そ2時間を過ごします。



 この場面の心境はご察知がつくと思います。峻険な岩石山の奥に「宝物殿}=「エル・ハズネ」が垣間見れた瞬間です。本当に「宝物」を見つけたその瞬間の感動です。



 上記写真の同様ですが、この時点では「宝物殿」は見られず、光が射しこんでいる場所に「何か」があると感じている瞬間です。



 上記同様ですが、「何か」があると言う 期待感は未だ湧きません。



 道幅は段々狭隘に、岩石山も峻険になってきました。  



 上記同様。 
 岩質は「砂岩」が殆んどで、他に礫、石灰及び泥岩の堆積層です。堆積したものが地殻変動で隆起して出来たものです。その後の大地震でこういう割裂、亀裂が入り、また雨水の浸食作用により形成されたと考えられております。
 蛇足ですが、土木でコンクリートやモルタルに使用する砂は通常「川砂」か「砕砂」でJISの仕様に則った5mmフルイを重量百分率で85%以上を通る骨材で「細骨材」と呼ばれます。逆に「粗骨材」は85%留まるものです。そのたセメント、水及び混和剤(料理の調味料と同様に多種多様あり、これにより強度や品質が向上する)を入れコンクリートになります。



 上記同様。職業柄、こういう場所は立入禁止にしますので、早く通り抜けたい気持ちです。
 が、絶景に固唾を呑んで足が止まっております。



 この場所で道路の断面が一旦広がり、この先が前記の狭隘な岩石山の道路になっていきます。左岸側には所々に水路の跡が見えますし洪水を調整したゲートもあります。大昔だから角(丸太)落としだと考えます。



 何やら遠くに光りが射している所が見れます。「何か」が在るのでしょうか?
 前記のシークの道路幅が広いため陽が差し込んでいます。



 前を行く集団の観光客の人達は、当然上方の今にも滑落しそうな岩を見ましたよねー。


 

モーゼ終焉の地ネボ山&死海

2009-12-24 15:37:30 | ヨルダン
 メリー クリスマス, Merry Christmas & Feliz Navidad

 アンマン市から南西(イスラエル側)に車で約1時間の所にある標高約800mのネボ山、そこはヨルダン渓谷一帯、死海、エリコやエルサレムを見渡すことができるユダヤ教、キリスト教にとっては重要な山であります。聖書によればヤハウエ(旧約聖書の唯一絶対神)が死を目前にしたモーゼに、このネボ山に登りユダヤ人の「約束の地」=「カナン」=「現在のイスラエル国及びパレスチナ自治区」を一目見るように語りかけたと言います。またモーゼは死後この地に埋葬されたとも言います。モーゼの死を後世に伝える十字架や墓のあった場所にはA.D.4世紀には修道院が建てられ、現在のフランシスコ修道会の教会内部にその遺構が残されております。今日でもその調査及び発掘作業が行われており立入禁止になっています。(2009年11月現在)
 写真はネボ山のモーゼ終焉の地の遺構がある教会への参道です。



 ネボ山に登る道路から土漠の中に茂る緑地帯を見ております。



 そうですオリーブの木です。



 土漠の中に断続して植栽されています。



 一枚目の写真の参道の奥に見える記念碑です。モーゼの記念碑と勘違いしますが2,000年に前ローマ法王ヨハネ・パブロ・Ⅱ世が参拝された時に造られた記念碑です。



 参道を挟んで上記の向かい側にモーゼの記念碑があります。石碑の文字のSIYAGHAとは修道院の意味です。



 こちらはTHE ABU BADDと書いた銘石が横にあり「かつてはKUFER ABU BADDとして知られたFAISALIYAHの古都にあるビザンチン式修道院の扉に取り付けられていたRolling Stone」と書いてあります。 クリスチャン信者のみが分かるのでしょうか? 現地で購入した観光ブックにも、その意味は記されていません。観光客に疑問をかもし出しているのかもしれませんが、もっと分かり易い表現であればと思います。ここは入場料を1JD(150円)徴収されます。規模が小さいのと聖域ですので喜捨の意味合いで発掘調査費に当てていると考えます。



 上記 THE ABU BADD の銘石です。


 最寄の都市マタバはここから約10km東に位置します。ここには写真のようなモザイクのタイルや絵画等が数多く残っております。古のローマ道路の交易によりギリシャやアラビア文字で書かれた絵画もあります。もともとはこのモザイクタイルは教会の内部に飾ってありましたが現在発掘作業中の為、教会敷地の外に仮設の小屋を建てて、その中に復元されていました。



 この写真こそ、神がモーゼに示された「約束の地」です。死海、エルサレム、エリコやヨルダン渓谷一帯が一望できます。遠くにかすんで見えるのがパレスチナ高原です。



 上の写真の背後に現在発掘調査中の修道院の遺構があり、蛇を巻きつけたモーゼの杖(大蛇をモーゼが退治した伝説に由来する)を形どった十字架の位置も仮設フェンスに囲まれて立入禁止です。



 フランシスコ修道会の教会の遺構です。西側から撮っています。



 同上。東側から撮っています。



 同上。



 ネボ山の北側の斜面です。「アイン・モーサ」と言われ、ペトラ遺跡でも紹介しましたモーゼが岩に杖を突き刺し泉が湧き出した場所です。オリーブが植生しておりました。



 ネボ山を西側に下りるとそこは「死海」です。北部シリア国から流入するヨルダン川やヨルダン渓谷から流入するその他の河川は死海で滞留し流出はしません。死海の水は塩分と鉱分濃度が非常に高く、植物や動物は棲息しませんが、治療効果の期待できる鉱泉水があるため、そのための施設はあります。また塩分濃度が高いので「かなづち」の人でも楽に海面に浮き読書が可能です。死海の海面水位(海面上で)-400mと地球上での最低位地です。ここは大地溝帯がありヨルダン川一帯は大渓谷になっております。ゆえにネボ山との標高差は1,200mになります。対岸のパレスチナ自治区の山々も同様だと思います。(下記している様に死海上方にガスがかかりはっきりは確認できません。)



 死海を大写ししました。流出する川がないため、滞留した河川水は太陽熱により蒸発し(塩分と鉱物分は残留)、このようにガスが掛かって対岸のパレスチナ自治区の高原も薄っすらしか見れません。本当に蛇足ですが、ここは「視界不良」でした。



 ヨルダン川はイスラエル国やシリア国及び特にヨルダン国にとっては重要な水資源です。ヨルダン国は幾度もの中東戦争によるパレスチナ難民やイラクからの戦争避難民を受け入れていますので水量確保の問題は深刻です。それに加えヨルダン渓谷沿いは以前から農業も栄えており、流入する水が減少し死海の水は減少しつつあります。この写真の海岸の塩跡で分かるように1m以上は低下しております。この状態が続くと、それこそ死界をさ迷うのは明白です。近年、経済開発機構(OECD)における開発援助委員会(DAC)各国においてこの水資源不足=生活用水不足(主に飲料水)による対策が施工されております。地球の環境を守りながら一方で経済成長を成し遂げられるような対策が望まれております。大国の一人勝ちは許容されない地球環境になることを願っておりますし、それが人(人類の一員)としての優しさだと感じます。
 再度、メリー クリスマス。




ペトラ遺跡(No.3)

2009-12-23 17:12:33 | ヨルダン(ペトラ遺跡)
 マイルストーン(距離程)がないため正確な位置は不明ですが、前記した様に ①変曲点 ②特徴のある物 を撮っております。今回掲載分でシーク延長の約2/3地点と考えます。この場所も修復されて通行可にしたと考えられます。前回同様に自然の造形物に言葉が出ない状況にあります。



 壁面に埋め込まれた「碑文」や祈願用の「霊石」等も多く見受けられます。



 前記と同場所を「縦」に撮影しました。



 次の変曲点。帰りは上り勾配なので馬や馬車を利用する観光客もいます。所々、石畳なので馬や馬車や乗客もしんどい思います。



 前記と同場所を「縦」に撮影しました。



 次の変曲点。



 次の変曲点。



 前記と同場所を「縦」に撮影しました。



 次の変曲点。ここも安全上、修復されていると考えます。



 古のシークは全て石畳だったのでしょうか。シークの数箇所に石畳が見受けられます。書物にはB.C.4世紀頃からナバタイ人が形成した町で、A.D.2世紀にジェラシュ遺跡同様ローマ皇帝のトラヤヌスがヨルダン一帯を支配下に治めローマ帝国の属州になったと記してありますが、先回、記述したようにペトラ遺跡の歴史検証は現在も解明中です。



 前記、同様に石畳です。



 前記と同場所を「縦」に撮影しました。



 次の変曲点。



 前記と同場所を「縦」に撮影しました。



 底面部は洪水により浸食されてこの様に今にも落ちそうな岩もあります。数箇所岩石が剥離しておりますが、修復の順番を待っている状況だと考えます。



ペトラ遺跡(No.2)

2009-12-22 18:37:23 | ヨルダン(ペトラ遺跡)
 再度シーク(もしくわシク)について説明します。シークは切り立った断崖に挟まれた細く狭い道で、太陽の光によりバラ色、黄色、青灰色の入り混じった色彩が写しだされます。本来は地殻変動によって出来た岩石山の裂け目で、全長は約1.5kmあると言われています。元々はムーサ河の河床で、ナバタイ人の造った町の入口だったのです。ナバタイ人は灌漑施設用の水路や洪水調整用の堰もここに造りその痕跡を見ることができます。シークは自然の造形物であり、ただただただ、驚くばかりです。



 撮影した写真はシークの変曲地点や特徴のある造形物を撮っています。大体20m/ヶ所で約150枚撮影しました。その内の重複箇所を除き投稿いたします。



 上記箇所の上方を撮りました。岩石山は高い所で約100mあり、全て急峻で切り立った絶壁がそびえております。



 同上。上記、断崖絶壁をみております。



 シークの幅が狭隘な箇所です。遠くに足場を組んで崩落防止の修復を行っていました。



 現代の建築で使用するビティと言われる鋼製の足場が組まれておりました。せり出した岩が崩落する危険があるのでしょう。



 ベンチに座っているのが監視員です。頭上の岩は見事に落下しています。こういう風に表面がきれいに落ちることは考え難い形状ですので、修復した物と考えます。水路は約2,000年前にナバタイ人が造ったものを修復したものです。



 左側の階段状のものは水路壁兼用で、馬や馬車の乗降所と言われています。多分に戻りは上り勾配なので使用したものと考えます。


 
 上記写真の突き当たりの変曲点から撮っています。峡谷は浸食され蛇行しております。



 次の変曲点から撮っています。以前は石畳もあったようです。所々にその跡が残っています。水路は続いております。オリーブが安らぎを与えております。以前は沢山あったのでしょう。



 上記の大写しです。前回掲載したオベリスクやジン・ブロックス同様に、ここは身分の高い人の墓だったと推測いたします。



 上記の先を撮影しています。縁石は倒石防護用に造ったものと思われます。
 


 上記の先を撮影しています。この地点から両側の岩石山は急峻になり道幅も徐々に狭隘になります。



 所々にこういう側面に峡谷があり落石崩落して居ります。



 同上。奥行はあり裾は広く、谷に挟まった大きな石で更なる落石を防いでおります。ここも徐々に修復されるのでしょう。



ペトラ遺跡(No.1)

2009-12-21 23:54:22 | ヨルダン(ペトラ遺跡)
 ペトラ遺跡は首都アンマン市から南側(紅海側)へ約250kmに位置します。どこまでも続く土漠の中に出現した「砂漠の高速道路」=デザート・ハイウエイ=無料 を制限時速110km/h.(なぜか100km/h.ではありません)+αの速度にて、途中一回給油し約3時間で到着します。



 「デザート・ハイウエイ」を西側(イスラエル側)に右折し更に南下しペトラ遺跡に隣接した町 「Wadi Musa」=ワディ・ムーサに到着します。ペトラ遺跡は広大で通常、遺跡群を見るだけで3日間必要ですので、この町にホテル、レストランや土産物店が多数存在しています。



 上記峠を過ぎるとペトラ遺跡群の岩石山(主に砂岩)が眼前に広がります。植生している木々は大半がオリーブです。ここにもモーゼが杖で岩を突き刺し泉が湧き出た「アイン・ムーサ」=モーゼの泉 があります。



 北のシリア国から続くヨルダン川→死海→アラバ川→紅海のイスラエル国やパレスチナ自治区との国境のヨルダン川流域は大渓谷地帯で水が豊かで、今でも農業が主流です。南部ペトラ地帯は山岳地帯で深い断層で刻まれた岩石山に覆われています。



 正門手前に隠れたように「ビジターズ・センター」とチケット売り場があります。1日、2日と3日券が売られています。但し15歳以下は無料で、ヨルダン人は2JD(約30円)です。1日券の21JD(約3,200円)は、この国の物価から比べたら異常に高価な金額です。が、先回投稿のジェラシュ遺跡同様に修復作業や維持管理費に相当な費用が掛かるのだと考えます。それにしても1日券は2,3日券の割増高に比べると高すぎではないでしょうか?? 確かに3日掛けて見たい遺跡ではありますし、3日滞在したい人達の優遇料は理解が出来ますが宿泊代や食事代で大変な費用になってしまいます。ここで3日間費やすには暇と費用が必要です。



 チケット売場のあるロータリの一角から正門ゲート(右側の人垣の所)を見ております。



 先回掲載しました「エル・ハズネ」=「宝物殿」までは約1.5km~2kmあります。シークと呼ばれる切り立った岩石山で囲まれた狭小な道は未だ見えません。右前方に岩壁を掘って造られたその名も「ジン・ブロックス」と言う塔形の墓廟が見られます。中央分離帯の左半分は馬や馬車の道です。



 「ジン・ブロックス」の前方には上部に4本のオベリスクがまた下方には円柱で造られた墓がありそれぞれ「オベリスクの墓」及び「トリクリニウムの墓」と呼ばれております。



 上記に続く道路です。前方に見える岩石山が「シーク」の入口です。植生している木々はオリーブです。



 上記オリーブの木々を通り過ぎた所を撮っています。ここから「シーク」の入り口です。



 「シーク」の入口の見張り小屋です。ここから先、約1km~1.5kmは「シーク」だけですので、日よけの白色のスカーフ(モスレム=イスラム教の女性が被る)やミネラルウオーター等の売店があります。



 さあー今から「シーク」に入っていきます。この場所を「バブ・アス・シーク」と言い「シークの門」の意味です。現在は枯れた峡谷ですが古の時は雨水がここを轟々と流れていたそうです。ナバタイ人がこの東側に長さ88m、高さ6mの堰(ダム)を造り転流したとの事です。
 ここからは自然の岩石山ですので驚異です。馬車や馬に乗った観光客は多分にここまで来るのに疲れたもしくわ足に豆ができた人達だとだと考えます。本人達も非常に残念な思いだと推察します。



 大半の観光客はこのように岩山の絶景に驚きながら歩きます。殆どが欧米人で頭に白いスカーフを巻いた人はここの暑さに耐え切れない人か、もしくわ準備周到な人達です。観光の本にはペトラは暑いのでスカーフや帽子が必要と記されております。11月にも拘わらず半袖の人達もいます。



ジェラシュ遺跡(No.3)

2009-12-10 00:59:32 | ヨルダン(ジェラシュ遺跡)
 お詫び:昨日掲載の方角が逆でしたので訂正いたしました。 

 ここ「アルテミス神殿」はジェラシュ遺跡の中で最も大きな遺跡です。写真はその正門のちょっと右側で、アカンサスが装飾された柱頭部が置かれていました。前回投稿の「大聖堂」の入口にもありました。個人的には自然のままが一番良いと感じますのでこの趣向(サービス)は「?」の感じがします。後日掲載しますペトラ遺跡はこういう趣向は一切ありませんでした。訪問日は金曜日の安息日ですが、その日に関係のない欧米人観光客もまばらでした。サービスが「負」に働いているのでしょうか。それとも今にも倒・崩壊しそうな円柱群に脅威を感じているのでしょうか。個人的には(建築家の見解は分かりませんが、土木技術者としては)リピートする感じは?です。でも、脅威と驚愕を感じる建造物であった事は確かです。



 正面入口です。長い大階段が2段あり神殿入口まで続いています。この大きな高い柱には驚きを感じます。2枚下の写真に反対方向からこの柱全体を撮っております。



 一段目の大階段と2段目にはこういう踊り場があります。左上の円柱は今にも倒壊しそうです。



 その踊り場から入口方向を撮りました。方角は東から西です。左側の屋根部の石は今にも崩落しそうです。



 ここから聖域の中庭に入ります。おおよそ150mx100m(1.5ha)あります。ここで祭事がおこなわれていたのでしょう。礼拝堂は更に一段上がったところにありその前の神殿の円柱は損なわれることなく立っていました。



 神殿の北側からの写真。



 神殿の南側からの写真。



 神殿の礼拝所を撮っています。



 礼拝所の前です。売り子のサービスは「ちょっと?」の感がします。



 礼拝所の飾りアーチの一部が今にも崩落しそうです。その下方の無傷のアーチとの対照が非常に印象的でした。



 前記しました中庭の北側の円柱です。ここにも神殿があったと考えます。柱頭部は崩落し、円柱部も「ダルマ落としの」状態です。



 入口横にあった案内看板。「アルテミス神殿入口」と書いてあります。ここには復元図が見当たりませんでした。先回投稿のアンマン城のヘラクレス神殿(復元図付)よりも大規模な神殿が容易に想像されます。



 「アルテミス神殿」から幹線道路を数m行った東側に浴場後があります。浴場の面影は全くありませんがアーチの門をくぐって入るのでしょうか。何でこの写真が「西浴場」跡かは次の看板があったからです。また神殿と幹線道路の東側に在るのにも拘わらず「西浴場」と呼ぶのは、現在は近代建築物がある場所に、つまり更に東側に「東浴場」があったからだと考えます。



 「WEST BATH」の案内看板がありました。後ろの木は健気に生きるオリーブです。



 幹線道路上に「西浴場」を過ぎると「北道」との交差点に前回投稿の「四面門」があります。



 四面門の天井はアーチです。現代ならRC建造物(鉄筋コンクリート)の梁で上部荷重を支えますが昔の建造物は石の為、全てアーチです。関東在住の皆様が時々見る有楽町のガードもアーチですし、近代的なダムや橋もアーチ型があります。



 四面門から「北門」の列柱通りを見ています。ここから立ち入り禁止でした。この円柱はイオニア式です。柱頭上部はコリント式のように大きくなく左右対称に渦巻き模様がありました。



 「北門」を四面門から大写しで見ております。アーチ門は一つですので裏門です。安息日にも拘わらずここにはガードマンが居ました。
 


 この四面門から西側に、この案内看板の「北劇場」があります。色あせて見づらいのですが 「North Theatre」と書いてあります。



 「北劇場」です。「南劇場」に比べるとその1/3位の規模です。



 前回の「ビジターズ・センター」の出口付近にはこのようなレストラン・バーがあります。失礼ですけど、ここも違和感(場違い)を感じ素通りしました。



 左側がビジターズ・センターでここは出口のゲートです。古の土漠地帯の(緑の植栽の少ない)人工の今にも倒・崩壊しそうな石造建築を見た後の自然植物のオリーブや草花をみてほっとしました。出口の向こうに見えるのが「凱旋門」です。


ジェラシュ遺跡(No.2)

2009-12-09 09:01:47 | ヨルダン(ジェラシュ遺跡)
 「フォーラム」の西側(左側)の丘の中腹に「南劇場」があります。観客席は先回、アンマン城の投稿で紹介しました「ローマ劇場」の半分の約3,000人収容できます。2層で32段あります。



 同上「南劇場」の最高所の通路から舞台を撮っています。建造年はA.D.81年~96年です。約16年とは長い年月を掛けて石切、細工、運搬及び組立施工と地道に造られた物と思っていましたら、寄進による建設と書かれていました。



 「フォーラム」から「南劇場」とその南側にある「ゼウス神殿」の円柱群を撮っております。建造年はA.D.162~163年と記されております。こちらは何でこんな短期間で完成されたか? 答えは、ここは以前からローマ神殿がありそこを建替えしたからです。またこの「ローマ神殿」も遡ればギリシャ時代から神殿があった場所だそうです。それにしても約2年は短か過ぎる感じがしますので建替えは極一部だったのでしょう。



 更に北側から南西側にある「凱旋門」「ゼウス神殿」、ヨルダン渓谷及びその奥はパレスチナ自治区の山々と考えます。ここからヨルダン川まで約40kmで北のシリア国境まで約50kmです。



 「南劇場」の最上段の通路の裏側の角から大写しで「フォーラム」と幹線道路「カルド・マキムス」=「列柱通り」を撮っております。



 ゼウス神殿は修復中でネットフェンスが張られ立入禁止でした。(2009年11月時点) が、絶好のカメラアングル獲得の為、安全とガードマンをチェックし、ゼウス神殿の前の破損しているフェンスから5mほど侵入して「フォーラム」及びその先の遺跡群を撮りました。見つかれば当然お仕置きをでしょう。 故に貴重な写真です。??



 更に5m侵入しました。



 更に3m侵入しました。観光の本はいずれも、ここからの写真ですので、以前は開放されていたのだと思います。もしくわ侵入したかもしれません。金曜日の安息日に行けばガードマンはいません。配慮なのでしょうか。否、100%自己責任なのです。言い訳は一切通りません。当然の理ですよね。



 「フォーラム」から北門までの約800mの区間は石畳の「列柱通り」と称し、通りの両側に円柱が建っております。



 同上の大写し。



 South Colonnaded Str.と案内板に書かれています。「南列柱通り」です。この先に「北列柱通り」があり、この幹線道路を上記「カルド・マキムス」と呼び、A.D.2世紀頃の敷設です。「南列柱通り」の円柱は最初はイオニア式だったのをコリント式に建替えられたと言われています。「フォーラム」と「北列柱通り」はイオニア式のままです。円柱の殆どには飾られた柱頭が載っており、横石が載ったのも何本かに見られます。コリント式とイオニア式の明確な特徴は前者は柱頭や柱径が大きく感じられますし、柱頭にはアカンサス(ハアザミ=古代ギリシアでは不死の葉とされてきた)の模様が施されています。後者のそれは左右対称の渦巻き模様です。



 上記幹線道路は「フォーラム」→「南道」→「北道」→「北門」と続きます。幹線道路と南道及び北道の交差点には四面が開放された門があり「四面門」と言われています。「南道」の四面門は4つの角柱の基礎(台座)のみ残っており、この写真は「北道」の四面門です。



 「南道」から「北道」間の幹線道路です。



 「南道」を西から東へと見ています=幹線道路と交差する通り。この交差点には上記のように四面門はありません。



 「南道」と「北道」の間にある「大聖堂」です。正面入口と少しの聖堂跡が残っております。反射して見づらいのですが、崩壊しているので、復元図の立て看板がありました。



 大聖堂の入口隣にある「ニンフェウム」はA.D.2世紀に造られ、半神半人の妖精ニンフに捧げられた泉です。凹状の壁は以前は半円蓋の天井で覆われていました。



 同上。少し遠景。



 「ニンフェウム」前の幹線道路の円柱の列柱群。西側=右側の円柱は大地震で崩壊しています。今でも崩壊しそうな柱もあります。


 同上。大写し。観光客がいる向こう側後ろの「ダルマ落とし」風の建造物は不安定建造物で撤去されないのでしょうか? と言うよりも役所の認可が下りないのでしょう。遠くに見えるのが「北道」の四面門です。


ジェラシュ遺跡(No.1)

2009-12-08 16:28:50 | ヨルダン(ジェラシュ遺跡)
 アンマン市から北方に車で約1時間弱にあるジェラシュ遺跡はペトラ遺跡に次ぐヨルダンの見所(観光地)です。
 規模はPETRAの、数拾分の一の限られた広さ(2kmx1km)ですが、古代ローマ人がアラブに造ったローマ都市の中でも最も華麗、崇高で壮大な建造物です。A.D.60年代からローマ帝国の繁栄に伴いジェラシュは植民地化し、その後A.D.106年にトラヤヌス皇帝がヨルダン一帯を制圧しローマの属州の一つになりました。農・工業が栄え域内、域外交易を繁栄させジェラシュ及びヨルダンは以後200年間黄金時代を迎えました。A.D.392年にテオドシオス皇帝がキリスト教をローマ帝国の国教と定め、ジェラシュの神殿群も教会として転用されました。その後のビザンチン帝国の下、約300年間、繁栄をし続けてきましたが、7世紀初頭のA.D.614年にペルシャ軍が襲来し、636年にはイスラム軍に完全に制圧されました。その後8世紀に大地震が起こり、建物の多くは崩壊し、現在の遺跡になっております。現在も所々で修復作業が続けられております。
 先ずはジェラシュ遺跡の入口である「凱旋門」の写真です。古の城壁はここから約500m行った所の「南門」が地勢的に正面口にあたります。「凱旋門」はA.D.129年にハドリアヌス皇帝の巡行を記念して建てられたものです。3つのアーチを持ちその4本の円柱の下部には装飾彫りがされています。ここも足場を組んで壁や天井の修復作業がなされていました。



 天井と梁(はり)部のアーチ。アーチを受ける角柱の上部にも綺麗な装飾がなされております。



 上記アーチ部の長方形の石材の大写し。



 「凱旋門」の東側に映画「ベンハー」(ちょっと古すぎ・・)でお馴染みの戦車競馬の競技場があります。



 上記の「見張り台」と中央の柵。



 上記の大写し。望遠で撮っていますので長さが見えませんが、およそ片側で100m位ありますので200m/周です。



 南側からジェラシュ遺跡群の方向を見ています。多分にこの赤い丸太に周回のカウンター(何周したかを戦士が確認する何かが刺してあった)が立てられたと考えます。



 「凱旋門」側の周回標の前が貴賓席になっております。



 「貴賓席」横のアーチ門。上部に掲げられた旗は色とりどりですので、何かの意味があると思います。蛇足ですが日本の競馬の場合は頭に被った帽子の色で、また欧米の場合は胴体に巻いたゼッケンの色で何番の馬かが分かり投票をします。ローマ時代もこういう賭け事をしていたのでしょうか?また騎手が着ている服で馬のオーナーが分かります。ちなみにエリザベス女王の所有馬の騎手は黒い帽子、真紅のそでで胴は深い紫色で金色の飾りヒモのいでたちです。



 遺跡を見学して=約半日 帰る時間に「凱旋門」横の戦車競技場で何かをやっておりました。



 2回/日に古の「兵士」と「一人乗り二輪戦車」のパフォーマンスを入場料を更に徴収し、行っています。遺跡の入場料だけでもこの国の物価を考えれば高価なのに・・・何で・・。 やはり修復費用等の維持管理費に相当な費用が必要なのでしょう。



 戦車競技場を過ぎると表参道は石畳になります。ここまでの道は戦車の馬に配慮して砂の道路にしたと考えております。



 オリーブや杉の木等が路傍に植栽されて居ります。



 上記大写し。「南門」の向こうの丘にジェラシュの遺跡群が見えます。



 「南門」の手前で右に曲がり「ビジターズ・センター」があり、そこでパンフレットを勝手に選んだり遺跡の模型を見て、入場券の半券を徴収されます。南門から真っ直ぐの道は出口専用です。



 遺跡の正面入口の「南門」です。A.D.1世紀に他の3つの城門と一緒に築かれました。凱旋門が建てられた時に、その影響を受けてアーチの横の円柱下部にアカンサス(ハアザミ)の葉模様の飾りをつけています。



 やっと案内標識に出会いました。



 「南門」をくぐると楕円形の「フォーラム」もしくわ「フォロ」と呼ばれる公共広場に出ます。イオニア式の列柱に囲まれたこの広場です。列柱上部は横石が載せてあり(多分に後で載せたと考えますが・・)綺麗な姿勢をしております。広場は石灰岩のタイルで舗装されており、中心に向かって徐々に形の小さい石が使われています。



モスク百景(No.2)

2009-12-07 16:50:51 | ヨルダン
 イスラム教に於けるモスクは礼拝堂です。礼拝堂は屋根をドーム型にし内部空間を広く取っております。アッラーフ(アラー)を唯一の神とし、絵画や彫像等の偶像の崇拝を完全に否定しています。モスクの床には敷物があり、メッカ(マッカ)の方角にミフラーブと言う「くぼみ」があり、そこに向かって決められた時間に信者が「おじぎ」を数回します。モスクの横には大体「円柱」と「角柱」の2タイプのミナレットと呼ばれる「尖塔」があります。モスクは町の街区毎に必ず1ヶ所存在し、ミナレットには全方向にスピーカーが設置され朝5時?から5回/日(数えた事は有りませんが書物にそう記されています。)にイスラムの聖典、コーラン(クルアーン)を、肉声で、失礼だけど「がなり立て」ます。金曜日の安息日の礼拝は都市交通が麻痺する位の人達が集まってきます。 長年、カトリックの国々で生活してきた者にとってはその外観も内観も然り、このコーランの大きな音には馴染めない感じです。

 写真は円柱型のミナレットです。頂上は大体、円錐型です。スピーカーがあるお立ち台(踊り場)には昔はムアッジンと言う朗詠師が礼拝の時間を肉声で告げていたと聞きます。



 これは角柱型のミナレットです。頂上部は円錐型です。



 これは「灯台」ではありません。お立ち台に設置されたスピーカーと柱が同色で、とてもしゃれた感じでした。



 角柱のミナレットで高さも45m位(約15建のビル)あり聳え立っていました。段々、街の中の渋滞を避けて、モスクも郊外に散在して来ているようです。



 ミナレット内部はラセン階段になっております。明かり取りの窓が着いた容姿端麗?なものです。



 同上



 ミナレットは1塔形式と2塔形式がここヨルダンでは大部分≒殆んどです。多塔式はお目にかかりません。



 同上 2塔形式のミナレットを持ったモスクです。



 小学校の校庭の中にモスクがありました。もしくは逆で、モスクの庭の中に小学校があるのかも知れません。



 夕暮れ時からミナレットは灯が点ります。街はアンマン市です。



 上記「ミナレット」部の大写しです。



 上記「ミナレット」の上方部を昼間に撮りました。




 前々回投稿の「ススキ」に類似した草花の名前をメールにて頂戴致しました。ありがとう御座います。なまえは「Pampas Grass」パンパス・グラスと言い、何と南米アルゼンチンのパンパ=大草原 が原産地でした。


 上記「Pampas Grass」をアルゼンチン・パタゴニアのパンパの写真集から探しましたが、牛や羊を育成している大草原パンパは同国の北側で、ここ南側のパタゴニアには大半が不毛の大地で、この写真のように茎の小さなものが路傍に咲いておりました。こちらは「ススキ」かもしれません。文明には汚されていないパタゴニアの空の青さを改めて想い出しています。




ティ・ブレイク(ペトラ遺跡プロローグ)

2009-12-02 16:20:03 | ヨルダン(ペトラ遺跡)
 ペトラは約2,000年以上も前から、アラビア半島からやってきた遊牧民のナバタイ人やベドウインによって形成された(建設はされていた)、インドから地中海諸国へ抜ける交易品の中継都市であったと書物には記されています。その歴史はB.C.7,000年の新石器時代に遡り、モーゼ率いるヘブライ人一行が、この土地を通過するのを拒んだと旧約聖書に記されているエドム人がB.C.1,000年代にこの高地を整備し要塞を建設したものではないかと言われております。彼らのB.C.7世紀の多くの住居跡や、雨水を貯める井戸から発見されたと記述されています。これとペトラ遺跡との関連は具体的には記されていませんので解明中だと思います。前記ナバタイ人の出現はB.C.4世紀頃ではないかと言うことですが、「この民族の起源は今でも謎に包まれています」と専門家による歴史検証は有りますが、今日では冒頭記述の「ナバタイ人が形成した都市である」が一般的に普及しているようです。「謎に包まれた都市」と言う言葉は非常に興味をそそがれます。メキシコのアステカ遺跡やグアテマラのマヤ遺跡 及び 世界遺産で一度は訪れたい場所No.1の「謎の空中都市マチュピチュ遺跡」も然りです。多分に歴史検証は進んでいるのでしょうが、敢えて「その歴史は謎で未だに解明中である」と言う表現は、曖昧ではなく、奥深い歴史をおもんばかる意味深長な言い方に、聞こえますし、読者に夢や想像を与える感じがします。
 さてペトラ遺跡の入口から映画「インディジョーンズ最後の聖戦」の舞台になった「宝物殿」までの約1.5km~2.0kmはこの様に切り立った今にも落ちてきそうな岩石山のシークと呼ばれる細かい通路を通らなければなりません。シークの後半の約1kmは写真のような場所です。この写真の場所は比較的安全?ですが、後日掲載いたしますが今にも落ちそうな岩の箇所が殆んどです。



 この正面の岩石山の割れ目がシークの出口であり「宝物殿」の前の大広場です。シークは入口から「宝物殿」へと勾配がかなり下っており、帰りは馬車や馬で戻る人も数多く見かけられます。ラクダはこの「宝物殿」から更に先の遺跡巡りに利用されます。



 写真がペトラ遺跡のお目当てであるエル・ハズネと言う「宝物殿」です。この建物の一番上に乗っている壺の中に宝物が隠されていたことから由来しています。エル・ハズネはヘレニズム建築の影響を受けていることが明らかにされています。朝の光を浴びてバラ色の岩肌に輝くファサード(建物正面)は高さ約40m、幅約30mあり暗褐色の周りの岸壁との絶妙なコントラストを呈しております。精巧な造りのコリント式円柱の2層構造になっているのも特徴的です。下層の6本の円柱の内、発見当時は1本が途中で折れており1960年に修復されました。どの柱がどのように折れていたかは後日お伝えいたしますので、推測されてください。また、この建物が実際に何の目的で建てられたかは(墳墓、神殿や霊廟)及び製作年代がアレタス3世(B.C.84~56年)かハドリアヌス皇帝(A.D.117~138年)時代に建てられたかも専門家の間では意見が分かれており、その真意は分かりませんが、現時点では解明されておりません と書物には記されていますので、今でも謎の建造物です。こういう表現は神秘的で夢を膨らませてくれます。シークは自然の造形物ですので、その脅威には圧倒されます。一方エル・ハズネ(宝物殿)は人工ですが、マチュピチュ同様素晴らしい建造物でこちらも魅了させられます。