土木技術者が撮った中南米の「光りと影」の写真 及び 他国風情

 約22年間の中南米赴任中に土木技術者の視点から撮った写真。開通前のパナマ運河に架かる第二アメリカ橋は圧巻 & 他国事情

ちょっと休憩。日墨交流400年は千葉御宿海岸が縁 & 新勝寺

2009-01-30 00:08:10 | メキシコ
 1609年スペイン領フィリピン総督ドン・ロドリゴ一行373名が乗った大型南蛮船がメキシコに向かう途中、台風で遭難しここ千葉県御宿(おんじゅく)町の岩和田海岸に漂着しました。当時人口約300人しかいなかった岩和田の人々や海女たちの必死の努力で317名の乗組員が救助されました。このメキシコ記念塔は岩和田海岸に1928年に建設され、1978年には当時の国賓として来日したメキシコ大統領ホセ・ロペス・ボルティーリョが来町しています。この話は次の様な続きの史実があります。徳川家康は上記ドン・ロドリゴに帰国資金と三浦按針(ウイリアム・アダムス)に120tonの外洋船建造を命じそれを提供しドン・ロドリゴ一行はメキシコへ無事に帰国できました。これを受け新スペイン(メキシコ)の総督サリナス侯は答礼と帰国資金を返却の為、1611年にセバスチャン・ビスカイノを使者として送りました。ビスカイノは答礼の目的の他にスペイン王から新スペイン総督に命じられた「金銀」を発見する為に日本の測量をするようにも命じられていました。が三陸沿岸を測量中に地震による津波で船は壊れ、帰る術はなくなり、ここに於き仙台藩主伊達政宗の登場となります。これがきっかけで政宗の命を受け1613年に支倉常長一行がメキシコ、スペイン経由ローマ法王のもとに出発した遣欧使節団となります。だが洗礼を受けた支倉常長が7年後に帰国した時は禁教令下であり常長は冷遇され、今も消息不明だそうです?? この物語は本来、両国の思惑がありもっと奥が深いのですが紙面の関係で「はしょり」ました事ご了承ください。現在両国では本年に交流400年を記念しての催しを企画中と聞いております。 

(写真は御宿町観光協会のものを引用)

 メキシコ記念塔の御宿側にどういう訳か「月の沙漠」の像があります。♪月の沙漠をはーるばると旅の駱駝がゆきました。金と銀との鞍置いて二つ並んでゆきました♪。この歌もあるきっかけが縁で出来たのです。作詞家の加藤まさを はここ御宿で結核の療養をしておりました。エメラルドグリーンの美しい外房の海岸を見ながら故郷静岡を思いはせながら詠んだ詩だともいわれています。外房(房総半島の外側、東京湾側は内房)の御宿から館山までの海岸線は風光明媚で1年中温暖で常春を感じさせます。千葉県人の手前味噌ですが・・・

(写真は御宿町観光協会のものを引用)

 「月の沙漠」から思い出されるのは ここ「月の谷」です。南米ボリビアの標高約3,700mの首都ラパス市の近郊にある「世界一高所にあるゴルフ場」の周りにあります。まるで月面を見てるような神秘的な風景です。


 昨日、テオティワカンの太陽のピラミッドと成田山新勝寺の階段の勾配を掲載しました。本日は新勝寺の正月3ヶ日に撮った階段を紹介します。総門から手水場の横を通り仁王門までの最初の急階段です。警察管が流れを制限し数分間隔で行儀良く整列させられ入場します。テオティワカンはロープが片方に一つしかありませんので自然に整列が出来ています。


 上記写真の普段の日です。手すりは3ヶ所に設置されています。個人的にはテオティワカンのマニラロープの手すりが登ったという気にさせますので好きですが。


 大提灯のある仁王門と亀がいる池の橋を通り、大本堂に至るまでの急階段です。正月3ヶ日に撮りました。約45度の勾配です。車も列車も登れません。


 普段の日に上から仁王門を撮りました。足を踏み外せば・・・・・と再確認させられます。


 やっと上まで登ってきました。正月が終わるともう節分です。相撲取りやNHKの大河ドラマの俳優が豆まきにきます。また市川団十郎家=成田屋も何か祭事があれば必ずはせ参じます。


 2007年に開基1070年を記念して建造された総門。建築形式は「五間三戸楼門・総欅造り」::ちょっと難しいので簡単に説明しますと「間口5間入り口三つの二階建」。この言い方ではやっぱり趣は出ませんよね。楼門高は約15mあります。



メキシコのマチュピチュ?謎の都市テオティワカン

2009-01-28 00:48:21 | メキシコ
 ”紀元前2世紀頃にテオティワカン人により建設されラテンアメリカ最大の都市遺跡でここメキシコ盆地(シティから約50kmの位置)を中心として紀元後8世紀頃に謎の滅亡をしどこかに消えてしまった「それらの理由は今も解明していません」とガイドブックには記載されております。全く「謎の空中都市マチュピチュ」と類似しております。「今でも解明していません」と言う専門家の表現は人間性を感じますし神秘性があり夢が広がる言葉だと思います。例え解明されていたとしてもガイドブックには載せてもらいたくないですよね。さーて、この写真の撮影場所は何所だと思われますか?次の写真の建造物の頂上に居ます。中央を横切る道は「La Calle de los Muertos」と呼ばれ「死者の道」の意味です。何で死者の道とつけたのかの記述はされていませんので現在解明中だと思います。


 そうです、上記の写真はテオティワカンの「太陽のピラミッド(神殿)」の頂上から表参道側?(順路方向側)を撮っております。頂上は4角錘では無く平たくなっています。この写真でも沢山の人が見えます。周囲には何もない標高2,000m以上の高原の中にぽつねんとそびえています。


 死者の道と太陽のピラミッドの間に壁があり、ここを乗り越え太陽の広場に出ます。1枚目の写真をご覧下さい。観光客が壁を越えて太陽の広場に入っております。太陽のピラミッドは高さ65m、底辺の1辺の長さが225mの正方形です。世界では3番目に高いピラミッドだそうです。このピラミッドは宗教儀礼を執り行う場所で頂上の平坦な場所には遠い以前には神殿があったそうです。また古いピラミッド(神殿)を覆うように現在の新しいピラミッドが建設された重層構造になっております。


 表参道(順路)からは太陽のピラミッドしか目に入りません。それは参道沿いに何所にでも居る例の物売り達が土産物を売っているハウス?があるからです。太陽のピラミッドの頂上から北側(右側)にこのピラミッドより小ぶりなピラミッドが見えます。「月のピラミッド(神殿)」と言います。高さ42m、底辺は150X130mです。死者の道の北端にあります。ここも宗教儀式に使われたそうです。


 階段の勾配がきついので命綱のロープが設置されております。息を切らせて登った人々は休憩を兼ね古の人々の文化に暫し佇み心身を整えます。そういえば月一回は行く成田山新勝寺の階段もきついですね。参拝客用に今は新勝寺にも鋼製の手すりがついています。でも元日は約300万人の参拝客がきます。この手すりの恩恵をあずかる人は殆ど居ません。 元々は無かったのです。現代の様々な形態が人を過保護にし、又、社会が責任回避の為の行為を平然と行わせ、修行や社会的道義にもとる行為が薄れて行っていると考えています。(会社のTOPの人が謝るニュースが目につきます。もっと修行をして頂かないとと感じます。また高級ホテルの料理店で毎晩飲食してる人が国のTOPでは?です。あーそう ですかではすみませんよおー。)

 
 上記「月のピラミッド」を「太陽のミラミッド」から大写ししました。ガイドブックによれば重要な儀式はここで施行されたと書いてあります。太陽のピラミッドよりも変化がある豊かな形状をしています。し低いのも少しはあったのでしょうか(下衆の勘繰り的発言で申し訳ありませんが祭儀は神官が施行したと書いてありましたので新勝寺のあの階段を年配の神官が登るのはつらいのではと思い・・・・)


 太陽のピラミッドから南側を撮ったと記憶していますが、東側(裏側)かも知れません。勾配のきつい階段を登った後でどちらだか思い出せません。こういう周囲を山に囲まれた盆地にある筆者の意図をお汲みとりくださればとお願いします。因みにガイドブックには”1万人の労働者で10年の歳月で建造したと推測されています”と記載されています。どこからどうやって割り出し推測したのでしょうかねー。シティの大聖堂が約260年ですからなんか興が冷めてしまいます。謎の都市遺跡ですから具体的な数値はない方が良いと思うのは私だけではないと思いますが。


 表参道(順路)の両側にはこのように土産物屋が軒を並べています。ただ呼び込みや勧誘がうるさく付きまといちょっと気分を損なわれさせられます。新勝寺や浅草寺と50歩100歩か・・・。ここの住民にとっては多大な収入元ですので規制が出来ないのでしょうね。殆どの品物はまがい物と思います。新勝寺や浅草寺は違いますよねー。でも日本のお札やお守り高いと思いません? どの国も50歩100歩ですねー。


 この遺跡に入るのには約3US$の入場料が必要ですが現地人の物売りは遺跡の中に多数居ます。但し堂々とは売ってなく買いそうな客を見つけ近寄ってきます。私も近づかれました。野球帽、スニーカー等、一見すればお金を持ってないと分かる格好をしているのですがなぜか寄ってきます。多分に街歩きと違いデジタルカメラで頻繁に撮影をしているからだと考えますが。いつも2台持っていて布製の靴袋(ズタ袋)にいれています。盗まれそうな所では画素数の少ない=安価なもので撮っております。


 全てまがい物ですが 掛け合いで1/3で買いました。本当はまだまだ安いのでしょうがここに来た記念と思い いつでもどこでも買いたがる習性が抜けませんし1:1のかけ引きは露店で慣れていますので楽しみでもあります。

街歩きNo.2(高級居住地区ポランコ)

2009-01-27 00:28:53 | メキシコ
 レフォルマ通りからチャプルテペック公園への入口。広さは約240haで東京23区で一番広い葛西臨海公園の約4倍の広さ、形容がちょっと分かりづらいので換言しますと「東京ディズニーランドとディズニーシー」の約2.5倍の広さを持っています。因みに東京都内で一番広い立川市の昭和記念公園の約1.6倍の広さです。ゆえに兎に角「広い森」のようです。ここも今回は見送りました。公園の中には お城、博物館、美術館や国立劇場があります。


 レフォルマ通りからポランコ地区に行く歩道です。日曜日の朝早いので車や人が少ないのです。いつもは東京同様渋滞です。メキシコシティはサンパウロ同様約2,000万人の人口を抱えます。20年前にソーナロッサを歩いた時に通勤時の新宿駅のホームもしくわ都庁へ行く地下道の人の込み合いを感じました。兎にも角にも人・人・人で歩くのが大変でした。


 周辺の高級マンションです。20年前はありませんでした。1985年にM7.8で死者7,000人以上の未曾有の大地震がシティを襲い、この辺の建物は被害にあって復興したものと考えます。


 ここも復興したと考えます。
 メキシコも他のラテンアメリカ(ラ米)諸国と同様に天然資源、特に炭化水素系(石油やLNG)は豊富です。隣国アメリカの影響を強く受け、米国及びカナダとの間に北米自由貿易協定(NAFTA)を締結しております。日本とも2005年4月1日発効の「日墨経済連携協定」(EPA)が締結され関税撤廃を目指し緊密なる経済交流が行われております。特に自動車の関税撤廃(縛りはあるが)により現在の日系4社が7社になると聞いております。車が増えると便利ですがまたスモッグが発生するのではないかと懸念します。経済発展と地球温暖化は正比例します。


 ポランコ地区の超高級ホテルです。中のロビーは広く、ここにいるだけで貴族の気分が味わえます。このホテルはインターコンチ系のホテルでその隣に日系のホテルがあります。メキシコはラ米諸国では一番の物価の高さではないでしょうか。1987年も物価は高いと感じました。


 上記日系のホテルです。20年前にはここに宿泊したと記憶しています。地震にも耐えたのでしょう。40数階の建物でメキシコシティが一望できます。


 本コラム冒頭に掲載しましたシティの景色はホテルのエレベーターホールから撮っております。チャプルテペック公園にある白い建物は国立人類学博物館です。


 カメラを右に振りました。右下の道路がレフォルマ通りです。チャプルテペック公園の中を過ぎっております。


 ホテルの裏とレフォルマ通りの間にあるタコス店と記憶しています。でも看板に書いてある挟んで食べるものは全部肉ですね。ここはメインのトッピングは肉だと考えますが。このホテル街の周辺は観光客用の各種のレストラン、キオスクや土産物店があります。グッチやディオール等のブランド店が立ち並ぶ銀座通りもほぼ目の前にあります。


 ありましたよ。アサドデティラ。アルゼンチンのブエノスアイレス市で掲載しました10 US$/kgの高級レストランで食べた物、覚えておいででしょうか。ここも高級レストランです、800g位でしょうかね。それで200ペソしましたのでおおよそ 25US$/kgです。やはり物価は高いですね。味は良ですがアルゼンチンにはちょっとだけ負けます。


ジャカランダの花風景・メキシコシティ

2009-01-22 00:40:55 | メキシコ
 ジャカランダ(西語ではJacarandaと書きハカランダと読む)ネットで検索すると原産地は南アメリカで主として熱帯・亜熱帯地帯に咲く「うぜんかずら科」の紫色の花と載っておりました。ゆえに上記地帯であればアフリカ、オーストラリア、中米、南米、北米、東南アジア及び日本にもあるとの事です。えーそうなんですか?日本ではお目にかかりませんがネットで見ると確かにありますがちょっと種類が違うような感じがします。私がメキシコシティを訪ねたのは4月上旬でもう散り始めていて桜同様木の下の道は紫色の絨毯でした。


 撮影場所は独立記念塔のレフォルマ通りを直進し高級ホテル街ポランコ地区周辺です。屋台ではタコスもあります。日本でもタコス食べたことが無いのでちょっと覗いて見たのですがクレープの小型版の生地に自分が好きなトッピング材を注文しそれを生地に巻いて食べておりました。撮りたかったのですがバス停前で色んな人達が居ましたので立ち去りました。以前も記載しましたがカメラや時計を持っているとカモです。彼らはズート好機を狙っています。ましてなお更高級ホテル街にいる外国人ですから、一応は。


 上記写真のジャカランダの大写しです。高級ホテル街ですが電線が目障りです。
 日本の目抜き通りでは例えば銀座通り等では電気線や電話線は有りませんよね。今度銀座に行かれたら見てください。歩道の下に四角いコンクリート製の箱を(幅4m*高さ3m位)構築しその中にガス管、上下水道管と共に収納されております。これを称して「共同溝」と言います。維持管理及び景観的にも良い方法です。ここもそうなればよいのですが・・・・。


 同じポランコ地区です。一歩中の通りに入りました。ジャカランダの花が散り道を埋めております。高級住宅街ですがこういう企業のPRを壁にさせる風習があるのでしょうか?敷地が広いアパート風の建物ですのでまだ規制がされてないのが現実なのでしょうね。個人の壁ならありえないことですが。但し落書きはそこら中に目につきます。


 チャプルテペック公園内のジャカランダを近くのホテルのエレベーターホールの窓から大写ししました。こちらはまだ満開のようです。陽が当たらず遅咲きだと考えます。


 ここにある木は全てジャカランダと思いますが、その木の立つ位置によりこれだけの差が有るのでしょうか?それとも人間同様早咲きや遅咲きの種類があるのでしょうか。けれど桜同様に自然界は必ず1年に1回は花を結びます。他方、パレスティナやイラク、イラン、アフガニスタン、東欧及びアフリカ等、世界各地で我々が抱える問題は日毎に顕著化しています。大国が自己のエゴのために弱者=同胞の生命を奪うような手段(戦争)は決して許されるものではありません。経済的支援も教育支援と並行してなされるべきだと考えます。経済界の重鎮の会社が世界中至る所で本体は安く売りインクで儲けるような倫理観も?と考えています。 明日のメールでのコメント受けを考えてネタにGAPをつけました。コメントお願いします。


 上記同様。それにしても電線が目障りですね。インフラ整備が経済成長に追いついて行ってないのでしょう。


 超高層ビルを背景に撮影しました。満開の時はさぞかし桜同様に絵になる風景だったと思います。旬の目安は千葉同様3月中旬頃でしょうか。


 上記大写し。大写しすると必ず電線が出てきます。メキシコシティ観光局には申し訳ない写真ですが当然考えて撮っております故、ご了承をお願います。


 上記と同じ場所でカメラアングルを90度振りました。タコスの売店キオスクが道路の左右にあります。ここもポランコの高級ホテル街の一角です。今にも落ちそうな信号機も不思議でジャカランダと並べて撮影しました。




メキシコシティ街歩き(ソカロと独立記念塔)

2009-01-21 00:21:20 | メキシコ
 朝の大聖堂です。前回掲載の写真は鐘楼部分でしたが今回はその後方の修復中のドームの部分も撮り入れました。街歩きはここソカロから始めます。


 ソカロに入り込む道路はこのように交互に一方通行になっています。交差する横の通りも同様です。オープンエアーの2階建て観光バスの向こうに見えるビルが前回掲載しました1956年建造の「ラテンアメリカン・タワー」ビルです。


 ソカロの大聖堂の反対側の入り口にある超アンティークなホテル。勿論5☆です。日本からの駐在員の方々もご存知ではなく(多分にここ旧市街のソカロは治安上の問題があるため)ガイドブックにも載っていません。偶然街歩きで見つけました。このエレベーターを見てください。二重扉式のジャバラのクラシックです。ここにいるだけで貴族になった気分です。セキュリティのチェックマンがいましたがカメラを持っていた品格の良い?日本人(何処の国の人間か聞いてきた)なので入れてくれました。ここにもごつい体をしたガードマンが見張っています。


 上記ホテルの天井にはステンドグラスが飾られております。これは昼間の写真。

 
 こちらは夜の写真。何と素晴らしいのでしょう!!パリのベルサイユ宮殿にいるような荘厳かつ厳粛な気分になります。1978年から約5年間アフリカのプロジェクトに携わってきました。その時にヨーロッパの主要都市を経由し(冷戦時でアンカレッジ経由)街歩きをしていました。ここの天井をみると過去に見た記憶が蘇ります。


 ここがレフォルマ通りです。ここに至るまでにラテンアメリカンタワー前のアラメダ公園、べジャズ・アルデス宮殿(劇場)及びタワーとレフォルマ通りに囲まれた地区のソーナロッサ(シティ一番の繁華街or遊興街、西語でピンク地区の意)を撮影したかったのですが用心し、たかがTAXIで5分の距離ですがレフォルマ通りの途中まで来ました。宿泊先のホテルはソカロのホリデイインで大聖堂の朝日の写真はそこから撮っております。通常旧市街地は危険で宿泊しないのですがホリデイイングループの会員で 75 US$/泊の会員優待サービス及び大聖堂の前横であり決めました。ゆえにTAXIシティオも毎日同じ運転手にしました。メキシコシティのホテルは東京並です。5星ホテルで安くて250~300 US$/泊です。  写真の奥の道路中央に何やらモニュメントが立っています。


 1910年に独立後100年を記念し造られたのがソーナロッサの西南の角のロータリーに建つ独立記念塔です。この辺からモダーンなビルが立ち並ぶ新市街に入り、この通りを真っ直ぐ進むとチャプルテペック公園を通り高級ホテルや有名高級ブランド店が立ち並ぶポランコ地区に至ります。車の通行が少ないのは日曜日の朝だからです。独立記念塔の上に何かの像が乗っています。


 近づいてみました。何やら鳥の羽のようです。メキシコにはコンドルはいませんよねー。  後ろの超高層ビルが前回掲載した「Torre Major」です。


 こちらは「Torre Mayor」側からモニュメントを撮りました。何だと思われます?


 そうです。天使の像です。土地の人はエル・アンヘル(El Angel)もしくわアンヘルと呼びます。因みにLos Angeles ロスアンジェルスは天使の複数形で語尾にsが付いています。しかしEl や Losは男性名詞です。女性名詞はLa や Lasです。天使は男性なのでしょうか?


 独立記念塔のロータリーの横断歩道から旧市街方向を撮っております。右側がソーナロッサです。左側にシェラトンホテル等高層ビルが立ち並びます。奥に見えるロータリーは見ての通りパルマ(やしの木)ロータリーと呼びます。

 
 こちらのロータリーは名前は 狩の女神=DIANA の泉(噴水)と言います。独立記念塔から「Torre Major」方向に有ります。上記パルマとは逆方向です。


スモッグが消えた・大都市メキシコシティ

2009-01-20 00:05:36 | メキシコ
 1987年にメキシコシティ(シティ)を初めて訪ね、今回約20年振りに再訪しました。大都会に変身し、しかもスモッグが消えて遠くの山並みが見えます。日本のODA(政府開発援助)がスモッグ減少に多大な貢献をしたと聞きました。後日に掲載しますが4月初旬の春爛漫の時期で日本で言う「桜」に当たる「ジャカランダ」の紫の花がとてもきれいでした。それにしても20年の歴史で美しい大都会に変貌しました。緑の地区はチャプルテペック公園で20年前と違い心なしか緑が鮮やかに見えます。公園越に見える超高層ビルは高さ225m、55階建てで中南米では最も高い建物です。名前は「Torre Mayor」英語では「Major Tower」でしょうか。


 メキシコと言えばカンクーン、アカプルコ及びテオティワカンのピラミッドがつと有名ですがシティではこの場所です。旧市街の中心部=中央広場=ソカロと言います。そこに凛として聳えるのが「大聖堂」です建設着工から約250年を要したそうです。スペインのバルセロナ市のガウディ作「サグラダ・ファミリア」=「聖家族教会」は現在も建設中ですが1882年着工ですので約130年の経過です。歴史を比較してもこの大聖堂の凄さは世界最大級です。


 上記大聖堂は西南方向から撮っています。本写真は東側から西向きに撮っております。大聖堂の周辺(正面にはいません)には観光客目当ての物売りが出て、アステカ文明の木彫りのお面や黄金の皿等色んな物を正札なしで商っております。以前ブラジル・サンパウロ市のノミの市で旧日本軍が南方で使用した兌換札を安価で見つけました。移住された方が持って来た物でしょうか。露店市は私の街歩きの楽しみの一つです。

 
 メキシコ国の南部はマヤ族が住み着き、ここ中央高原にはアステカ族がメキシコシティを中心に帝国を築いていました。が1521年にエルナン・コルテス率いるスペインの征服者によりアステカ帝国は滅ぼされました。この地にスペイン国の副王を置き新大陸統治の拠点となった場所がここです。「国立宮殿」と呼ばれております。毎年9月16日(15日の23時から開始)の独立記念日には広場に面したバルコニーに現職大統領が現れ広場に集まった数万人の市民に向かい「メキシコ万歳・独立万歳」と叫びます。


 ソカロの南側を撮っています。TAXIの種類は3種類あり白地に赤色のベルトが掛っているのが「シティオ」と言い指定の乗り場に待機もしくわTELでも呼べメーターも付いています。値段は一定のはずですが早く回るメーターもあります。早いと感じたらすぐ降りることです。緑色と黄色のTAXIは「リブレ」と呼ばれ流しのTAXIで適当な場所どこででも拾えます。がメーターは付いているが壊れたりしているので乗らないほうがBetterです。どうしても乗らざるを得ない時は、運転手の人相を見て、運賃の交渉をした後に乗る事です。


 ソカロの西側です。ここから西に進むとアラメダ公園を通りシティのシャンゼリゼ通り「レフォルマ通り」に出ます。後日、掲載します「独立記念塔」等のモニュメントを経て1枚目の写真のチャプルテペック公園へ出ます。


 ソカロの国旗は毎朝・夕に3軍(陸海空)の将兵により国旗の掲揚及び降旗の儀式が行われます。

 
 ソカロ東側から大聖堂と西側を撮っています。ひときわ高い建物は1956年建造の44階建ての「ラテンアメリカン・タワー」で、アラメダ公園の角に建っています。旧市街は20年前のままの風情を残しておりました。


 夜にはソカロの周囲の建物はライトアップされます。ちょっとピンボケしましたが夜の大聖堂です。


 朝の大聖堂です。鐘楼の壁の間から陽が差し込んでおります。

 
 「世界最大級の大聖堂」を再掲載します。上記2枚目の写真とは少しカメラアングルが違います。


エクアドル国最終編及び熱帯雨林地帯事情

2009-01-15 00:21:38 | エクアドル
 エクアドルの隣国で新車の最新式フル装備の消防車が入手できたと関係者が群がっておりました。活躍しないほうがBESTなのですが隊員達は自信に満ちあふれ笑みを浮かべながら写真を撮らせてくれました。明るいですねー。こういう気風いいですねー。


 鉄筋コンクリート製の主桁が老朽化し、たわんで来たので周囲にある木を加工し支柱にしています。この支柱も大豪雨で流され、その度に施されるのでしょうね。木材の残骸が残っていました。

 
 木製のトラス上路橋です。上の写真と同じアマゾンの密林に行く道路です。設計者の意気(粋?)を感じます。欄干は以前パラグアイ編で掲載しました様に注意勧告の為に壊れたままの状態にしてありました。???

 
 熱帯雨林の中に造られた道路です。雨降れば通行不可能です。延々と何100km or 何1,000km?続きます。


 時間短縮と行く途中のテロとの危険回避を考えるとアマゾン地帯へ行く術は軽飛行機にならざるを得ません。パイロットは数々の戦争で実経験を踏んでいますので約100mの直線の平地があれば離着陸します。以前ハリソンフォード主演で「今そこにある危機」と言う映画がありコロンビアのジャングルをヘリで飛ぶ場面があるのですがパイロットに生死をかけたその場面が毎回頭をよぎり、万一の場合は何所に飛び降りるか考えて乗っています。1980年初頭にはアフリカで道路の反対車線から中央分離帯を乗り越えて来た大型トラックにはねられ生死をさ迷いました。 土木技術者の使命は正に「Civil Engineer」です。その国の人々にとって不可欠と考えられるPJはアマゾンのジャングルや6,000m級の高地でも飛んで行く強固な使命感なくては勤まりません。多分に初めて遭遇する壮大な自然への興味と自然が好きだからできるのでしょう。弁解がましいのですが1/3は会社のことも考えていますし、1/3は自分の為、残り1/3はその地域の人のためでしょうか。写真の飛行機はアマゾンへ入る最寄の都市間をつなぐ定期便です。最寄の都市からは現場へは底板が抜けかけた軽飛行機 , 4WDのジープもしくわ最悪(良?)はロバになります。単独行動は絶対禁止で、場所により銃を持ったガードマンを連行します。絶対立ち入り禁止区域は「当該国の在日本国領事館の安全情報ホームページ」に掲載されております。し、パイロットや地元の人々が周知しております。

 
 南米的で親近感がある露店です。ここは海岸に近いのでブルーシートではなくパラソルが雨除けに咲いています。歩行者天国で多種の店が軒を並べ一日かけてみても飽きない(商い?)光景(好景)です。

 
 上記写真の町です。ノーコメント。

 
 クエンカ市に行く途中のアゾグエス市の丘に上に異様に大きな建物があります。 何なのでしょうか?

 
 同上。正面(裏?)からの全体写真です。サンフランシスコ教会といいます。


 昨日掲載しましたクエンカ市の「聖母大聖堂」を公園の対面から撮りました。下の写真が昨日掲載しましたものとほぼ同じです。

 
 昨日掲載しましたクエンカ市の聖母大聖堂です。多少カメラのアングルを変えています。


 
 今回をもちまして南米編を終了します。全75記事の内にコメントを頂いたのはOnly6でした。小生の独断的「考え」「思い」および「偏見」の記事も多々あると考えております。是非、読者諸賢のご教示を本ブログのコメント欄(匿名で結構です)もしくわ、小生のE-Mailアドレス: airportnarita@outlook.jp に送付頂ければと お願いを申し上げます。
 次週からは中米編で大都市メキシコを予定しております。

エクアドル国光りと影(No.3)

2009-01-14 00:06:52 | エクアドル
 南米の太平洋岸はフンボルト海流(寒流)で海水温度は冷たいのですが夏にはその冷たさにも負けず大勢の人々で「芋でを洗う」ような混みようです。チリ、ペルー及びエクアドルは特にそうです。他に南米で太平洋岸に接してるコロンビア国もありますがこちらにはカリブ海に面した海水浴場を兼ねた大リゾート地(楽園)がありますのでそちらの方に行きます。


 ここはエクアドル国の太平洋岸の地方都市です。左側が太平洋です。高層ビルも建ち並ぶ港町ですが対岸との交易は定期的なフェリーと海上TAXIです。写真右側の位置で対岸との距離(海峡幅)は目測で約500m位ですか。

 
 上記写真でカメラを右側に振りました。ここは瀬戸になっているのです。停泊している船舶は大半が帆船です。帆船の漁船は見たことがありませんし数も少ないので観光遊覧船だと思いますが。ガラパゴス行きの帆船もあると聞いたのでそうかもしれません。

 
 更に上記写真の右側です。瀬戸内の海岸を周遊する道路はなく南側に迂回しなければならないので車で約4時間は掛かるそうです。この写真では見えませんが右側(南東部)の奥はまだまだあります。


 対岸との交通手段フェリーは満載で、これ以上積んだら沈みそうな感じです。船べりは人の群れで今にも落ちそうな状態です。


 白鷺が群がっているところは栄養豊富な肥料が存在しているのでしょう。その他についてはコメントを控えます。


 近くの町にかかるトラスの下路橋です。清流とマッチして風情があります。さながらエクアドルにおける温泉地風です?橋の中央が少し垂れ下がっている感じがちょっと気になります。


 橋の床版は木材張りでしたが何だか表面が波を打っている様子です。


 床版の板はめくれ、また穴が開き車の車輪間隔に応急的に板材で補強されています。鉄骨の塗り直しもした気配はなくさびて断面は減少しそのうちに落ちるのは必然ですが予算が無いためこの状態なのです。やはり補修の順番を待っているのです。

 
 写真の最後は 神の恩恵を授かるようにと願いをこめて 教会の写真です。この大聖堂はエクアドルはもとより南米においてはつと有名です。西語での名前は「Catedral de la Inmaculada Concepcion」と言います。和訳では「聖母大聖堂」です。第三の都市クエンカ市の中央広場=アブドン・カルデロン広場に聳え建っています。ドーム状の屋根は青い色をしており幻想的な姿形です。写真は広場からではなくの背面の公園から撮っております。



エクアドル国光りと影(No.2)

2009-01-09 00:06:39 | エクアドル
 エクアドル国第一の大都市は太平洋沿岸にあるグアヤキル市です。首都キト市は第二の大都市です。数100枚の写真を撮ったのですがまた盗られてしまいました。今回は今までと違う手口でした。よくまー手を替え品を替え知恵を捻出しますよね。中南米の情報として恥を凌んで報告します。市の中央部の河川寄りに陸イグアナが数10匹歩いたり木に登って寝たりしている観光スポットの公園があります(50m*50m位の広さ)。周りには観光客らしき人々20人位おり安心して巨大なイグアナを初めて見て驚きながら写真を撮っていました。(陸イグアナの写真は後日コスタリカ編で掲載します。)シャッターチャンスを待っていたら一人の12,13歳位?の少年が背後から不意に近づき手に持っていたカメラを抜き取り一目散に逃げ去りました。泥棒と叫んで追いかけましたが近くにいた観光客は知らぬ顔で、一人の青年が追い駆けてくれましたが戻ってきませんでした。観光客風の人々の何人かはグルで青年は様子見の役だったと思っています。少年は私の手首からストラップが外れる僅かな一瞬を狙っていたのです。プロです。その手際の良さに後でいつも感心してます。ということでグアヤキルの写真は再度来訪した時に掲載します。グアヤキルはエクアドルにおける最大の港です。港は河口から約50km上流にあります。所謂ここも河川港です。第二の港がこの写真の太平洋に面した海岸港です。桟橋沿いに海水浴場があり、海水はやはりフンボルト海流で寒流ですが晴れ間のひと時を多くの人達が楽しんでおりました。


 港です。5,000~10,000トン級の大きな貨物船が接岸し、コンテナにて荷揚げをしていました。ここから約1,000km太平洋を西へ航海すればチャールズ・ダーウインの進化論で世界的に有名なガラパゴス諸島があります。赤道にもかかわらずフンボルト寒流のためペンギンやアザラシも見受けられるそうです。エクアドルには約15ヶ月赴任しておりましたが行きそびれました。いつでも行けると思うと行かないものです。ペルーのマチュピチュも自分の意志ではなく家族や友人が來秘の折に行く機会ができました。ペルーも約7年間赴任していたのですがナスカ遺跡は行っていません。もったいない話ですねー。


 前記したように最大港のグアヤキル港は河川港で土砂が堆積しますので一定期間で浚渫を施さなければ大型船舶の航行・接岸はできなくなります。よってここの港の桟橋が将来はエクアドル国の最大の港になると考えられます。桟橋の拡張工事が進行中でした。現在の船舶は3m~6m位の喫水と考えます。これを沖に延伸・拡張すれば10万トンクラスの超大型船舶も可能です。そうなれば投資金に見まう利益の確保は充分可能になります。またここまで来るまでの道路のインフラが優先しますので時間と莫大な費用がかかるでしょうけど頑張ってもらいたいですね。


 ここは前回記載しました峠を下りてきた町の近くに位置します。いかにも100年は経過したようなコンクリートの橋台や橋脚でできた芸術的な建造物です。建設当初は橋桁や床版もコンクリート造りでしたのでしょう。

 
 が、ある日大洪水が来て流されたと想像します。現在は丸太を主桁材(大引き)にし四角い木材(角端太と言います)を横桁(根太)にし木製の板材を敷いて車両が通行しています。中央部が欠落しているのは誰かが持っていったのでしょうか?


 牛や馬の通行量が一番多いので上記の橋は補修されないのでしょうか?否、これより優先される橋が多数あるので気が長くなる程の順番を待っているのです。当然、牛や馬は農民にとっては宝ですから川の浅瀬を通行せざるを得ません。

 
 やっぱり影の部分は=「貧困」からきます。少しでも神の恵みを授かるように 「教会」の写真を掲載いたします。ここはエクアドル第三の都市クエンカ市に行く途中に立ち寄ったアゾグエスと言う町の中央広場前です。中南米では中央公園にあるカテドラルは「厳粛な憩いの場」です。だから土地の人々は日曜日には着飾って教会に行くのです。



エクアドル国光りと影(No.1)

2009-01-07 00:07:02 | エクアドル
 エクアドル国の首都キト市からコトパクシ山を撮っています。両側を山で囲まれた縦に長い街で飛行場が北側の街外れに有る為、空路は市南側のコトパクシ山の右側から写真の中央右よりの青色のビルの上を通過してきます。以前には飛行機がビルに激突したこともあったそうです。確かに街の約100m上空を大きな飛行機が轟音をたてて飛んで来てます。観光客等外国人は身構えをし出来るだけ飛行ルートには入らないようにしていますが、キテーニョ(キトの人々)は日常の習性で泰然としておりました。この付近は新市街で南西部に中南米特有のスペイン風建築の旧市街があります。

 
 同上大写し。説明を付けなければ「富士山」といってもうなづかれる人は結構な割合でおられると思います。
 この写真は前回掲載しました通称「エクアドル富士」と呼ばれるコトパクシ山5,896mです。

 
 コトパクシ山が余りにも富士山と見間違う程のカメラアングルでしたので逆光でシルエット写真になりました。 正真正銘のコトパクシ山です。飛行機内からの写真でお見苦しい物は機材の窓の掃除が成されて無いのもが多少あると考えますが?(腕も多分にありますが)


 一方、ここは陸路のペルーとの国境の入り口で太平洋側にあります。イミグレ・税関が国境付近に一切無く日帰りなら出入国手続きの必要を感じません。但し、宿泊するならばかなり遠くの町外れにあるイミグレ・税関での手続きは当然必要です。国境周辺の人々は自由勝手に往来しておりました。つい最近まで国境問題で戦争していた両国なのですが一般市民は平和で友好的です。コロンビア国との国境はコロンビアのテロ組織FARCが入って来ているのでもっと厳重でしょう。ペルーもSLやMRTAと言ったテロ組織はありますがアンデス山脈地帯が活動の本拠地でここ太平洋岸の国境までは来ていません。国境を自由に出入りが出来る安全な治安なのでしょう?否、キト市のビルの上を通過する飛行機と同感覚で日常に入り込んでいると考えます。国境警備兵もいないこういう光景は初めて見ました。

 
 こちらはペルー側です。エクアドル側の方が活気があるように感じますが、どっちもどっちです?ただ歩道で物売り台を出しているので通れませんし、橋の上で飲食しゴミを捨てるのだけは頂けません。雨季には一掃されるとは思いますが終着地は太平洋です。これでも徐々に改善しているとのことですが次写真みる限りでは??です。彼らは貧しくて生活が大変でその様に教えられなかったのです。逆に汚いものは川に捨てなさいと教わってきたと思います。教育の格差が大きく影響していると考えます。

 
 この橋が国境の「友好の橋」です。長さにして約30mくらいです。橋の両端に上記の看板があります。この橋はブラジルとパラグアイの広大なパラナ川に架かる「友好の橋」とは比較の対照にはなりませんし比重が全く違います。が往来に関してに言えば超友好的と言うか秩序が無いというか他国の国境風景とは異なり緊張感は全くありません。大国の介入により国際間の格差が貧富の差を生み国際間の摩擦を生じさせております。それ故に仕切り(国境)が必要になりました。このように自由に往来ができる国境なしが早くくればなあーと感じます。


 キト市から車で西部の太平洋に出るルートや南部のリオバンバ市やクエンカ市に行くルートはアンデスの3,000m超級(ほぼ富士山と同じ高さ)の山岳道路を通行する為、朝晩は霧や雲が立ちこめます。因みにエクアドル国で最高峰はリオバンバ市の北側に聳えるチンボラソ山6,310mです。

 同上

 同上。視界は約50mくらいでしょうか。スピードを出さないので事故が無いことと木々や植物の自然の生育には多少のメリットはあるように感じます。周囲の緑が活き活きしております。でも車は低速で走るのでCO2排出量は多いと思いますがお日様が顔出すと雲散霧消するのでしょうか?多分、周りの緑が吸収していると考えます。

 
 山を下った最初の町です。川の両岸からパイプやコンクリート管が突き出し川に流出しております。地方行政のインフラ整備は未ーだ未ーだです。都市部と地方部での貧富の格差は歴然です。

 
 こちらはキト市から南部の町です。コトパクシ山の麓にあります。100年確率の噴火の時期は過ぎましたのでいつ爆発しても不思議ではありません。それでもこのように住まざるを得ない現状だと考えます。