土木技術者が撮った中南米の「光りと影」の写真 及び 他国風情

 約22年間の中南米赴任中に土木技術者の視点から撮った写真。開通前のパナマ運河に架かる第二アメリカ橋は圧巻 & 他国事情

中南米へのGateway NYC,ニューヨーク市 & State of New York

2009-03-31 22:56:11 | U.S.A(NY,LA & Others)
 私にとっての最初のNYC訪問は1979年でした。約30年経ちました。その間、幾度となく訪れ1996年には50年ぶり?の大雪にも遭遇し空港閉鎖及び航空券の変更で約1週間、お陰でNYCをくまなく見る事が出来ました。その写真がある理由?で無いのが残念です。大勢のNYC経由で中南米へ行く団体旅行者は空港内に余儀なく待機=野宿させられ(雪で交通止の為)旅行がキャンセルされたと小耳に挟みました。団体旅行者の日程は緊密でゆとりが無いためこういうトラブルが生じた場合はやむをえない事情となり得ます。こういう不可抗力をフォースマジュール(Force Majeure)と言い旅行会社は免責扱いになります。国際契約には必ずこの文言は入ります。戦争、地震、台風やテロ等の予期できない事象に対しての免責条項です。閑話休題、NYCに着いたら①エンパイアステートビル②パンナムビル③自由の女神像を見る事です。今でもその雄姿は約30年前と何ら変わっていませんでした。また下記の説明に番地が入りますがNYCも簡単でミッドタウン(マンハッタン中心部)は南北がAvenue(Ave.)で東西がStreet(St.)です。Streetは5番街で東西に分かれますしブロードウエイがマンハッタン島を北西から南東に斜めに走っています。Avenueは1~8で3番街と5番街の間にレキシントン、パーク及びマジソンAve.が入ります。


 エンパイア・ステート・ビルのエントランスフロワーです。この壁画は沢山の映画に登場しました。古くは「めぐり逢い」や「スーパーマン=クラークケントのデイリープラネット社のオフィスビル」等です。

 
 同上、別の角度から撮影。場所は5番街のW33丁目とW34丁目の一角にあります。

 
 86階の展望階のオープンデッキからその上の電波等を撮影しております。後ほど紹介しますがこの地上381mのオープンデッキは金網を張ってあるだけで高所恐怖症の人にはお薦めできません。因みに電波等の頂上までは443mあり日本ならば約150階建てで都庁の約1.82倍の高さです。


 80階でエレベーターを乗り換えて多少歩き86階行きのエレベーターにのります。この写真はその逆で降りる際に見た80階層のむき出しの構造体(柱,梁,床,壁)です。1931年竣工から約78年経った今日でも充分に維持管理が成されて元気そうに見えました。


 エンパイア・ステイト・ビルの夜の照明の色はそれこそ色々あり、その色の組み合わせで「何の記念日」とか「何の目的」かが分かります。


 エンパイア・ステイト・ビルと並び尖塔のある美しい建物がこのクライスラービルです。1930年(エンパイアSビルの1年前)に建てられた77階建てのビルです。尖塔の部分に特徴があります。レキシントン街(Lexington Ave.)のE42丁目とE43丁目に有ります。42丁目通りには有名なグランド・セントラル駅があります。この写真では左下側に写っております。

 
 尖塔の部分はこの様に「うろこ」状に飾られ、全てのうろこは錆び付かないステンレススティール製です。

 
 上記のライトアップ夜景。このビルはこの色のみだと思います。


 数々の歴史を刻んできたパンナムビル(現メットライフビル)です。パークアヴェニューの道路をふさいで建っています。この写真は南側から撮っていますので、写真の1ブロック左側がマジソンアヴェニューでその次が5番街です。


 メットライフビル(旧パンナムビル)の南側にあるグランド・セントラル駅です。


 グランド・セントラル駅の内部です。ここも数え切れないほど映画の舞台になっており無数の名作が誕生しています。1913年の建造で1998年にリニューアルされました。ホームは全て地下になっております。


 自由の女神像に向かう観光船上からマンハッタン島を撮影しています。以前は右端に2本の大きなビルがあったのですが残念です。上記記載の尖塔を持った2つのビルご覧できるでしょうか?


 マンハッタン島を少し離れると緑多き大自然の中にFREEWAYが走っています。上り線と下り線は離れており片道3車線で広くて何所までも続いており自動車国家の繁栄を象徴しておりました。現在の自動車業界の衰退を誰が予想したでしょうか?緑はCO2を吸収し光合成しますので国土の広いNY State は房々とした自然が息づいている様に見受けられます。が他方、地球温暖化を増長させているのも否めないでしょう。自動車業界や大企業の理念である「環境に優しい・・・」の時代が優先されようとなってきております。

 
 NY州にもこのような桜?のような花はあります。もう散りかけている様子ですね。

 
 松もあり、また白い木はDogwoodと北米で呼ばれるハナミズキだと思うのですが。白いハナミズキの前に桜が開花します。



中南米へのGateway ロスアンジェル市(No.2)

2009-03-27 00:25:41 | U.S.A(NY,LA & Others)
 LAで人気のスポットはやっぱりハリウッドでしょう。ハリウッド大通り=ハリウッド・ブルバード(Hollywood Boulevard)で先ず最初に訪れるのがここチャイニース・シアターですChinese Theater。何やら大勢の観光客がこの建物の前でかがみこんで地面をみています。


 そうですハリウッドスターの手形や足形がコンクリートの中にあります。大きさはマチマチですが平均1m四方です。この1953年6月26日に作成されたものは「マリリン・モンロー」のものです。全て本人の肉質で名前や文字が描かれています。


 こちらは「ソフィア・ローレン」のものです。1962年7月26日作成。


 上記2枚の写真は上下に貼られていました。


 こちらは「アーノルド・シュワルツエネッガー」州知事です。1994年7月14月作成。


 このハリウッド大通りにはアメリカンドリームを実現させたスターがこのような車で乗り着けます。


 上記リムジンジープの後方にあるKodak THEATREビルです。この中でアカデミー賞の授賞式が行われます。


 アカデミー賞授賞式の時はハリウッド大通りは通行止めになり、大通りからこの階段に赤い絨毯が敷かれます。通常「レッドカーペット」を歩くとか言えばこの事です。今年の邦画「おくりびと」の面々もゆっくり祝福されながら歩いたことでしょう。


 またこの通りの歩道には映画やTV等のエンターテインメントで活躍した人達の名前と何のエンテーテインメントで活躍したかをブロンズ製の星型の模様で描かれおりきその中央の絵文字で分かります。この通りを「The Walk of Fame」=有名人の歩道 とでも言うのでしょうか。


 例えばこれは「スティーブ・マックウイーン」で映写機のマークですから映画で活躍したスターです。


 この複合エンターテインメント施設ビルは上記Kodak THEATREの東側に隣接してあり「ハリウッド & ハイランド」と言う新名所です。


 上記「Hollywood & Highland」複合施設ビルから遠く向こうのグリフィスの丘に掲げられたあの有名な「HOLLYWOOD」のサインボードが望遠できます。


 ここがビバリーヒルズのメイン通りの「ロデオ・ドライブ」Rodeo Driveです。
世界の超一流と言われている服飾のブランド店が軒を競っております。正面の灰色の建物がTiffanyとその隣のGucciの文字は見えます。下記Hotelの横側から撮っています。


 ビバリーヒルズを代表する超豪華ホテルです。名前は「リージェント・ビバリー・ウイルシャー」Regent Beverly Wilshire ホテルと言います。この名前を特に有名にしたのはリチャード・ギアとジュリア・ロバーツのロマンティック・コメディ映画「プリティ・ウーマン」の舞台になったからです。このHotelの対面に上記ハリウッドのMain StreetのRodeo Driveがあります。


 ホテルのトイレの前の通路の壁にその映画のポスターが貼られていました。約20年経ちます。2人とも若いですねー。


 ハリウッドからビバリーヒルズをつなぐサンタモニカ大通りSanta Monica Blvdを南西方向=太平洋に突き当たったところがサンタモニカ海岸です。


 何と桟橋を支えている杭は木製です。車は途中にある駐車場までで、そこから路面は板張りになっております。下の写真の様に小さな遊園地とメリーゴーラウンドがあり昔懐かしいノスタルジアな風景です。


 上記、桟橋は奥まで板張りになっておりこれもまたノスタルジアを感じさせます。


 奥の常時海水に浸かる桟橋の支持杭の界面にはこのように貝殻が付きます。ちょっと見ずらいのですが木杭ではないですよね。(最近SteelをWoodに見せかけた擬似杭もあります。多分、鋼製だと思いますが次回確認します。)ここから遊園地が見えますし海水浴客の姿も見えます。


 有名なサンタモニカ海岸です。堤防側が駐車場になっておりきれいな白浜が延々と続きまた遠浅で沢山の人達で賑わいを見せておりました。


 桟橋の先端の展望室からサンタモニカ海岸を撮っています。ロスアンジェルスの人々にとっては湘南海岸や外房海岸なのでしょう。


これをもってロスアンジェルス編は終わり、次週からはNYを掲載します。

中南米へのGateway ロスアンジェルス市(No.1)

2009-03-26 00:15:37 | U.S.A(NY,LA & Others)
 ロスアンジェルス国際空港(LAX)です。米国の航空機会社以外はここ通称トム・ブラッドレー ターミナルからの離着陸となります。LAXのランドマークのアーチ型で十字に組まれた構造物が目に入ります。いったい何なのでしょうか?


 上部の宇宙Station見たいな所にEncounter(エンカウンター)と言うレストラントがあるとのことです。この構造物の名称は「エンカウンター」と言います。夢がある名前を期待していたのですが そう とTAXIの運転手に返答しました。今後もロスアンジェルスアーチと呼ぼうと思っています。


 空港からダウンタウンまで約30kmの距離ですので、通勤ラッシュに会わなければFreeway経由で約30分で着きます。ダウンタウンの中心地にあるGrand Avenue(その名の通り「大通り」)には摩天楼が天に向かいそびえ立っています。この近代的なビル群を見ても何も「暖かさや」や「やすらぎ」を感じ得ないのは私だけでしょうか?


 ダウンタウンの東側、徒歩で約30分の所にあるリトル・トウキョウ街の対面には日系のホテル、デパート、スーパーや飲食店があり東京の下町的雰囲気です。殆どが日本人観光客で日本語が飛び交っています。任地で本当に困っている日本人には手を差し出しますが、マナーが今一の集団旅行者が大勢居ましたので早々に立ち去りました。


 ここはリトル・トウキョウの北側入口(or出口)にある大きな火の見「櫓」です。最近日本では見かけられません。木造建築物で風情はあるのですが、失礼ですが私の個人的な感じ方は ちょっと の感じがしました。でも苦労されてここまで日本の為に頑張ってこられた皆様には「郷愁の想い」が私の様な腰掛けとは違い有るのでしょうね。無礼の段お許しください。


 リトル・トウキョウから西側=Grand Avenueへ徒歩約10分でこの頭部が国会議事堂ににた「市庁舎」があります。この前の通りが「1番通」=1st Streetです。ここから南へ数字が大きくなり「3番通」3rd Streetから「8番通」8th Streetにダウンタウンの中心である摩天楼があります。


 市庁舎から「3番通」へ行く途中にあった建造物の擁壁(土の圧力を受けている壁)です。鉄筋コンクリート造でコンクリートの型枠が木製で表面は木目が見えています。また壁の目地=型枠の継ぎ目 に はみ出したコンクリート片もそのままの状態です。目抜き通りですので「自然の美」を意識し木目調や凹凸をつけられたのでしょうか?または将来は草木で覆い被されることを想定されたのでしょうか?最初見た時は「何とぶざまな」と思いましたが、立ち止まって数分見ている内に次第に「なかなか芸術的な作品だなー」と思えてきて自然に顔が緩んできました。日本なら即業者呼んで「お叱り」と考えます。 このオーナーはユーモアではなくこの作品の芸術性を分かる人に見せたかったと推測します。お陰で気分が晴れやかにさせられました。今度訪ねた時はお礼を申し上げます。

 
 上記からGrand Avenueとそれに並行に隣接する通りは丘の上にあります。よってこのようなトンネルが造られて一部分その上に白い小さなビルが建っています。通常は道路ですが土被り(トンネル頂部と地上までの高さ)があるので有効利用したのでしょう。


 トンネルの横にはケーブルカーがあります。名前は「Angels Flight」天使の飛行といいます。が1990年代に事故があり運転していませんでした。上下線で軌道の中央で交差するようになっております。


 ケーブルカーの横の階段を上った所が、この掲載写真の三枚目の摩天楼の横の人工の池と公園になっており人々のオアシスになっております。公園の名はCalifornia Plaza(カリフォルニア広場)と言います。


 Grand Avenueと市庁舎前の1st Streetの交差点から南東側の摩天楼を見ております。正面右側の抽象的なオブジェがある建物はウオルトディズニーコンサートホール(Walt Disney Concert Hall)です。


 上記写真よりもう一ブロック北西側のミュージックセンターコンプレックス(Music Center Complex)から摩天楼を撮影しています。この建物は複合施設(Complex)で劇場、展示場や会議場等があります。

 
 ダウンタウンの駐車場は満杯で近くのビルの跡地が遠方通勤者の駐車場になります。車社会の米国の実情を垣間見たように思えます。無理とは承知ですが、ここも公園になってくれればと願っています。


 このMusic Center Complex の道路を隔てた反対側に群庁舎と群裁判所がありその間には市庁舎の一ブロック手前の通りまで公園が横たわっております。中ほどに大きな噴水もありここも人々の憩いのオアシスです。


 Grand Avenueとは擁壁で仕切られ=高さを調整し、ここから市庁舎側に下がり勾配になります。色鮮やかな四季の花で飾れており庭園です。自然と調和or共生できる都市造りを段々取り入れてきていると感じています。この白い花は北米原産のハナミズキだと思います。

ドミニカ共和国(No.3)

2009-03-24 00:28:21 | ドミニカ共和国
 訪問時期は2004年の4月と9月でちょうど大統領選挙の前後に当たりました。ここは旗の色で政党が分かります。今回は紫色のフェルナンデス氏の第二回目の大統領が決まりました。(ちょっと定かではないのですが、以前はサトウキビ畑で働く貧困者が多く文盲率が高いため投票用紙を名前ではなく色で選ぶ方法にしたと聞きました。)1990年代の後半まで中南米の諸国は米国の影響が強く米国の経済に大いに影響されます。2,000年初頭から南米ではベネズエラのチャベス、ボリビアのモラーレスやブラジルのルーラー大統領等また他国も、米資本系企業の自国での資源の享受に敵対感を抱き反米色を強く打ち出しております。ドミニカ共和国は親米ですので米国の影響をまともに受けます。2,004年はちょうど経済の泥沼の時期でありました。写真はサントドミンゴの市街地をちょっと出ると(国の南北は平均約100km,東西は約500kmの横長の国)そこは熱帯雨林地方の様な密林が茂っておりました。


 市街地の海岸通りから車で北へ約20分の所に広大な植物園があります。そこには上記亜熱帯地域の森林や花が生茂り園内は有料にて開放されております。その中に、一際目をひく「日本庭園」が、どういう訳かあります。 

(Panaramioから写真引用)
 
 この「日本庭園」はここの植物園の目玉の場所で現地人はもちろん、外国からの観光客で終日賑わっております。園内はディーゼルエンジン?のトラクターで牽引された約30人乗りのトロッコ車で観覧もできます。この「トレン」trenと呼ばれる貨車(西語、英語のtrain)では必ずこの「日本庭園」では乗客は下車して見学するようになっています。

(Panoramioから写真引用)

 2,004年はドミニカ共和国にとって経済的に建て直しを図るべくIMFとのスタンバイ(資金援助)協定に基づき財政、金融、インフレ抑制政策を着実に進めて来ました。2,005年からの経済成長は2桁に届きそうな値にまでになりました。が、現在は2008年の米国のサブプライムローン問題を端に発した金融危機にまたもや直面しているものと思われます。ちょっと市街地を離れるとインフラの整備が追いつかず川には汚物が漂っています。


 前回旧市街から見えたコロンブスのこの島の発見から500年を記念して建設された巨大な建物の正面(旧市街地側)の大写しです。下駄の形に見えますこの横幅は50mあります。高さは30mです。

(Panoramioから写真引用)

 横方向から撮りました。下駄の形の頭部から長い建物が横たわっております。長さは240mあります。 この建物は「コロンブス記念灯台」= El Faro a Colon と言い、中は博物館になっており、世界各国のブースがあり歴史や文化の紹介をしています。またコロンブスの遺志を受け旧市街の大聖堂に安置されていた棺もここに納められております。

(Panoramioから写真引用)
 
 上空から見た写真が無いので一見出来ないのですが、この構造物は上からみると十字架の形をしております。毎週週末に空に向けて光が放たれます。空が曇っていればそこには神秘的な「十字架の光文字」が現れます。

(Panoramioから写真引用)

 ラス・アメリカス国際空港の小さな半島のサントドミンゴ市とは反対側に位置(東側)するボカチカ海岸です。ここも民間ホテルがプライベートビーチを持ち「飲み食い放題」システムです。がその隣には一般人用の海岸もあり週末は家族連れで賑わいます。

(Panoramioから写真引用)

 ボカチカから約100km(サントドミンゴから約130km)更に東に行くとラ・ロマーナLa Romanaと言う町に到着します。ここの海岸沿いにこの国最大のリゾート地「カサデカンポ」Casa de Campo と言うところがあります。そこから海岸沿いを車で約20分位のところにある絵に描いたような「バジャイベ海岸」Playa Bayahibeです。

(Panoramioから写真引用)

 「カサデカンポ」にあるゴルフ場の名物Holeです。海の入り江越のショットになります。ここの海岸の地形を活かしたこういうコースレイアウトで世界百選ゴルフ場の上位にランクされております。コース内には近隣諸国からのボーイング727クラスの飛行機が離着陸する滑走路が横切っております。宿泊施設もいれ約28haあり東京ドームの約6倍の広大なリゾート地です。主として欧米人の避寒地となっております。自家用機で乗りつけるハリウッドスターもいます。

(Panoramioから写真引用)

 ラ・ロマーナから約40km更に東に行くと「サオナ島」があります。その周辺の海です。この付近の人々は大半が観光業に従事しています。以前は空港から東側はサトウキビ畑でキツイ労働を強いられていたと聞きます。が近年リゾート化が進み職業もシフトしております。

(Panaramioから写真引用)

 一方、サントドミンゴから北西の第二の都市サンチャゴ方面の途中の(サントドミンゴ市から約140km)山の方に目を向ければ、この国唯一の高原野菜を生産している市があります。東京の山手線内の面積が約6,000haですからその1/4の面積の約1,500haが畑地です。新鮮な野菜はサントドミンゴやサンチャゴ等主要都市に毎日運ばれておりこの国の国民の生活を支えております。

(Panoramioから写真引用)

 この畑は何?でしょう。葉はニンジンに似ています。中南米ではこれで作ったスープは格別な味です。「にんじん」ではありません。「アホ」といいます。「ソパデアホ」と言えばどんなレストランでも出してくれます。そうです「アホ」は「ニンニク」で「ソパ」は「スープ」です。つまり「ニンニクスープ」です。その他「パンデアホ」=フランスパン切片をニンニクで味をつけ揚げたツマミです。この高原で飲んだこのスープやパンの味は最高でした。主として日本人が生産しております。今から約53年前に移住された方々で今ではドミニカ共和国の経済や農業を支えて居ります。移住当時は大変な苦汁で冷酷な生活を強いられたと聞いております。中南米では多くの移住された方が、その勤勉さや誠実さで当該国の国民から敬われております。私みたいな短期業務従事者も”どこの国の人間か?”と訪ねられ「日本人」と答えると尊敬のまなざしで見られます。移住され、計り知れない苦労をされた皆様に敬意を表しますと共に感謝を致しております。今後とも宜しくご指導をお願いいたします。

(Panaoramioから写真引用)

 今回で中南米12ヶ国の掲載は終了します。
 次回からは中南米、特にカリブ諸国とブラジルのゲートウエイとなる米国のニューヨーク市と中南米西海岸と中央部のゲートウエイであるロスアンジェルス市を掲載し 一旦ブログを終了いたします。

ドミニカ共和国(No.2)

2009-03-17 00:13:17 | ドミニカ共和国
 前回の写真よりサントドミンゴ側です。マリーンブルーの海が続きます。このような美しい海が北側や東側の大西洋側岸にも延々と続き、観光立国としての地位を確保しつつあります。また農業国(砂糖・カカオ、コーヒー、タバコ等や最近はコショウや米も生産)としても自活の道を歩んでおります。この国の殆どのリゾートホテルはAll charges included でチェックイン後、手首にビニール製の輪っかをはめさえすれば飲み食い放題のシステムです。特に有名な飲み物は「ピーニャコラーダ」という当地産のラム酒にパイナップルジュースやシロップを加えたカクテルです。また「プレジデント」と言うビールは注ぎ方次第で粒状の氷になります。アルコール度が強く記憶ではラベルには7%以上と書いてあったような気がします。(通常は何%未満or何%と表示しますが)ここ熱帯海洋性気候地域の美しい海を見ながら飲むこのビールは格別な美味しさで病みつきになりますので痛風には大敵です。


 前回掲載しました海岸通りのオベリスク(オベリスコ)です。この奥(左上側)に旧市街があり突き当たりにオサマ川があります。オサマ川河口にそびえるサンスーシーの灯台も見えます。市街地に近づくと海のマリーンブルーの色があせてきます。原因の一つは下記です。

(Panaramioから写真引用)

 サントドミンゴ港(=オサマ港)です。オサマ川の河口に位置します。対岸の突堤は人工島で、サンスーシの灯台はこの突堤の左側奥の小さな半島の先端に位置しております。上流で雨が降ると川はこういう状態です。サントドミンゴ市は市の東側のオサマ川と西側のハイナ川(この河口には大きな港があり日本からの貨物はここに到着します)と2つの河川で囲まれていますが市上部の住宅地や工業地を流れるイサベラ川がオサマ川に合流していますので大半の降雨はここに流れますのでこの流域はこういう状態です。年間を通して降雨はありますが5月から10月は多く、またハリケーンも上陸します。そういう時は淡い黄土色の川ではなく泥色に染まります。経済成長にインフラ整備が付いていってない現状と考えます。

(Panoramioから写真引用)

 さて旧市街に戻ります。スペイン広場の海岸側のオサマ川岸に日時計がありました。その正面にこの建物はあります。ラス・カサス・レアルLas Casas Realesと言いコロンブスが発見した1,492年から英国、仏国や蘭国のカリブの海賊の侵攻をを受け、フランスがこの島の西部に侵入しスペインから侵入地域の割譲を受けその後1,795年に占領しました。1,804年にハイチが独立しハイチの支配下であった1,821年までの約330年間歴代の総督が住んでいた官邸で現在は有料の博物館となっております。ドミニカ共和国のハイチからの独立は1,844年2月27日です。空港からのラス・アメリカス道路がオサマ川を渡ってサントドミンゴ市街地に入り第二の都市サンチャゴ市に行くドウワルテ高速道路までの区間は街の幹線道路で2月27日通りとなっております。この博物館はコロンブスの大西洋航路を示す大きなパネル、帆船の模型や当時の日用品が展示されております。武器の部屋には何故だかその当時交流のなかった日本の甲冑や刀がありこれらはメキシコ人から買い集めた物と言われています。

(Panoramioから写真引用)

 日時計や王宮博物館から一区画ラス・ダマス通りを海岸方向に歩いた右側にあるパンテオンです。1,714年建造の教会で1,955年に現在のパンテオンとなり歴代の総督、大統領や国民的英雄が安置されております。衛兵の交替式が2時間おきに行われ見学はFREEです。この燃えている灯り絶える事は有りません。

(Panoramioから写真引用)

 パンテオンから一区画海岸通りに行ったオサマ川岸に建っております「オサマ砦」です。コロンブス家に変わりこの地を統治したニコラス・デ・オバンド総督が1,505年から1,507年にかけてカリブの海賊達から守るために築いた要塞で、写真は見張り用の建屋です。有料で上まで登ればオサマ河口やサントドミンゴ港を一望に見下ろせます。

(Panoramioから写真引用)

 日時計のある場所からオサマ川越に対岸を見ると、何やら巨大な白い建物がそびえております。先に掲載したように1,992年はコロンブスがこの島を発見して500年キント・センテナリオにあたります。その記念行事で6年の工期にて完成させた全長240m、幅50m、高さ30mの巨大な十字架の形をしたピラミッド風の建物です。この建物には夜になると面白い仕掛けが現れます。何でしょうか?次回紹介いたします。

(Panaramioから写真引用)

意欲に燃えたコロンブスが最初に発見した島、ドミニカ共和国

2009-03-12 00:05:30 | ドミニカ共和国
 この色をマリーンブルーと呼ぶのでしょう。この海は海賊で御馴染みの「カリブ海」です。この陸が突き出た半島がラス・アメリカス国際空港です。ここはコロンブスの第一回航海(1,492年)に発見されたイスパニョーラ島の右側2/3を占めるドミニカ共和国です。ドミニカ国と言うのもここカリブ海にありますのでドミニカ共和国と必ず言います。またサミー・ソーサーやペドロ・マルチネス等大リーグ野球選手を多く輩出した国でもあります。カリブ海の国ではキューバに次ぐ2番目に大きな島で、ドミニカ共和国自体は九州と沖縄を足した約48,500km2の大きさです。
 上記の様な由緒のある歴史の街、美しい海に囲まれたビーチリゾート地及びメレンゲの喧騒なダンスに象徴される陽気な人々が暮らす国なのです。


 他のラテン国同様、スペイン人が築いた旧市街と新市街とに区別されます。コロンブスは1,493年の第二回航海で島の北西部にラ・イサベラと最初の町を造り、彼の黄金を求めての探検が始まるのです。当初、彼らはスペイン国から西に行き黄金の国ジパング(日本)を求めバハマ諸島→キューバ→イスパニョーラ島に辿り着き、原住民が金の装身具を着けていたことからここをジパングと確信したと言われています。今でもカリブ海の地方を「西インド諸島」と言うのはコロンブスは西回り航海でインドを目指し現在のアメリカ大陸を発見し、そこをインドと思い込んだ事により由来すると言います。し又、そこの原住民をインディアンと名づけたとも言います。この写真は平たく言えば”ガッツポーズ”して「新大陸方向」を指差し、旧市街の大聖堂前のコロンブス公園の中央に鎮座するコロンブス像です。後方の教会が1,540年に完成した新大陸最初の教会でサントドミンゴ大聖堂です。

(Panoramioから写真引用)

 旧市街はカリブ海と空港からサントドミンゴの市街地に入る手前のオサマ川河口との一角に位置します。そのマレコンと呼ばれる海岸通りから見た東(空港)側の日の出です。写真中央の建造物はオサマ川河口東側の突端に立つサン・スーシーの灯台です。


 マレコン(海岸通り)と旧市街の境目に立つオベリスクです。この壁面の図柄は他の国とは異なっていますし、時々柄も変わります。陽気なお国柄であまりランドマークにはしていない様子です。


 1,492年から500年過ぎた1,992年に企画されその後建造されたマレコンに建つ「V Centenario」=キント・センテナリオ=5世紀 と言う名のホテルです。ドミニカ共和国にはラスベガス同様のカジノがあり海岸通りの高級ホテルは全てカジノを備えております。


 マレコン(海岸通り)です。道路を隔てて高級ホテル、ショッピングセンターやレストランが立ち並びます。海側はこのように遊歩道になっており途中にレストランもあり落ち着いて海を見歩きできるようになっています。


 旧市街のスペイン広場のオサマ川側(東側)に建つ「アルカサール」Alcazar de Colon です。コロンブスは1,496年に弟のバルトロメを臨時総督に任命し帰国しました。バルトロメは同年に新都ヌエバ・イサベラをオサマ川対岸(東側)に建設しましたが、1,502年のハリケーンで破壊され、また色々な諸問題が生じて新総督ニコラス・デ・オバンドに交替し、オバンドがここオサマ川西側に新都を造り直しました。アルカサールは1,496年にコロンブスの息子ディエゴが私邸として造らせた館で、全て石造建築であり、現在は博物館になっておりディエゴが使った家具等が有料で閲覧が出来ます。スペイン広場の中央にはニコラス・デ・オバンドの像が建っております。

(Panoramioから写真引用)

 スペイン広場の海岸側に建つ新大陸最初の日時計です。この前の通りはLas Damas ラス・ダマス=淑女と言い、当時、鮮やかな装いをした女性が往来したことから由来しています。オサマ河岸は要塞になっており、このように大砲が今も残されております。

(Panoramioから写真引用)


中米と南米の架け橋 第二アメリカ橋=センテナリオ橋

2009-03-09 00:36:53 | パナマ
 中米と南米を結ぶパナマ運河に架かる第二アメリカ橋でその名は「センテナリオ橋」と言います。2本の主塔から斜めにケーブルで橋桁を保持して(引っ張って)おります。2004年の4月初旬で開通の約4.5ヶ月前の写真です。この時点では橋の建設は終わっており両端部の道路の仕上げ工事を行っていました。日本人青山士が参加したパナマ運河に架かる新しい橋の上から運河を眺めるととてつもない難工事に立ち向かわれて行った先輩諸氏、曰く「土木技術者の心意気」に改めて感服すると共にここに居ると感動を覚えます。土木技術者は通常土木家とは呼ばず土木屋と呼びます。が建築技術者は建築家と呼び建築屋とは呼びませんしまた政治家も通常は政治屋とは呼びません。昨今、とある政党の代表等の献金問題が取り出されています。この運河の写真を見る度に、年々、純真無垢な「土木技術者」が少なくなって行ってるような気がしています。
 この写真は太平洋側車線から北方向を撮影しています。


 同上、大西洋側車線から北方向を撮影。


 主塔から張られたケーブルのアンカー部分(橋桁を保持している部分)


 橋の南側でかつ太平洋側からの全景写真です。背景の空と同色で見難いのですが、本当に美しい「斜張橋」です。


 橋の南側からパナマ運河越に橋桁と主塔を撮っています。橋桁(床版)は複数のブロックにて主塔から出された斜めのケーブルにより一個づつ保持されています。

 
 同上南側の主塔及び橋桁(床版)を撮っております。


 同上、運河の船舶上からの写真。この時点では橋は通常に利用されています。

(Panoramioから写真引用)

 ライトアップされた夜景写真。

(Panoramioから写真引用)

 橋上から下述この運河で難工事区間のクリブラ(ゲイラード)カット方向(=大西洋側)を撮影。


 同上。ペドロミゲル閘門方向(=太平洋側)を撮影。


 同上。運河北側は未だ工事中で作業の為の機械、車両や船が稼動しています。


 近隣国から飛行機でパナマに入った時に遭遇した女性パイロットです。時々こういう風に操縦席の仕切りを開放したままでいます。通称AIR TAXIなので安全に関しては無感覚なのでしょうか?否、乗客が少数でかつ悪人顔に見えない善良な乗客と判断をしたのと思いますが。??

 
 既存(2004年4月時点)の唯一の中米と南米をつなぐ「アメリカ橋」です。この橋は美しい「アーチ型」です。

(Panaramioから写真引用)

 アーチの部分にブレース(筋交い)が入っています。こういうのは昨今はお目に掛りません。「ブレースドリブアーチ橋」でこのアーチの部分から橋桁を吊っています。

(Panaramioから写真引用)

 アメリカ橋の夜景写真。

(Panoramioから写真引用)

 再度この写真を使用します。ミラフローレス閘門の展望台からミラフローレス湖→ペドロミゲル閘門の向こうに「センテナリオ橋」が見えます。上記写真で引用の無い物はこの時に撮影しましたので未開通の時です。



パナマ運河(閘門の仕組み)

2009-03-04 23:57:43 | パナマ
 閘門はほぼ「開き」第一ドックと第二ドックの水面の高さは等しく成りました。


 第二ドックの前方に第二番目のペドロミゲル閘門方向を見ております。水位は上記同様両方のドックが等しい状態です。


 閘門が壁面にぴったり収まれば船舶は第一ドックから第二ドックへ移動します。右側の灰色の格子柄の部分が壁に収まった閘門です。


 船舶は第二ドックへと入っております。

 
 同上進行中。


 第二ドックの前方の閘門に接近しここで水位の上昇を待ちます。


 同上。注水による水位上昇直前の待機の状態です。閘門は「閉め」の状態です。閘門通過後にある写真前方部=ミラフローレス人工湖(最下段の写真で複数の船舶が待機している場所)との水位差はかなりあります。


 後方の閘門が「閉め」られようとしています。この後、注水し水位を上昇させ上記ミラフローレス湖のレベルにします。

 
 ミラフローレス閘門の水位をミラフローレス湖の水位と等しくし第二ドックを通過中の船舶。

(Wikitravelより写真引用)

 船舶は太平洋側の第一番目のミラフローレス閘門を出ました。次の太平洋側の第二番目のペドロミゲル閘門に入る為、その手前のミラフローレス人工湖で待機しております。ぺドロミゲル閘門を通過するとパナマ運河開通百年を記念して2004年8月15日に開通した「センテニャアル橋(英)」=「センテナリオ橋(西)」=「一世紀橋」が眼前に美しい雄姿を見せてくれます。


運河の国パナマ

2009-03-02 23:55:42 | パナマ
 コロンブスが1,502年にパナマ地峡に到達しその8年後1,510年にスペイン本国が植民地化を開始するまではまだ太平洋の存在はありませんでした。1,513年にN.バルボアがこの地峡を探検し東西をつなぐ航路の重要性を確認した(この時点では別の海があるのを薄っすらと知っていた)最初の征服者となりました。太平洋の命名は平和な海を意味しバルボアが命名者と言われております。1,534年にスペイン国王カルロス5世が地峡の幅がほぼ最少で約80kmの所に運河建設をするよう命じましたが当時の技術力を遥かに越えた土木工事で断念せざるを得ませんでした。それから3世紀以上経った後の1,880年にスエズ運河を建設したフランス人F.レセップスは「パナマ両洋世界会社」を設立しスエズ運河と同様な海面レベル航行案での運河計画で施工しましたが、これもまた技術不足+熱帯地方の伝染病の発生及び調達資金ショートで実現が不可能になりました。フランスはこの最初の失敗にも負けず1,894年に「パナマ運河新会社」を設立し、地峡の地形的、地質的及び水文学的性質を調査する委員会を創設しチャグレス川の増水の管理及び海面レベル案での膨大な岩石山を掘削する工事を削減する為に閘門(こうもん=ロック)を利用する計画を提案しました。が資金ショートで運河建設の特権を4,000万ドルで、パナマがアメリカ支援を得てコロンビア国から独立した1年後の1,904年に米国に売り,運河建設の権利譲渡の契約をしたのです。それから10年後の1,914年8月15日に「パナマ運河」は開通しました。その工事の苦労は筆舌に尽くし難い程の過酷なものでそこには唯一の日本人土木技術者「青山士」も居ました。長らく米国の管理が続いてきたが1,977年に署名し1,979年10月1日から発効の両国代表者トリホス・カーター条約の規定により1,999年12月31日の昼12:00にパナマ国への返還が成され米国の南米の軍事拠点は完全に撤退したのです。それ以降はパナマ運河庁(ACP)が運河の運営,経営,維持管理及び改良を行っております。

 
 運河は以前は陸続きで特にクリブラ(ゲイラード)カットと呼ばれる地形を削岩しなければなりませんでした。現在この場所が運河の最小航路幅で直線部分で192m、曲線部分で222mです。最小水深は約13mで、3つの閘門と3つの人工湖から形成されています。約80kmの運河の航行のみの時間(待機時間は含まない)は約9時間です。船舶は3つの閘門にて太平洋⇔大西洋を途中人工湖のガトウン湖の海抜26mまで昇降させます。閘門の幅は33.53m、長さは304.8mできっ水(水面より下の船体の深さ)は12mでこの運河を通過する仕様(長さ=294m,幅=32.3m)の船をパナマックスサイズと呼びます。(パナマ運河を通行できる最大級の船のサイズです。第二次世界大戦時の米国海軍艦艇も同仕様に建造し東海岸から西海岸へと投入したのです。) 現代の大型コンテナ船舶化傾向に対応できる長さ366m、幅49m、きっ水15mの航行が可能な、かつ現在の運河を利用した「新しい閘門」の建設の開始が今なされようとしています。


 太平洋側のパナマシティから一番近接した2つの閘門を持つミラフローレス閘門の太平洋側の入り口を見ています。大型船舶は両岸に設置された軌道上の機関車により閘門内は牽引されます。船舶の後方の閘門は今は「開き」の状態です。


 船舶が閘門内に収まると後方の閘門が閉められます。この時点では太平洋側と閘門内の海面の高さは同じです。

 
 上記写真の大写し。


 船舶が第一番目の閘門に収まりました。側道の機関車軌道が急勾配で上がっております。何ででしょうか?次の写真をご覧下さい。


 第一番目の前方の閘門=第二番目の後方の閘門は「閉まった」状態ですので、両側の海面の高さの差は歴然と見られます。これからこの上側の海面高まで閘門の開け閉めで船舶を上げるのです。もうお分かりですよね。第一段階はこの閘門を「開けて」海面高を左右の高さの平均高にします。(≒壁面の黒い部分の上の線の高さ)


 油圧ジャッキにて閘門は徐々に開けられようとしています。