土木技術者が撮った中南米の「光りと影」の写真 及び 他国風情

 約22年間の中南米赴任中に土木技術者の視点から撮った写真。開通前のパナマ運河に架かる第二アメリカ橋は圧巻 & 他国事情

マチュピチュの拡大写真

2008-08-29 00:13:52 | ペルー(クスコ、マチュピチュ)
 写真が小さい為、拡大をして一覧にしようと鋭意努力しておりますが、実力不足で、とりあえず世界の観光地で一番人気のあるマチュピチュ分を掲載致します。
 撮影場所の後方にマチュピチュ(老いた峰の意味)山があり、写真右側の高い方はワイナピチュ(若い峰の意味)と言います。総称でマチュピチュ遺跡と言われております。ワイナピチュは往復約2時間で登頂・下山可能です。また、この敷地の中には多数の著名な建造物があり、全て石積みされております。中には曲線を描いたものもあります。帰りの列車の時間までの約5時間の見学時間ですので、時間も体力もハードになります。麓のアグアスカリエンテス(熱い湯=温泉の意味)駅周囲にはホテルがありますので、時間が許せば1泊2日の見学をお薦めします。マチュピチュ遺跡の入り口にもホテルが一軒のみあるのですが日本の5星級並みの値段です。アグアスカリエンテスからマチュピチュ遺跡入り口まではジグザグした道路をバスで約20分で到着いたします。クスコよりも標高が約1,000m低く標高は約2,300mですので、高山病に罹る率は殆どありません。

9月11日はNYC同時テロの日?

2008-08-27 17:54:24 | チリ
 さて、9月11日と言えば、世界中の人々が周知です。そうです2001年のアメリカNYCの同時多発テロ事件の日です。
 が、ここチリで9月11日といえば、クーデターの日でアジェンデの命日を意味します。この記事を作成中にロシアがグルジア領土内の南オセチアとアブハジアの独立を承認しました。大国の国益の為に多くの人々が犠牲になっていますし、大国のエゴで何度同じ事を繰り返し、再び世界に脅威を与えるのでしょうか。経済発展していくに従い地球を取り巻くさまざまな環境が悪化していくのは非常に残念な思いです。

チリ歴史の舞台モネダ宮殿

2008-08-27 01:19:11 | チリ
 サンチャゴ市の旧市街の中央広場=アルマス広場(Plaza de Armas)から歩行者天国のアウマダ通りを南へ4ブロック歩けば、黄色い車体のバスがしのぎ合いをしている幹線オイギンス大通りに当たる。その1ブロック手前のモネダ通りを右折して2ブロック行けば、写真のモネダ宮殿(Palacio de la Moneda)=大統領府に出ます。モネダとはお札(貨幣)の意味で昔は造幣局だったからです。
 さて標題、1964年の大統領選挙で得票を伸ばした社会党と共産党の連合である「人民行動戦線」の統一候補のアジェンデは、続く大統領選挙の1970年に労働者団体の支持を広げて「人民連合」から出馬しました。冷戦状況下の米国CIAやチリ内の反共勢力はアジェンデ政権の成立を拒み、反共派の多い軍部の陸軍司令官シュナイダーにアジェンデ潰し(クーデターを起こすという説が有力)を依頼するも彼はこれを拒否した為、シュナイダーは決選投票直前に襲撃され死亡させられました。(暗殺された)これに反発した各党はアジェンデを支持しチリ史上初の社会主義政権が誕生したのです。アジェンデは共産主義社会とも友好関係を進めたため、米国はチリ内の反共勢力をあおり経済封鎖やストライキを実行させ、社会混乱を起こさせたのです。が、逆に、国民の殆どを占める労働者に更に団結を強めさせることとなり1973年の総選挙では大統領選よりも得票率を伸ばす事になりました。アジェンデ失墜が不可能と考えた反対派は米国の支援と黙認のもとクーデターによる国家転覆を決断したのです。
 1973年9月11日ピノチェト将軍(陸軍総司令官)は軍事クーデターを起こし、ここモネダ宮殿を戦闘機と機甲部隊で砲爆し、降伏を拒否したアジェンデは炎上するモネダ宮殿内で死亡したのです。(自殺か他殺は不明。)その後ピノチェトが大統領に就任した軍事独裁政権は、数千人(数万人と言う説もある)の反体制派の市民を投獄や処刑にかけました。ピノチェトの独裁政治は1989年に民政移管しエイルウインが大統領になるまで約16年間の長きに亘った。その後ピノチェトは独裁政治による弾圧、虐殺行為や不正蓄財の罪で告発され、全ての特権は剥奪され、2005年9月にチリ最高裁はピノチェトの健康状態から裁判に耐えられないとし左派の活動家の罪状を棄却し翌10月にはピノチェトとその家族の全ての資産を差し押さえられピノチェトは終焉を迎えたのです。写真の白亜のモネダ宮殿=現大統領府は修復改装されたもので当時の戦跡の面影はありません。宮殿を挟んで南北は緑豊かな広場になっております。

霞たなびく青空は何?

2008-08-26 01:21:07 | チリ
 チリ国は南北が約4,330kmで東西は最長で約360kmで、(平均の東西幅は約175kmです。)鉛筆みたいな国です。 写真はその中間点に位置し、周囲に見えるのは5,000m超級のアンデスの連山で、その麓にあり、太平洋から約100kmにあるチリの首都サンティアゴ市です。 郊外にはワインナリーのコンチャイトロ=Concha y Toro があります。南米では超有名です。一般的にはカシジェーロデディアブロ=Casillero de Diablo(悪魔の蔵)シリーズが出回っております。日本でも欧州のワインよりも安価に入手できますので是非試飲をお薦めします。また、サンチャゴ市から約200kmアンデス(北東側)に向かえば米大陸(北中南)最高峰のアコンカグア山=6,960m があり、そこから約200km東側に行ったところにもアルゼンチンのワインの産地メンドーサがあります。メンドーサはアコンカグア山登頂の出発点でもあります。かようにこの地域は風光明媚でワインがとても美味しいところです。
 さて、写真の中ほどにかすんで見えるのは何でしょうか? ここサンチャゴ市は南米でも近代化が進んだ街で、タイヤ式の地下鉄も走っております。
 が、街中を車体が黄色で屋根が白色のバスが我先にと競い合いながら客を拾っております。バスの経営者は個人ですので、我先にと飛ばし割り込みをして客の奪い合いをしているのです。その為、日曜日以外は写真のようにスモッグが一面に漂っております。悲しいかな大都市の現実を垣間見せられます。政府も地下鉄の路線を延ばしたり等々の対策を講じておりますので、近い将来は眼前にアンデスの壮大な景色も見える事でしょう。

アンデス標高5,000mに宇宙観測基地プロジェクト進行中

2008-08-22 01:22:24 | チリ
 写真は、南米チリ北部の太平洋に面した都市アントファガスタから北東へ約200kmの世界最大の露天掘りチュキカマタ銅山のあるカラマ市を経由し、約100km南東へ(アルゼンチン側)に行った所に、サンペドロデアタカマと言う後楽園地区位の広さの町があります。ここは標高約2,450mあり、土(砂)漠地帯で、広大な塩湖や間欠泉等自然が未だに残され観光地となっております。そこからアンデスの標高5,000m超の山々を縫うようにアルゼンチン方面に行き標高約5,000m地点にある「道しるべ」です。左側はすぐボリビアの国境で未舗装です。(国力の違いを見せつけられます)アルゼンチン国境までは115kmです。チリ側とアルゼンチン側は舗装道路です。この地点の右側に日米欧共同で直径12mの超高精度パラボラアンテナを64基と、同じく直径8mのパラボラアンテナを16基、計80基と言う世界でも最大の壮大なプロジェクトが進行中です。星や惑星系の誕生や銀河の誕生、宇宙における物質の進化等、地球生命のルーツを探るプロジェクトです。土木技術者から見るとそれこそ天文学的な計画と感嘆いたします。(詳細は国立天文台HPのALMA計画をご覧ください。)
 さて、標高5,000mでの業務に体は徐々に順応はしていきますが、体の構成元素も100%順応(変化)していきます。小生もアンデスの4,000m超のプロジェクトで約2年間従事しましたが、低地に戻ってもしばらくは体調が回復しませんでしたし、クスコ(3,400m)に上ってもまた順応のやり直しです。体は順応するのに頑張っているのです。
 また話が逸れましたが、ここのベースキャンプのサンペドロデアタカマは観光以外は何も無く、当然、生活形態も現地化します。「衣食住足りて礼節を知る」と言う言葉はここでは使えません。救いは空気がきれいで、夜には満天の星や、天の川が見えることです。世界の優秀な天文学の科学者が2012年の供用開始を目標に日夜頑張っております。健康に留意され、無事なる完成と今後のご活躍をお祈り申し上げます。

クスコの12角形の石塀は有名だが、14角形の石は見た?

2008-08-20 00:38:35 | ペルー(クスコ、マチュピチュ)
 クスコに訪れる観光客の100%は必ず12角の形をした大石がはめられた小路にある石塀を見るでしょう。その石の前では現地の少年達が違和感のある日本語を喋り、絵葉書や民芸品を売ったり、写真を撮ってあげると言い、その後、撮り賃を要求します。彼ら少年達も家計をまかなっている or または自立させられる境遇にあるのです。また日本語で反応すると10倍位の値を言ってきます。彼らには日本人は賢明で生活ステータスが高く、慈悲深い人間と言う理解があるのでしょう。また、中南米の殆どの商売は正札がなく、売買は当事者のかけ引き(ネゴシエション)で決まります。日本で正札に慣れた生活をしていると原価がいくらかは分かりませんが、中南米では露天市場が多く、そこには純粋な人々(都会の生活を知らない)が色々な品物を売っております。中南米の楽しみの一つはこれらの青空市場を見て歩くのがあります。言ってはいけない違法行為ですが、プリンターのインクはカートリッジではなく小さなボトルですごく安価で売っていますし、その他日本のメーカーの電化製品もとても安価です。何でそうなのでしょうか?FTAで関税が免除されているとは思えませんが?人件費が限りなくゼロで、再利用が上手で or せざるを得ない状況(現代語ではリサイクル)なので安いのは・・と考えております。閑話休題、標題の14角形の石を掲載いたしますのでご覧下さい。


もろには見たくないクスコの生活排水路???

2008-08-18 23:39:36 | ペルー(クスコ、マチュピチュ)
 ここクスコ(≒マチュピチュ)へは年間約50万人強が訪れるそうです。季節を考慮しないで月平均約4万人強です。これに何10万かの現地居住者を合わせると、相当な生活用水が必要です。アンデス地方は5,000m超級の山が連座し、原住民は雪解け水を取水する知恵を養ってきました。肥沃でない土地にジャガイモやトウモロコシや一部ではキヌア等はもちろん、生活やかんがい用水を気の遠くなるような距離を等高線上に素掘りにて、測量知識も無かった時代に、現在では一般的ですがサイフォンの原理も取り入れ、用水路を建造してきたのです。が、一方の排水は大半が河川や雨水の排水溝へ・・・・・(5文字)が通常です。今回はもろには掲載しませんが、写真のクスコからボリビア国境の街プーノへ行く鉄道で、鉄道の下側と側面がその排水溝です。鉄道は広軌(軌間幅1,435mmで、日本は通常大半が狭軌1,067mmで新幹線は広軌)で、鉄道橋は脱線防止のレールが内側に敷かれ、アンデス高地に見られる極端な温度差による軌道の伸縮もきちんとメンテナンスされていました。やはり観光地だからでしょうか?他の都市では軌道(レール)は上下左右に曲がっているのが普通です。理由はメンテ費が空気と同様に希薄だからです。奥に建つモニュメントはクスコやマチュピチュを造ったと言われるインカ帝国皇帝パチャクテックの像です。空港からクスコの市街地へ行く途中に建っています。パチャックテックもこんなに臭い所に建つとは夢にも思わなかったでしょう???。話はまたもや逸れましたが、光の部分が好印象で感動的なだけに、影の部分が取り残されていっている(光が射さない)のがチョット残念です。

クスコで有名な石組壁

2008-08-18 22:17:44 | ペルー(クスコ、マチュピチュ)
 観光客の殆どの人が訪れるここ石組壁のロレト通り。この長い路地をサントドミンゴ教会側(南側)から北側へ約200m位行くと中央広場(プラサデアルマス)に出る。大体スペインの街は、中央広場を最初に造り、大聖堂(カテドラル)や主要公共建物が、広場に面して建てられ、そこから街が広がっていく。近年、中南米の多くの国は、これらの地域を旧市街地と呼び、新たに近代的なホテルやショッピングセンターを別な場所に建て、そこを新市街地と区別している傾向にある。これは、旧市街地は歴史的建造物が多数あり、観光客を狙った犯罪が多発している要因がある。さて話が逸れましたが、ロレト通りの石の継ぎ目は精巧に加工が施され、カミソリの刃も通さないと、観光ブックに載っていたが、まさにその通りだった。高さも5mはあり、インカの石工の技術は現代では気の遠くなるような時間をかけて品質を優先させ、見事な景観を造りあげた傑作だと考える。

インカ時代の太陽の神殿コリカンチャ(現在はサントドミンゴ教会)

2008-08-15 16:51:33 | ペルー(クスコ、マチュピチュ)
 インカの石組みはマチュピチュやクスコの街並み以外にも南米各国のインカの遺跡にも数多く見られます。ここクスコはインカ帝国の首都で特に石積みが美しい街です。現代のモルタル(セメントと砂と水)や裏込めコンクリート(石の背部の隙間をコンクリートで埋める)は見られず(使わず)、精巧に石工の技のみで仕上げた芸術品です。写真のサントドミンゴ教会はインカ時代は太陽の神殿(インカ語でコリカンチャ=黄金の館)と呼ばれ、室内は黄金で飾られていたそうです。が、全てスペインの征服者に略奪され、上屋も壊されて、石組みの土台の上に教会が造られました。が大地震によりスペイン人が造った建造物は崩壊しましたが、インカの石工の造った石積みの土台だけは現存しております。写真の芝生の地下は考古学博物館になっています。

マチュピチュ行き列車、千載一遇の危機?

2008-08-14 15:06:21 | ペルー(クスコ、マチュピチュ)
 写真の列車は、クスコからマチュピチュに行く、観光客用列車で通称ヴィスタドームと言い、通常の窓のほかに、天井の左右がガラス張りになっており空の景色も見て取れます。クスコを朝6:00に出発し、マチュピチュ着が10:00頃だったのですが、途中で沿線の貧困農民が崖の上から列車に投石や、線路上でタイヤを燃やし列車妨害をし、警察が出動してきました。投石で列車の窓ガラスは割れて、一時、車内の女性がパニック状態になり、全員椅子の下や床に這った状態でした。原因は沿線貧困農民に観光収入が還元されないとの事でした。さながら西部劇のアパッチの襲撃を思い出す場面で、途中で列車は何回も妨害を受け、その度に停車し、列車内外に警察が出動し、マチュピチュ着は13:00頃で、肝心の観光は2時間に制限されました。と言うのは帰りの列車は通常の15:30で変更しなかったからです。何があるか分からないとよく言われますが、その何かに遭遇いたしました。