土木技術者が撮った中南米の「光りと影」の写真 及び 他国風情

 約22年間の中南米赴任中に土木技術者の視点から撮った写真。開通前のパナマ運河に架かる第二アメリカ橋は圧巻 & 他国事情

マチュピチュ建造物その5

2008-11-28 00:31:37 | ペルー(クスコ、マチュピチュ)
 この直径約60cmの2つの丸い石は何だったのでしょうか?ハイラム・ビンガムが発見した時に随行の子供が「石臼」と言ったのでつい最近まで「石臼」説でしたが、長い間の研究の結果「天体観測をする為の石」説が有力になってきました。では、どうやって観測したかは次の写真を見てください。


 この石の輪の中に水を張り、夜に月や星の軌道を観察したと言うことです。
 では何で2つあるのか?と言うと インカの考え方の二元性に拠る物です。例えば「太陽と月」「老と若」「父と母」「大地と空」のように 太陽の神殿があれば月の神殿 や 老いた峰(マチュピチュ)があれば若い峰(ワイナピチュ)等々がある事からと、長い研究の結果からそのように解釈されております。


 この場所は「コンドルの神殿」と呼ばれております。ロープで囲まれた手前の先端部分の石がコンドルの頭とくちばしで、この頭の場所で生贄のリャマを捧げた儀式の場でありました。 ではコンドルの羽はどこかと言いますと 次の写真を見てください。


 自然石で出来た左右の石がコンドルの羽です。これも長い間の研究の結果の解釈ですのでご理解おきください。羽の付け根の部分から中へ入れる半地下構造になっており、外部や上部への出入り口になっております。


 ここは牢獄だったと言われております。罪人は地下に幽閉され、その後コンドルの羽の上部の写真のイスのようなくぼみの場所で体罰が与えられ、それから上部のへこみに罪人を座らせ、両側の丸い穴で手かせをしたそうです。余程の罪悪人の処刑場だったのでしょうか。
 この説も長い間の研究の結果 コンドルを表現している場所なので 「大地と空(天)」の世界を結ぶ神聖な場所であったのではと言う説が浮上してきております。


 これでマチュピチュのガイドは終了します。今でも建造物自体の存在が謎であり多くの専門家が研究を続けています。個人的には謎が解けない方が、また そのように解釈されていますという表現が夢がありそうな気がします。 マチュピチュの建設は約1450年頃第9代パチャックティクの時代に始まり、約90年後の1540年頃にここマチュピチュを捨ててどこかえ消えてしまったのです。それから約370年後にハイラム・ビンガムにより発見されるまで長い眠りに着いていました。ここマチュピチュを見下ろす高台にアンデスの高山に生息するリャマと共に座しているとインカの人々の技術や文化の高さに見とれてしまい暫し時の流れを忘れてしまいます。 が、列車の時間に間に合うようにと駆け足でバス停に向かいました。



マチュピチュ建造物その4

2008-11-27 00:19:56 | ペルー(クスコ、マチュピチュ)
 インティワタナ(日時計)の位置から北東方面を見ています。2つある山の右側の高い方の山がワイナピチュ(若い峰の意味、左側の低い山はウチュイワイナピチュです。マチュピチュ山=老いた峰は遺跡の入り口方向に位置します。)で登山可能です。その下方にある2つのわら葺き小屋はワイラナと言われ管理小屋兼見張り小屋及びワイナピチュ登下山の準備小屋でした。


 カメラの位置を上記撮影場所から東(右)側に振りました。小高い森の右隣には石垣の擁壁が組まれた状態で放置された建造物があり「未完成の神殿」と呼ばれています。その右側からは「技術者の居住区」になります。居住区の前には中央大広場があり、そこで各種の競技や祭事が行われていました。居住区側の段々になった芝生の場所が観覧席です。


 カメラを更に右に振りました。ここにも「技術者の居住区」があり、その中には技術を教えた教室等 があり「一般人の居住区」は広場には面していない反対側にあります。このエリアには「天体観測の石」や「コンドルの神殿」と呼ばれる「生贄の儀式場」や「牢獄」等があります。


 更にカメラを右に振ればマチュピチュ遺跡の入り口及び段々畑です。段々畑はこの場所だけではなく遺跡の周辺の至る所に見られます。さらに右側は断崖絶壁です。


 ワイナピチュへの登山口のワイラナ(管理小屋等)と登山道の入り口の間にそびえる「聖なる石」といわれ、一枚の大岩を加工し山の形をしております。幅約8m、高さ約4mあります。この左奥がワイナピチュ登山道の入り口です。


 ワイナピチュ登山道の入り口です。入山時間は7:00~13:00で入り口で名前を記帳します。理由は入山者と入山者数の制限の為です。遺跡から更に300mの高さがありますので時間に余裕のある方及び若い方(次の大写しの写真の様に、登山道が狭く険しいので)にはお薦めします。ガイドブックは”過去にこの登山道から落下した人が数名居た”と意味深長な書き方をしておりました。


 ワイナピチュ登山道及び山頂の大写し写真。白いシャツを着た登山者が見えます。




マチュピチュ建造物その3

2008-11-26 00:35:03 | ペルー(クスコ、マチュピチュ)
 マチュピチュ遺跡の「水汲み場」です。アンデス山脈の東側に位置し、南側には6,271mのサルカンタイ山や東側には5,750mのベロニカ山等万年雪を冠した6,000m級の山々があります。インカの灌漑の源流も隣国ボリビア同様に、6,000m超級の山脈からの雪解け水を気の遠くなる距離を等高線上に這わせくねらせながら水路を引いたものと考えます。段々畑用の灌漑用水路は開渠(目で水路が見れる)で、一方、生活用水は暗渠(目で見えない)で石樋になっておりここ遺跡内に水汲み場が16ヶ所あります。(17ヶ所と記述された本もある。)こちらの生活用水は石の中をくぐってくるのでミネラル分を含んだ透明な水で水質も良く見え試飲しました。(観光客の皆様は飲まない事をお薦めします)


 石樋からの水汲み場がある通りがマチュピチュのメイン(銀座)通りです。写真の左側石畳道路から「太陽の神殿」は隣合わせです。石樋の上には更に左右に住居や道路が建ち並びその技術には驚きます。バックパッカーのお兄さんが居るすぐ左側が上の大写し写真の水汲み場です。「水汲み場」以外は殆どが暗渠で、水は高低差を利用して、次の写真の右向かい側の低い場所にある切妻様式の居住地にも引かれております。


 上の写真の階段道路(銀座通り)を登り詰めた場所の台地からの近景です。左側の大石がある所が「石切り場」です。正面の広場は「神聖な広場」と呼ばれ3方に主要な建造物を配置されております。手前が「神官の館」右側が「3つの窓の神殿」上側が「主神殿」と呼ばれております。


 「3つの窓の神殿」です。窓は5つあり両側の2つは塞がれております。インカの起源神話には4つあり、その内の有力な2つである①創造神ウイラコチャがティティカカ湖に現れ2人の兄妹を創造し兄のマンコカパックが初代のインカ皇帝となり帝国を築いた。もう一つの②インカ発祥の創始伝説のタンプ・トッコと言うこの3つの穴から8人の兄弟姉妹が現れその内の一人がマンコカパックとなった 言うのがここの説です。窓は太陽が昇る東側を向いており、かつては手前の柱を利用し丸太にて屋根がかけられていました。柱のすぐ左横にある左右対称の3段の石は冬至の日にその同じ形の影を映すように綿密に出来ております。


 上記「3つの窓の神殿」の背面の芝生がある「中央広場」から撮っています。ここからの建造物は相当な期間の手間隙をかけて見事にかつ美しく仕上げられており、マチュピチュはインカの人々がスペイン人から逃れる為ではなく生活拠点として周到な計画なもと造られたと都市と考えられております。


 上から3枚目の銀座通りを登り詰めた台地から見て前方の一番高所に位置する建造物です。インカの言葉で「インティワタナ」と呼ばれる「日時計」です。上に突き出した角柱は東西南北を向いており太陽暦を使って収穫、種まき、冬至や夏至(インティライミ=太陽の祭り)や、その間の4つの季節を読み解いていたのです。


 インカの言葉はケチュア語でインティ=太陽、ワタナ=つなぐで「インティワタナ」=太陽をつなぎ留めるの意味です。写真は「インティワタナ」=「日時計」の背面です。大石を削られて精巧に造られております。ここからマチュピチュ遺跡が360度パノラマで見渡せます。


 前述したようにこの場所はマチュピチュ遺跡において唯一内側から360度見渡せるビューポイントですので観光客のオジサンやオバサンやバックパッカーのお兄さんやお姉さんや老若男女全ての訪問者は必ずここで写真に収まります。




マチュピチュ建造物その2

2008-11-21 00:26:22 | ペルー(クスコ、マチュピチュ)
 マチュピチュの中心となるエリアに建つ「太陽の神殿」で、ここは黄金の太陽の神(像)を祀った神殿です。インカの首都クスコにも同じ「太陽の神殿」=コリカンチャと言い現在はサントドミンゴ教会になっています。(クスコ編に掲載)真ん中の石に黄金の像が飾られていたといわれてます。正面の四角の穴は東側を向き、下の2枚目の写真の穴は南側を向きそれぞれ冬至と夏至に太陽の光りがまっすぐに入るように作られています。彼らは段々畑に何百種の農作物を作るための時期をこれで知りえたのです。この建造物だけがマチュピチュで唯一曲線を描いており石積みの技術もクスコ同様に素晴らしいものです。立入禁止のロープが張られ中には入れませんでした。



 「太陽の神殿」を南側から見ております。階段を下りている人々の左側の建造物は2階の部分で通称「王女の宮殿」と言います。なぜ通称かと言いますとインカは王様(皇帝)で王女は居なかったと言う事からです。ゆえに本妻か側室等の女性が住んでいたと言われております。インカ王はときどき訪れ別棟の「王の別荘」で過ごしたそうです。ここも立入禁止でした。


 
 「太陽の神殿」の下部は自然のままの石で構造されており、その自然石の中に洞窟があり「陵墓」と言われています。この中に飾り棚や石壇があったことからマチュピチュ発見者のハイラム・ビンガムがミイラを葬った「陵墓」ではないかと言うのが発端ですが、実際にミイラはおらず、農作物を大地の神パチャママに祀った神殿ではないかともいわれております。ここにも立入禁止のロープが張られ中は見ることが出来ませんでした。


 2枚目の写真の「王女の宮殿」の上の道から南側の遺跡の入り口方向の写真です。観光客が順路に従い歩いて来ております。観光客の背後の建物は農作物等の貯蔵庫です。「王女の宮殿」は屋根が欠落していますが、ここの建物や周りの建物は全て合掌造りに似た急勾配の切妻屋根です。屋根葺き材はここ高山に自生する「イチュ」と言うイネ科の植物との事です。



マチュピチュ建造物その1

2008-11-19 00:31:59 | ペルー(クスコ、マチュピチュ)
 順路は写真左下側の木の右側二段上の白い道ですが、昨日掲載しました通り、左端の段々畑を息を切らして上りつめ屋根の尖った見張り小屋に出て、そこから遺跡の最上部まで行きマチュピチュ遺跡の全景を眺めるコースを ”もしも訪ねる機会があれば”お薦めします。順路に従えば段々畑が過ぎた地点から右側の建造物を見ながらゆっくりと上りながら見張り小屋まで行くので息咳くことはありません。多分に観光客は強行スケジュールで3,400mのクスコで1泊し朝6:00発の列車で約4時間掛けてここにきますので体調(高山病で)は思わしくありませんのでそう言う配慮をしたと解釈しております。ここは標高が約2,300mで高山病に罹る率は微少です。


 上記写真の右側は切立った絶壁です。右側の石が散在している場所が石切り場でここで加工され人力にて運搬されたり、もともと岩だった場所を利用し造った建造物もあります。それでも気の遠くなる作業です。また段々畑はずーと下まで続いております。高さを利用する事により気温差が生じそれに適した各種の農作物を作ったということです。


 今からマチュピチュ本体?の建造物を見に下ります。山を整形し小さな石を丁寧に積み見事な段々になった畑が築かれております。ここではインカの石工の技術は石の形状を活かしそのまま使用したりまたは最小限の加工にし組み合わされております。段々畑の脇には石にて踏み段があります。奥の建物は見張り小屋です。見張り小屋の裏も段々畑です。ここから最初に上ってきました。カメラ視線の背後にインカ道がありクスコまで行きます。最寄の駅アグアスカリエンテスの一つ手前の駅オリャンタイタンボ村から3泊4日のインカトレッキングのツアーもあるそうです。この駅には強力兼案内人が大きな荷物を背負っている姿が電車の中から見られます。


 見張り小屋から段々畑の脇にある踏み段を通り写真の左手にある門から市街地(主要建造物群)へ入ります。インカ道から来ればここが正門になり「太陽の門」と呼ばれております。


 「太陽の門」のアップ写真です。門の上部の大石は約3ton位あると考えます。 その上に突き出た丸い輪の出っ張りと左右の穴を利用した両開きの門です。また敵が攻めて来たときにはこの輪と左右の穴にロープを通して岩を落とす仕掛けでもあります。側面の石は自然の形のままでジグソーパズルのように上手くかみ合わせております。上方はわざと落ちやすいような形の石が積んであります。こういう優れた技術を持った民族が何で少数のスペイン人により征服されたのでしょうか不可解な思いがします。きっと現代にも居そうな自己表現の下手な技術屋だったのでしょう。



空中都市マチュピチュ

2008-11-18 00:46:21 | ペルー(クスコ、マチュピチュ)
 
 紀元後1100年頃始まったとインカ帝国の起源は諸説ありそれは神話になっております。実在のインカ(インカの語源は征服者スペイン人がつけた名前)帝国は1438年のパチャクテック(以前掲載)皇帝から5代で1533年に征服者により絞首刑に処せられたアタワルパ皇帝までの約100年の短期間です。その間に北はコロンビア、南はチリまで約5,000km、面積では約200万km2=日本の国土の約5.5倍を支配したと言われております。その首都は標高3,400mのクスコです。征服者に黄金を奪われクスコや他のインカの都市も破壊され彼らの手の届かない所に都市を築いたと言うのがマチュピチュの通説ですがこれも諸説有り未だに謎です。この写真はマチュピチュ遺跡の入り口から撮っております。周りは険しい山に囲まれ、こんな所に本当にあるのかーと不信感が起きます。多分にこのギャップがマチュピチュの感動を増長しています。写真の中央下方がマチュピチュへの終着駅アグアスカリエンテス(温泉の意で実際温泉があり水着をきて入ります。裸で入るのは禁止です。)駅は谷間を流れるウルバンバ川沿いにあります。



 アグアスカリエンテス駅からマチュピチュまではほぼ45度(下から見ると垂直)の岩肌を400m登山しなければなりません。駅前には無数の登山用のバスが待機して客を乗せ未舗装のジグザグ道路(写真の白い箇所)道幅約6mを駆け上ります。と言うのは大半の観光客が日帰りで(理由はここには宿泊施設が少なくまた有っても異常に高値で)帰りの電車時刻に合わせ見学時間が約4時間強と制約があるから使わざるを得ないのです。上下のバスが離合する時は運を天に任せなければなりません。運転はここからの語源でしょうか??

 

 上記道路は遺跡の発見者の名前が付けられています。遺跡の入り口で降車し20US$の入場料を払って(ペルーの労働者最低賃金は約75US$でここまで列車やバス代を入れると一番安価な方法でも首都リマから約100US$は掛りますしまたトイレ使用料も取られますが背に腹は返られません。ここは色んな趣向で観光客に不信感を与えます。でも、それは次の写真の瞬間で忘れ消えてしまう目論見?があるからでしょうか。) 写真の左側が遺跡の入り口です。順路は写真の段々畑を真っ直ぐ進み、この写真を撮っている場所にある数々の建造物の方向です。が、ガイド付の観光客やリピーターは約100%の確率でそうはしません。入り口入るとすぐ左折し約45度の斜面の簡易道を息を切らせながらまた途中で休憩しながら写真中央上方の建物の方向に我先に黙々と向かいます。
 理由は次の写真です。


 
 もう何も説明する言葉は要りません。素晴らしく、感動で時が停止します。来て良かったと実感します。

叡智を尽くしたPJ(No.6)

2008-11-14 00:07:18 | ペルー
 太平洋沿いの国道・・ペルーの湘南道路からプラントへのアクセス道路です。芝は完全に根つき、潅木も整然と植栽され、さながらここだけが砂漠のオアシスのようです。


 プラントの遠景です。この海岸道路は起伏が多く高い位置に来ると煙突と太平洋に突き出た異様な構造物がその都度見えます。今ではこのプラントは南部地域のランドマークです。


 ピラミッド形した採光屋根のある管理棟の背後からプラント心臓部を撮っております。煙突からは白く透明に近い排煙が見られます。CDM(クリーン開発メカニズム)締結前ですがプラント技術者の叡智により「地球環境に優しい」を目指し完成させられたプロジェクトです。各国の国益はあるでしょうが、土木のみならず技術者の使命である「地球に優しい環境を創造する」が優先されております。本プロジェクトは、多種多様な技術者達の真摯な努力が自然の造物主にも通じそして守られ、限られた資源にて記録的な速さで成就させたプロジェクトとしてペルー国のみならず関係各国で語り継がれております。

 
 桟橋建設も幾度も荒波の手痛い挑戦をうけながらも楊炭プラットフォームまで到着しました。


 注目の構造物も桟橋の高さまで無事に建造され太平洋の波も驚いて白い泡を吹いております。

 
 次週からは「世界遺産マチュピチュ遺跡」内の建造物を掲載の予定でおります。

叡智を尽くしたPJ(No.5)

2008-11-13 00:04:08 | ペルー
 
 注目の構造物も海面の高さまで埋戻しが完了しました。一安心です。方や桟橋工事は海側にSEP(パタゴニア編を参照下さい)を設置し72,000DWTonの船舶用の揚炭桟橋80m*25mの施工を開始しております。
・・・・・
 この時点より2年後の2001年6月23日(現地時間)に関東大震災M=7.9と同じ震度の大地震がこの地域を襲ったのです。阪神・淡路大震災はM=7.3ですのでその大きさが計り知れます。施工当時は万一の場合を想定し、出来るだけプレハブ化し最少の人数で作業をしていましたが・・・・・。何と運の良かった事でしょう。技術者の至誠が天に通じたのです。次回本プロジェクト最終編は無事に完成した写真を掲載の予定です。

 
 
 管理棟と修理工場等の建物も外壁の仕上げ塗装を施しました。右端の白いコートはテニス場兼フットサル場です。管理棟の屋根は光り採りを兼ねピラミッド型をした美しい形を見せております。


 プラント構内道路もアスファルトコンクリート用の接着剤(タックコート)も散布され舗装の準備に入っております。構造物用コンクリートも舗装用コンクリートも上記管理棟写真の後ろ側のプラントで製造されております。


 国道から正面ゲートまでの約500m間の法面にはスプリンクラーが設置され植栽が施されました。砂漠でも人工的に撒水をすれば緑が茂ります。(街の中では水タンクローリー車からホースにて撒水し緑を育てております。)



ちょっと一服・ペルー・チリ側国境の街

2008-11-12 00:29:17 | ペルー
 ペルーとチリの太平洋側は写真の様に砂漠の中で国境を分けております。写真の上側がペルー国税関及び入国審査場で下側がチリ国です。この区間約1kmで時差が1時間生じます。チリ国に入ると国力の違いを感じます。


 ペルー側の国境の街タクナです。街の中心の広場です。この街には免税品市場があり買い物客で賑わっています。空路はタクナ飛行場で免税品の申告をします。一方陸路はペルー側国境税関の検閲が厳しく?持ち出し規定以外の物品は全て没収されておりました。


 でもタクナの市街地を外れると砂漠地帯特有の建築様式が見受けられます。


 ボリビア、ペルーとの国境にある自然は悠久の歴史を刻み今も6,000m超級山々がここアンデスにその雄姿を描いております。ここはチリ側です。


 チリ側国境の街アリカです。街の入り口には「常春の街」と言う看板があります。街の中心の広場に建つこの教会はフランスの建築家ギュスタブ・エッフェルが設計を手がけたとガイドブックに記述されております。エッフェル塔とは似合わないのですがペルー側と異なり建物の色が華やかで周りのカラフルな建物と調和しております。この日は若者達で賑わっておりました。


 アリカ港です。L字型になっており埠頭延長は約1kmあります。隣国の内陸国ボリビアもこの港が主要港です。先に記述しましたペルー南部の商業港も機能的ですが、ここはそれ以上に規模が大きく設備も整っているようです。


 かもめが「もやいロープ」の上で休憩していました。鳥が電線とかに止まる習慣と同じで性質なのでしょうね。


 一羽だけ群れから外れたかもめが居ました。かもめの社会にもいじめがあるのでしょうか?それともカメラを持った顔立ちの異なった変なオジサンを不思議そうに見ているのでしょうか?

叡智を尽くしたPJ (No.4)

2008-11-11 00:38:27 | ペルー
 写真左側の構造物も海面の高さまで型枠(コンクリートを打つ為の枠)が組み込まれました。この構造物の高さは写真中央の桟橋の材料発進基地の高さと同じなるそうです。桟橋工事も砕波帯に突入しております。写真右の仮設構台から鋼管杭とジャケット(それ自体が鋼構造体であり、精度の高い杭打ちのガイドの役目をする)が軌道にて設置場所まで運搬され一歩一歩桟橋が延長されております。目測で桟橋延長約1,300mの(楊炭プラットフォームも含む)の半分位でしょうか。 太平洋の波は幾重にも砕け白く光り牙をむいております。


 仮設構台の右隣は杭やジェケット等の製作ヤードです。後楽園ドーム球場の約半分(2.2ha)の広さです。南米中から選び抜かれた優秀な溶接工が集結しております。


 製作ヤードの右側には桟橋上に設置された約1,300mのベルトコンベヤーにて運ばれた石炭をストックするヤードがあります。後楽園ドーム球場の約1.3倍(6.3ha)の広さです。


 石炭ストックヤードの右側にはこのプラントの重要な心臓部をサポートする施設のユーティリティエリアです。斜めになった鋼構造物は石炭を運搬するベルトコンベヤーです。


 ここがこのプラントの心臓部です。鉄骨の組み立てが進行しております。世界各国から技術者や専門職が動員され品質の良い製品が製作されております。