土木技術者が撮った中南米の「光りと影」の写真 及び 他国風情

 約22年間の中南米赴任中に土木技術者の視点から撮った写真。開通前のパナマ運河に架かる第二アメリカ橋は圧巻 & 他国事情

街風景(No.2)(名所旧跡アンマン市内)

2009-11-30 12:46:37 | ヨルダン
 ローマ皇帝アントニオス・ピウスの時代(AD138~161年)に建設された、33列6,000人収容可能なヨルダン国最大の屋外劇場で、丘の傾斜(斜面)を利用して造られています。 ここは旧市街にあたり、先回掲載のキング・フセイン・モスクから徒歩で5分位に位置します。斜面は低所得者層が崖に張り付くように家が重なりあっております。この写真は後述しますが旧市街を見下ろすアンマン城から撮っております。名前は「ローマ劇場」と言います。



 上記同様で少し大写しいたしました。この写真では写っておりませんが、国王がしっかりから監視をしております。



 ローマ劇場の中へ下りてきました。色んなイベント会場になっており、本夕も音楽祭があり、マイクや照明の設置作業をしておりました。国王は探しえたでしょうか?



 旧市街を見下ろすアンマン城のヘラクレス神殿からローマ劇場を撮っております。古にはお城から劇場までの急斜面に階段があり容易にアクセスできたと記述されておりますが現在はこちら側も低所得者層住宅が林立し消滅したようです。



 三方が崖で、残りも細い尾根と言う地形から「城塞」が作られました。この柱はAD2世紀頃(161~180年)のヘラクレス神殿で、柱は青い空に向かってすくっと建っています。神殿ファサード(正面)にはかつては「下記復元図」のような4本のコリント式円柱が立っていましたが、現在は横石を乗せた2本の円柱のみです。



 同上



 同上、神殿ファサードの横石を乗せた2本の円柱です。横石と柱の接点部はモルタルにて接合されていました。



 その接合部の大写しです。円柱上部の彫刻はコリント様式の特徴だと考えます。 きっと当時の崇高なる動物や植物(アカンサス=アザミ)の彫刻があったと想像します。



 神殿の周囲は石塀で囲われたと考えます。崩壊した石がそのまま放置され歴史を感じさせる設定です。南米のクスコやマチュピチュ遺跡の石塀を見ておりますので、その相違は往時の緊迫感による早期完工が優先されたのでしょう と感じております。向かい側に見える丘の斜面に「ローマ劇場」があり、背後の斜面は住宅が密集して石林のようです。



 ヘラクレス神殿の仮想の「復元図」です。4本の円柱があります。横石は円柱2本に1本だったのでしょう。あくまでも仮想図ですから作者の思い入れもあると考えられました。どの様にこのような大石を(約3トン)を積み上げたかの説明が下記です。



 円柱の石の部材は柱1本に付き5乃至6本で組みあがっております。梁(横石)も、おおよそ柱部材の重量にしております。何とピラミッドとは違い「木製のクレーン」で吊り上げたのです。上げ下げは左右に長いテコが着いた巻き上げ機(回転ドラム)を使用しています。クレーンの移動は丸太のコロです。後方の2つの円柱はカウンターウエイト(吊荷重に対する重し)と考えます。素晴らしい知恵です。吊ロープの仕様は不明でした。



 同上。全景。



 AD6世紀頃に建造されたビザンチン教会跡です。



 こちらが教会の正面です。上記写真の左側通路方向からの写真です。



 教会の祭壇の位置方向と世界一大きなヨルダン国旗を撮っております。



 同上。アンマン城入口付近(右側)からの写真です。左側がヘラクレス神殿方面で、後方が「ローマ劇場」方面です。オリーブの木が一本だけ健気に立っていました。



 アンマン城の正面入口です。


街風景(No.1)

2009-11-27 07:29:04 | ヨルダン
 この木は何の木でしょうか。ここヨルダンには至る所にあります。街の中や土漠の中にもです。次の写真をご覧ください。



 お解りでしょうか?そうですオリーブの木です。実(み)は緑→紫→黒色と変化し熟していきます。同じ木にこの3種類の過程が見られます。モーゼが杖を地面に突き刺し泉が沸き出しオリーブが植栽されたと聞きますが真偽の程はちょっと不可解ですが、多分そうだと考えております。 



 無数にあり街の中では収穫してない状態で、熟した後は自然に落下します。もったいないと感じますがそれほど沢山植生しているのです。郊外に行けば広大なオリーブ畑が目につき商品化されております。



 街路標識です。英語も併記されています。世界で一番難解な文字です。全く理解が出来ません。道路だから 長ーい 横線があるのでしょうか。



 同上。やっぱり長ーい横線があります。


 
 同上



 とあるショッピングセンターです。中をのぞかないと何屋さんか見分けがつきません。こういう目立つ場所には国王の写真が飾られております。


 
 日中はかなり暑いため路上駐車は歩道の木陰の下になります。不思議なことに通行人は終日殆ど居ません。やはり暑さの為と考えておりますが。だから次の乗り物が目につきます。



 イエローキャブならぬイエローバスです。これは路線バスで所定のルートを運行しております。



 グレイタクシーです。概してイエローキャブよりは新しい車です。


 
 見慣れたイエローキャブです。隣国から来ているのでしょうか。



 犬は全く見当たりませんが、猫は沢山います。通りも警戒することなくゆうゆうと闊歩しております。



 街道沿いのホテルです。空の青、アラブのタンクローリーと絵になると光景だと感じておりますが。 



 街の中心に在るアメリカ資本の5☆ホテルです。空の青は素晴らしいのですが、・・・・・HOTELと看板を見るまで何の建造物か分かりません。看板も目立たないようにわざとそのようにしているようです。



 金曜日(安息日)には青い空が広がる一方、郊外は土ほこりでまるでスモッグが掛かったようです。



 街の中心街(新市街)の様子です。左右の高層ビルの谷間に、美しい空と白い雲が、とても印象に残っております。



女性百景

2009-11-25 18:02:47 | ヨルダン
 イスラムの女性の写真を撮るのは無礼に当ります。決して彼女達は自分の顔を他人に撮られたくないのです。故に「ヒジャーブ」と言う布で容姿をお覆って居るのです。概して年配の女性は目だけ出し全身は黒い布で覆っているようです。日本で言えば着物を着る感覚だと思います。



 若い女性は頭巾だけで、それもカラフルで時代の趨勢を感じ取れます。



 ちょっと年配の方は、やはり黒装束のようです。が子供達はカラフルないでたちです。



 「ヒジャーブ」も徐々にファッション趣向になっているようです。頭部のスカーフもカラフルになり、黒装束も横に縞模様が入っています。



 工業団地から帰宅する女性は色々な服装をしております。が、頭巾だけは全員が着用しております。下の「ヒジャーブ」の中は色とりどりのジーンズやパンツ(概して地味な色です)で靴はサンダルやスニーカーや革靴等さまざまです。



 パンツと靴の配色を考えたファッショナブルな女性も数多く見られます。



 白い頭巾は学生です。これは規律があると考えます。但し男子学生は何も被っておりませんし、何でもありの服装や靴です。



 上記、同様に女子大生と思います。通りの向こう側が学校で13:00頃に門から出て来た所です。筆者は昼食を終え、ジョギング(早足のウオーキング)の最中に出会いました。



 こちらは多分、女子中学生だと思います。白い頭巾はしていますが、ジーパンとスニーカー姿です。



 中には、このようなカラフルな装いの女性も時々出会います。確かに時の流れが移っているように感じられます。首都アンマン市ではアメリカ資本の5星ホテルもあり、マクドナルドやバーガーキングもあります。驚いたのにはセブンイレブンも1店舗ありました。が、殆どの女性は頭部だけはスカーフをしております。記:セブンイレブンは偽物です。(後日判明しました)


モスク百景(No.1)

2009-11-24 01:39:21 | ヨルダン
 皆様お変わり御座いませんでしょうか。再び投稿を開始致しますので宜しく叱咤激励、ご鞭撻並びにコメントをお願い申し上げます。先回コメントがあり「国別のカテゴリー分け」にしましたので、ご覧になりたい国をクリックすればその国にアクセスできる様にしました。  さて、
 機会がありて中東はヨルダン国に来ました。ご存知の様にヨルダン川西岸は「パレスティナ自治区」とそれを囲むようにイスラエル国、北はシリア国、東はイラク国及び南はサウジアラビア国と接し、ヨルダン川東岸に位置します。JORDANと書いてヨルダンと日本人は発音しますが欧米人はジョルダンと発音しているようです。国土の8割が土漠(砂漠ではなく土)です。筆者は初めての中東の地で、幾度に亘る中東戦争、湾岸及びイラク戦争でこの地に逃れたきたパレスティナ難民やイラクからの避難民をヨルダン国は引き受けており国際社会から暖かい眼差しで見られております。歴史はおよそ50万年前の石器時代から遊牧人種がいたという記録があり、紀元前(今後はBC)1万年前にはヨルダン川流域には人類最古の農業が行われたと記されています。後日掲載しますが、古代ローマ時代の遺跡等、多くの歴史や文化が複雑に点在する古代文化の交錯を感じさせる国です。
 さて、下記写真はヨルダン国最大のモスクである「キング・アブドウッラー・モスク」です。対になった尖塔とブルーのタイルに覆われたドームの形状から「ブルー・モスク」と呼ばれています。



 「ブルー・モスク」ドームのマジョリカブルーの美しいタイル。



 「ブルー・モスク」の先頭部分です。夜はライトアップされます。おおよそ1ha(100mX100m)にこういうモスクと尖塔があり、全方向に拡声器が設置され、所定の時間になると大きな肉声でコーラン(イスラムの聖典)が響き渡ります。本当に敬虔なイスラム信者のように思えます。以前、東南アジアに行った時にはお酒は自由に飲めたのですがここは完全に禁止です。一部の最高級ホテル等ではもてなしていると聞きますが、その理由の真偽は分かりません。



 拡声器部の大写し。何だかここだけを見ると要塞を思い浮かべます。やっぱり威厳を大切にするのでしょうね。


 首都アンマン市の旧市街のアシュラフィーエの丘の上にあり、白と黒の2色のブロック(タイルではない)で積み上げられたちょっと変わった「アブー・ダルウイッシュ・モスク」です。上記の「ブルー・モスク」同様、アンマン市に置いては至る所からその容姿を仰ぐことが出来ます。



 上記モスクの尖塔部。白と黒と拡声器の取り合わせは異様な感じを覚えます。



 上記しましたように、旧市街の「アンマン城」(後日掲載)から「アブー・ダルウイッシュ・モスク」の背部を望遠で撮っております。安息日以外の日は自動車の排気ガスや風の強い日は土漠の土が空を覆い大気が霞んで見えます。文化が進化するとは逆に環境は悪化するようです。



 旧市街(ダウンタウン)のランドマークの「キング・フセイン・モスク」。上記白黒モスクとアンマン城の谷間にあり、金曜日の安息日は車は通行不可です。ここダウンタウンは多くのアンマン人の生活を支えている市場ですので週日でも大勢の人々で賑わっております。



 同上「キング・フセイン・モスク」イスラム帝国AD640年のビザンチン時代に作られた大聖堂(カトリック)を改装してモスクにされ、ヨルダン国初代国王アブドウッラー1世によりオスマン建築様式にて修復されたと書物に記述されています。筆者は建築様式は分かりませんが、その石造建築のセンスには現代の建築には感じ得ない崇高な荘厳さが有り心が洗われる感じがしてきます。



 夕暮れのモスクの上に、雲で「世界地図が描かれていました」ので撮りました。珍しい光景です。世界は一つであれと言う神の啓示でしょうか。