土木技術者が撮った中南米の「光りと影」の写真 及び 他国風情

 約22年間の中南米赴任中に土木技術者の視点から撮った写真。開通前のパナマ運河に架かる第二アメリカ橋は圧巻 & 他国事情

ネボ山→死海 (2)

2016-07-20 10:00:25 | ヨルダン
 前回2009年と今回2016年の約7年間の遷りはどうでしょうか?

 縁があってネボ山、死海に行くことができました。

 今回もレンタカーですが、スマートフォンのグーグルアースを見ながらの道程です。
 (私は携帯は①電話を受ける ②グーグルアースで道を調べる ③音声で目的地を探す
 の3機能しか使えない為、メールを打つ時はスマホからテザリングしてパソコンで無線
 を拾うような、ややこしい事をしています。
 実に無駄な事と分かっていますが、生活には困っていませんので、そのままにしています。
 理由はスマホの字が小さくて見難いのと、キーが小さく誤打をするからです。

 閑話休題

 ネボ山へはアンマンからだと南下してマタバから行くのですが、今回は「ㇾ」=南下迂回 ではなく

 「/」=直線で行きました。 そして

 死海へはネボ山横の道路を下りて死海の北側先端にでます。

 そこから死海の湖岸道路(片側2車線)を南下します。

 ・・・・・

 死海の湖面の標高はー418m と、地球上で最も低い場所です。ここが大地溝帯になっています。

 最寄りの海面(紅海)より約400m 低いのですから流出水はなく、流入水はヨルダン川のみです。

 年間雨量が50-100mmですので、難民増加に伴う取水増と、

 水面の蒸発量が、ヨルダン川からの水供給量を上回っていますので

 水面は年々減少し、2050年には干上がると予測されています。

 世銀の融資で紅海からパイプラインで海水を引くPJが実施されていると聞いています。

 ・・・・・

 塩分濃度が海水(3%)の10倍(30%)ですから生物は生息しません。それゆえ「死海」です。

 またカナヅチの人も水中では浮きます。泳ぎが?上手な人は水中に浮いて新聞を読んだりしています。

 死海では通常状態(うつ伏せ)の泳ぎはできませんので(=塩を飲むので)、仰向きになります。

 大きさはほぼ琵琶湖と同じです。


 ヨルダンの舗装率は日本並みと考えます。そして道路が広いです。
 アゼルバイジャンも同様でした。多分に軍用車(機)が通るのではないかと考えます。

 ・・・・・

 それでは2016年と2007年を比較しながら見て行きましょう。

 と言っても差ほど変わってはいません。 

 個人的には、変わっていない方が思い出や懐かしさがあります。 

 ここは今でも、時がゆっくりと流れていました。


 ネボ山の入口前から北側を見ています。
 中央のオリーブに囲まれた集落はそのままです。

 2007年の同じ場所。

 上記の右上端の白い建物もかわっていません。

 
 上記の右側にあるアラビア語の「アイン・ムーサ」は「モーゼの泉」の意味です。
 モーゼが岩を杖で突いて、水を湧き出させた場所です。

 今回、この看板と見張り小屋ができていました。
 左側の道路を下っていくと死海です。

 ネボ山への入口

 同上、2007年の物。

 入口を潜りフランシスコ修道院へ行く参道。

 2007年のもの。

 ネボ山記念碑。街灯がついていました。

 2007年の物。

 上記から参道の入口を望む。ほぼ同じです。

 モーゼ記念碑。後ろがスッキリした感じはします。

 2007年の物

 フランシスコ修道院の裏側は壁と屋根の外装部分は完成していた。(内装部分は立入禁止です)
 周囲の崖も安全を考慮し手が加えられていた。

 2007年は土台の壁だけ。
 裏口から行く参道は未整備だった。

 裏門。

 2007年。壁と屋根は未構築。

 現在の上記。

 ローリングストーン。

 2007年の物

 モーゼの杖

 2007年は仮フェンスがあった。

 モーゼが目指したカナンの地

 2007年は字が見えなかった。

 上記から死海・イスラエルを見る。

 2007年の物

 未だに建築中の修道院

 同上

 2007年の、修道院の石造りの塀は無くなった。

 DEAD SEAへおります。
 2007年は修道院への手前のアクセスはなかった。

 2007年のもの

 ネボ山の標高は約800mでDEAD SEAの標高は約-400Mで
 その差1200mの岩石混じりの土漠の中を一気に下ります。
 周りの風景は2007年と同じ。

 右端上方がネボ山です。

 死海越にパレスチナ高原が見えます。

 上記の大写し

 死海沿岸はリゾート地であり、高級ホテルが立ち並びます。
 標高-400mですから酸素量が濃く体内が浄化されます。
 心臓病の人には効果があると聞きます。

 同上。世界中から治癒や観光で訪れます。

 同上

 同上

 上記ホテル内にはプライベートビーチはありますが
 セキュリティが厳しく、値段も高いので
 一般人はここの有料のビーチにきます。
 死海には大きな砂浜はなく海水浴=浮遊体験や泥パックの為のものです。

 この有料ビーチもロッカーやレストラン等により2クラスあります。

 砂浜へのエントランス

 エントランス脇の植栽

 同上

 海浜

 遊技場もあります。

 ビーチパラソル。休みの日は満員になるそうです。

 同上、下りて行った所が砂浜です。

 死海の水は減少しています。
 塩跡から推定できます。

 同上

 2007年の物

 湖岸道路を南下していきます

 死海南部は塩湖になっています。
 規模は違いますが南米ウユニの様です。

(参考までに) 南米ウユニの塩湖 です。

 同上、やっぱり大きいです。死海の約18倍の広さです。

 塩湖を過ぎると、死海道路から山岳道路に入ります。
 途中まではこういう土漠の中の道路です。
 片側1車線です。

 土漠を過ぎると山岳道路になります。
 尾根を越すとそこが目的地です。

 同上。今回は死海道路から最短距離で目的地に行きましたが
 山岳道路は一部山越えの部分が工事中で、あと5年位はかかりそうです。
 死海の塩湖から直角に左折しタフィーラ→→ショーバック経由が舗装道路で快適です。

 目的地入口に着きました。長かったアンマンから都合4時間です。
 

 次回をお楽しみに

 

変わりゆくのか 「イスラム社会」

2016-07-01 06:00:35 | ヨルダン
 数日間の予定でイスラム社会圏に来ています。

 電線を地下埋設する技術は十分に備えているのですが、なぜだか地上配線にします。
 この建物の一角からこちらに向けて微笑んでいる女性が居ます。何処でしょう?

 大写ししました。

 モスクは立派で同じ形のものはありません。
 一つ一つが美しい容姿を持っていて見飽きしません。
 モスク建造物に関してはイスラムの凄さを感じます。

 世界で一番難しい文字と思います。


 中東への全便は日本を夜遅く出発しアラビア半島東側の大都市に朝早く到着します。
 この地図は夜と昼とを現在の位置(飛行機の位置)を基に表示しています。


 日本からは赤道の上部を通過しますので飛行時間は12時間強です。


 アラブの空港はどこも立派です。半島の東側のドバイやドーハは特別に豪華です。
 砂漠の中の空港は地平線が見える位の広さです。
 向こうのビルの高さは手前の車と比較して想像してください。

 空港ターミナルビル内


 一方、年々、街も海岸を拡張し海へと近代都市化が進んでいます。


 今回の最終目的地はここから約3時間by air + 約2時間by carの砂漠の中にあります。


 ・・・・・

 街に着いた途端に黒い布で覆った女性や
 濃い眉毛がひつきそうで鼻が異常に高い男性に遭遇します。

 カラフルな装い (注)女性の撮影は非礼ですので車中から撮っています)

 同上

 同上、カジュアル服の男性は半袖。

 今は一番暑い時期で、温度計はMAX50℃までで針が振り切れた。湿度は30%。汗が出ないので過ごせるのか。
 多分、長年の慣れでしょうね。


 店屋の前の男性はパレスティナ系

 Gパンに変わりつつあります。

 男性の正装

 同上

 左端はロバに跨ったパレスティナ系


 ・・・・・

 イスラム社会には
 一町歩に一つは必ずある物があります。
 一日五回、日の出から日没まで、毎日欠かさず地声が響き渡ります。

 それもそのはず、全方向に向けて大きな拡声器が設置されているからです。


 年々、女性の服装はカラフルになり、男性もジーパン姿の人が増え自由化の方向へと
 進んでいるように見えます。  が、

 拡声器から聞こえる放送は不変で、日本のお坊さんの読経のような抑揚はなく
 地に響き渡るようなダミ声?です。

 モスクはどこも立派です。

 拡声器はどこでしょう。

 大写し、てっぺんにあり、四方向に向いています。

 綺麗なモスク

 拡声器はここです

 大写し

 モスク

 拡声器

 美しい尖塔(ミナレット)

 背の高いミナレット。一日五回修行の為にらせん階段を昇降するのでしょうか。
 多分、(邪推はいけませんが)現代はWIFIを飛ばしていると考えています。

 モスク

 拡声器は窓の中にあります。

 四角形のミナレット

 ドームが目立つモスク

 同上

 同上

 同上

 多角形のミナレットに8方に拡声器

 多角形のミナレット

 同上

 同上

 同上

 四角形と多角形併用のミナレット

 二塔式のミナレット


 ・・・・・

 砂漠が80%占めると旅の本には書いてあるのですが、意外に
 野菜や果物は豊富です。

 トマトは袋売り=10kg以上です



 そして、ここはシリアとの国境の街ですが、何と驚いた事に
 ・米資本のファストフード店や

同上

 同上

 同上

 同上

 ただしファストフード店は日の出から日没までは閉店です。と言うのはただいまラマダン中です。
 (6月7日から約1ケ月間の断食月)日没頃から夜中の3時頃までが開店で通りは若者で一杯です。

 ・フランス資本のスーパーや


 ・スエーデン資本の家具屋まであります。


 ・・・・・

 戦争をやっている所とやっていない所では

 こんなにも生活環境にも差があるかと思い知らされます。

 と、

 「イスラム社会も変わりつつある」 と本稿を書こうとしていたら

 何とここからすぐの=約1時間by airのトルコ・イスタンブール空港内で自爆テロが発生したと

 NEWSが流れ出した。40人以上の死者と200数十人の負傷者がでました。

 被害に合われた方々にお悔やみ申し上げる言葉が出てきません。

 ただただご冥福をお祈りするばかりです。

 その後、

 7月2日にはダッカで、それも日本人が犠牲になり、

 3日にはバクダッドで自動車爆弾テロで300人以上の人たちが犠牲になりました。


 テロは残虐非道で正当性は微塵もありません。卑劣な蛮行そのものです。

 こういうのを目の当たりにすると、やっぱりイスラム圏は怖くて嫌な所だなぁー

 と思ってしまいます。


 が、ほんの一握りの人たちがイスラムの社会を風化させています。
          
    
 イスラム聖典に敬虔な彼らは、敬虔なほどに頑固に意思を貫きますが、

 テロは決してしません。 が生活は慎ましく貧困者は少なくはありません。

 私の友人は敬虔なモスレムですが土木技術も優秀です。頭もよいです。

 コンピューターやスマホは自由自在に操ります。(私は携帯電話も使えません)


 イスラム社会に限らず、全ては宗教と民族・種族の違いから争いが生じると思います。

 その根本にある要因は、国の未教育による貧困もしくは貧困が故の未教育と考えます。

 ・・・・・いずれにせよこれからの国を背負う児童の教育制度は必須です。

 今後も、国際社会の地道な草の根の支援が継続されて、

 いつかは実を結ぶ事を願ってやみません。

 道半ばで犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈りを申し上げます。

 ・・・・・
    
 インシャラー。(全ては神の御心のままに)

 この言葉を聞かされると、どういう訳か気分がネガティブになります。

    
 一方、中南米にも同じような言葉があります。

 アスタマニャーナ。(明日はどうにかなるさ=神にまかせるしかないさ)

 この言葉を聞くと、どういう訳か気持ちが陽気にポジティブになってきます。

 中南米も貧困ですが自給自足ができます。国民はラテン系です。

 ラテン系が明るいのか、または明るくならざるを得なく明るくなったかは計り知れませんが

 歌やダンスを見聞きしていますと、明るく楽しい国民性に映ります。

 ・・・

 やっぱり南米はいいところだと思います。


モーゼ終焉の地ネボ山&死海

2009-12-24 15:37:30 | ヨルダン
 メリー クリスマス, Merry Christmas & Feliz Navidad

 アンマン市から南西(イスラエル側)に車で約1時間の所にある標高約800mのネボ山、そこはヨルダン渓谷一帯、死海、エリコやエルサレムを見渡すことができるユダヤ教、キリスト教にとっては重要な山であります。聖書によればヤハウエ(旧約聖書の唯一絶対神)が死を目前にしたモーゼに、このネボ山に登りユダヤ人の「約束の地」=「カナン」=「現在のイスラエル国及びパレスチナ自治区」を一目見るように語りかけたと言います。またモーゼは死後この地に埋葬されたとも言います。モーゼの死を後世に伝える十字架や墓のあった場所にはA.D.4世紀には修道院が建てられ、現在のフランシスコ修道会の教会内部にその遺構が残されております。今日でもその調査及び発掘作業が行われており立入禁止になっています。(2009年11月現在)
 写真はネボ山のモーゼ終焉の地の遺構がある教会への参道です。



 ネボ山に登る道路から土漠の中に茂る緑地帯を見ております。



 そうですオリーブの木です。



 土漠の中に断続して植栽されています。



 一枚目の写真の参道の奥に見える記念碑です。モーゼの記念碑と勘違いしますが2,000年に前ローマ法王ヨハネ・パブロ・Ⅱ世が参拝された時に造られた記念碑です。



 参道を挟んで上記の向かい側にモーゼの記念碑があります。石碑の文字のSIYAGHAとは修道院の意味です。



 こちらはTHE ABU BADDと書いた銘石が横にあり「かつてはKUFER ABU BADDとして知られたFAISALIYAHの古都にあるビザンチン式修道院の扉に取り付けられていたRolling Stone」と書いてあります。 クリスチャン信者のみが分かるのでしょうか? 現地で購入した観光ブックにも、その意味は記されていません。観光客に疑問をかもし出しているのかもしれませんが、もっと分かり易い表現であればと思います。ここは入場料を1JD(150円)徴収されます。規模が小さいのと聖域ですので喜捨の意味合いで発掘調査費に当てていると考えます。



 上記 THE ABU BADD の銘石です。


 最寄の都市マタバはここから約10km東に位置します。ここには写真のようなモザイクのタイルや絵画等が数多く残っております。古のローマ道路の交易によりギリシャやアラビア文字で書かれた絵画もあります。もともとはこのモザイクタイルは教会の内部に飾ってありましたが現在発掘作業中の為、教会敷地の外に仮設の小屋を建てて、その中に復元されていました。



 この写真こそ、神がモーゼに示された「約束の地」です。死海、エルサレム、エリコやヨルダン渓谷一帯が一望できます。遠くにかすんで見えるのがパレスチナ高原です。



 上の写真の背後に現在発掘調査中の修道院の遺構があり、蛇を巻きつけたモーゼの杖(大蛇をモーゼが退治した伝説に由来する)を形どった十字架の位置も仮設フェンスに囲まれて立入禁止です。



 フランシスコ修道会の教会の遺構です。西側から撮っています。



 同上。東側から撮っています。



 同上。



 ネボ山の北側の斜面です。「アイン・モーサ」と言われ、ペトラ遺跡でも紹介しましたモーゼが岩に杖を突き刺し泉が湧き出した場所です。オリーブが植生しておりました。



 ネボ山を西側に下りるとそこは「死海」です。北部シリア国から流入するヨルダン川やヨルダン渓谷から流入するその他の河川は死海で滞留し流出はしません。死海の水は塩分と鉱分濃度が非常に高く、植物や動物は棲息しませんが、治療効果の期待できる鉱泉水があるため、そのための施設はあります。また塩分濃度が高いので「かなづち」の人でも楽に海面に浮き読書が可能です。死海の海面水位(海面上で)-400mと地球上での最低位地です。ここは大地溝帯がありヨルダン川一帯は大渓谷になっております。ゆえにネボ山との標高差は1,200mになります。対岸のパレスチナ自治区の山々も同様だと思います。(下記している様に死海上方にガスがかかりはっきりは確認できません。)



 死海を大写ししました。流出する川がないため、滞留した河川水は太陽熱により蒸発し(塩分と鉱物分は残留)、このようにガスが掛かって対岸のパレスチナ自治区の高原も薄っすらしか見れません。本当に蛇足ですが、ここは「視界不良」でした。



 ヨルダン川はイスラエル国やシリア国及び特にヨルダン国にとっては重要な水資源です。ヨルダン国は幾度もの中東戦争によるパレスチナ難民やイラクからの戦争避難民を受け入れていますので水量確保の問題は深刻です。それに加えヨルダン渓谷沿いは以前から農業も栄えており、流入する水が減少し死海の水は減少しつつあります。この写真の海岸の塩跡で分かるように1m以上は低下しております。この状態が続くと、それこそ死界をさ迷うのは明白です。近年、経済開発機構(OECD)における開発援助委員会(DAC)各国においてこの水資源不足=生活用水不足(主に飲料水)による対策が施工されております。地球の環境を守りながら一方で経済成長を成し遂げられるような対策が望まれております。大国の一人勝ちは許容されない地球環境になることを願っておりますし、それが人(人類の一員)としての優しさだと感じます。
 再度、メリー クリスマス。




モスク百景(No.2)

2009-12-07 16:50:51 | ヨルダン
 イスラム教に於けるモスクは礼拝堂です。礼拝堂は屋根をドーム型にし内部空間を広く取っております。アッラーフ(アラー)を唯一の神とし、絵画や彫像等の偶像の崇拝を完全に否定しています。モスクの床には敷物があり、メッカ(マッカ)の方角にミフラーブと言う「くぼみ」があり、そこに向かって決められた時間に信者が「おじぎ」を数回します。モスクの横には大体「円柱」と「角柱」の2タイプのミナレットと呼ばれる「尖塔」があります。モスクは町の街区毎に必ず1ヶ所存在し、ミナレットには全方向にスピーカーが設置され朝5時?から5回/日(数えた事は有りませんが書物にそう記されています。)にイスラムの聖典、コーラン(クルアーン)を、肉声で、失礼だけど「がなり立て」ます。金曜日の安息日の礼拝は都市交通が麻痺する位の人達が集まってきます。 長年、カトリックの国々で生活してきた者にとってはその外観も内観も然り、このコーランの大きな音には馴染めない感じです。

 写真は円柱型のミナレットです。頂上は大体、円錐型です。スピーカーがあるお立ち台(踊り場)には昔はムアッジンと言う朗詠師が礼拝の時間を肉声で告げていたと聞きます。



 これは角柱型のミナレットです。頂上部は円錐型です。



 これは「灯台」ではありません。お立ち台に設置されたスピーカーと柱が同色で、とてもしゃれた感じでした。



 角柱のミナレットで高さも45m位(約15建のビル)あり聳え立っていました。段々、街の中の渋滞を避けて、モスクも郊外に散在して来ているようです。



 ミナレット内部はラセン階段になっております。明かり取りの窓が着いた容姿端麗?なものです。



 同上



 ミナレットは1塔形式と2塔形式がここヨルダンでは大部分≒殆んどです。多塔式はお目にかかりません。



 同上 2塔形式のミナレットを持ったモスクです。



 小学校の校庭の中にモスクがありました。もしくは逆で、モスクの庭の中に小学校があるのかも知れません。



 夕暮れ時からミナレットは灯が点ります。街はアンマン市です。



 上記「ミナレット」部の大写しです。



 上記「ミナレット」の上方部を昼間に撮りました。




 前々回投稿の「ススキ」に類似した草花の名前をメールにて頂戴致しました。ありがとう御座います。なまえは「Pampas Grass」パンパス・グラスと言い、何と南米アルゼンチンのパンパ=大草原 が原産地でした。


 上記「Pampas Grass」をアルゼンチン・パタゴニアのパンパの写真集から探しましたが、牛や羊を育成している大草原パンパは同国の北側で、ここ南側のパタゴニアには大半が不毛の大地で、この写真のように茎の小さなものが路傍に咲いておりました。こちらは「ススキ」かもしれません。文明には汚されていないパタゴニアの空の青さを改めて想い出しています。




街風景(No.3)(花と木)

2009-12-01 16:54:10 | ヨルダン
 ここアンマン市は標高が平均800mあり、日中は暑さを感じますが空気が乾燥しているため、汗はかかず、日陰に入るとひんやりします。花や木も四季折々ではなく一年中植生していると言うのが適当な表現です。写真は「ソテツ」と「ツツジの一種」と思います。この付近は高級住宅地で色とりどりの花木が見られます。



 こういう気高い「ススキ」?は初めてお目にかかりました。きっと「ススキ」の一種で名前は違うと思いますが? もしくわ「ススキ」とは全く別品種かも知れません。すごく清楚な花で茎は青々していました。何と言う名前の草木なのでしょうか? 



 上記大写し



 昨日掲載しましたアンマン城から世界一の国旗を見ております。木は左から「オリーブ」「杉」「松」「杉」「オリーブ」です。



 色んな木々が植生しています。その中で赤い花を見つけました。何でしょうか?



 可憐な「バラ」です。人種や宗教は変われども自然界は何処も一緒なのです。きれいですねー。



 小ぶりの「杉の木」がありました。白い実をつけています。以前居た中南米にも多くの杉を見ました。ここヨルダンも九州とほぼ同緯度ですので有っても不思議ではありませんよね。



 「杉の実」です。葉は日本のよりも厚い感じがします。種類が違うものだと思います。



 「杉」で造った六重の塔です。ここの家主は「どこの国の人」でしょう?きっと日本を知っている方だと考えます。異国では初めて見ました。



 なんと「松」もあるのです。枝ぶりも良く絵になる容姿ですが、「杉」と違い、道路沿いに健気に生きておりました。



 「松ぼっくり」は道路沿いにある為、必然に太めになったような感じに見えます。



 この花は何でしょうか。舟型の葉っぱは「夾竹桃」のような感じです。やはり色がある花は華があります。



 これは「朝顔」と思います。



 この木の中になにやら赤い色のものが見えます。「なんてん」なのでしょうか?



 上記の実の大写しです。「なんてん」よりも実が大きいように見えますが・・。



 「ぶどう」もあります。



 この木には次の写真の実がなっていました。椎の木でしょうか?



 そうです「どんぐり」です。


街風景(No.2)(名所旧跡アンマン市内)

2009-11-30 12:46:37 | ヨルダン
 ローマ皇帝アントニオス・ピウスの時代(AD138~161年)に建設された、33列6,000人収容可能なヨルダン国最大の屋外劇場で、丘の傾斜(斜面)を利用して造られています。 ここは旧市街にあたり、先回掲載のキング・フセイン・モスクから徒歩で5分位に位置します。斜面は低所得者層が崖に張り付くように家が重なりあっております。この写真は後述しますが旧市街を見下ろすアンマン城から撮っております。名前は「ローマ劇場」と言います。



 上記同様で少し大写しいたしました。この写真では写っておりませんが、国王がしっかりから監視をしております。



 ローマ劇場の中へ下りてきました。色んなイベント会場になっており、本夕も音楽祭があり、マイクや照明の設置作業をしておりました。国王は探しえたでしょうか?



 旧市街を見下ろすアンマン城のヘラクレス神殿からローマ劇場を撮っております。古にはお城から劇場までの急斜面に階段があり容易にアクセスできたと記述されておりますが現在はこちら側も低所得者層住宅が林立し消滅したようです。



 三方が崖で、残りも細い尾根と言う地形から「城塞」が作られました。この柱はAD2世紀頃(161~180年)のヘラクレス神殿で、柱は青い空に向かってすくっと建っています。神殿ファサード(正面)にはかつては「下記復元図」のような4本のコリント式円柱が立っていましたが、現在は横石を乗せた2本の円柱のみです。



 同上



 同上、神殿ファサードの横石を乗せた2本の円柱です。横石と柱の接点部はモルタルにて接合されていました。



 その接合部の大写しです。円柱上部の彫刻はコリント様式の特徴だと考えます。 きっと当時の崇高なる動物や植物(アカンサス=アザミ)の彫刻があったと想像します。



 神殿の周囲は石塀で囲われたと考えます。崩壊した石がそのまま放置され歴史を感じさせる設定です。南米のクスコやマチュピチュ遺跡の石塀を見ておりますので、その相違は往時の緊迫感による早期完工が優先されたのでしょう と感じております。向かい側に見える丘の斜面に「ローマ劇場」があり、背後の斜面は住宅が密集して石林のようです。



 ヘラクレス神殿の仮想の「復元図」です。4本の円柱があります。横石は円柱2本に1本だったのでしょう。あくまでも仮想図ですから作者の思い入れもあると考えられました。どの様にこのような大石を(約3トン)を積み上げたかの説明が下記です。



 円柱の石の部材は柱1本に付き5乃至6本で組みあがっております。梁(横石)も、おおよそ柱部材の重量にしております。何とピラミッドとは違い「木製のクレーン」で吊り上げたのです。上げ下げは左右に長いテコが着いた巻き上げ機(回転ドラム)を使用しています。クレーンの移動は丸太のコロです。後方の2つの円柱はカウンターウエイト(吊荷重に対する重し)と考えます。素晴らしい知恵です。吊ロープの仕様は不明でした。



 同上。全景。



 AD6世紀頃に建造されたビザンチン教会跡です。



 こちらが教会の正面です。上記写真の左側通路方向からの写真です。



 教会の祭壇の位置方向と世界一大きなヨルダン国旗を撮っております。



 同上。アンマン城入口付近(右側)からの写真です。左側がヘラクレス神殿方面で、後方が「ローマ劇場」方面です。オリーブの木が一本だけ健気に立っていました。



 アンマン城の正面入口です。


街風景(No.1)

2009-11-27 07:29:04 | ヨルダン
 この木は何の木でしょうか。ここヨルダンには至る所にあります。街の中や土漠の中にもです。次の写真をご覧ください。



 お解りでしょうか?そうですオリーブの木です。実(み)は緑→紫→黒色と変化し熟していきます。同じ木にこの3種類の過程が見られます。モーゼが杖を地面に突き刺し泉が沸き出しオリーブが植栽されたと聞きますが真偽の程はちょっと不可解ですが、多分そうだと考えております。 



 無数にあり街の中では収穫してない状態で、熟した後は自然に落下します。もったいないと感じますがそれほど沢山植生しているのです。郊外に行けば広大なオリーブ畑が目につき商品化されております。



 街路標識です。英語も併記されています。世界で一番難解な文字です。全く理解が出来ません。道路だから 長ーい 横線があるのでしょうか。



 同上。やっぱり長ーい横線があります。


 
 同上



 とあるショッピングセンターです。中をのぞかないと何屋さんか見分けがつきません。こういう目立つ場所には国王の写真が飾られております。


 
 日中はかなり暑いため路上駐車は歩道の木陰の下になります。不思議なことに通行人は終日殆ど居ません。やはり暑さの為と考えておりますが。だから次の乗り物が目につきます。



 イエローキャブならぬイエローバスです。これは路線バスで所定のルートを運行しております。



 グレイタクシーです。概してイエローキャブよりは新しい車です。


 
 見慣れたイエローキャブです。隣国から来ているのでしょうか。



 犬は全く見当たりませんが、猫は沢山います。通りも警戒することなくゆうゆうと闊歩しております。



 街道沿いのホテルです。空の青、アラブのタンクローリーと絵になると光景だと感じておりますが。 



 街の中心に在るアメリカ資本の5☆ホテルです。空の青は素晴らしいのですが、・・・・・HOTELと看板を見るまで何の建造物か分かりません。看板も目立たないようにわざとそのようにしているようです。



 金曜日(安息日)には青い空が広がる一方、郊外は土ほこりでまるでスモッグが掛かったようです。



 街の中心街(新市街)の様子です。左右の高層ビルの谷間に、美しい空と白い雲が、とても印象に残っております。



女性百景

2009-11-25 18:02:47 | ヨルダン
 イスラムの女性の写真を撮るのは無礼に当ります。決して彼女達は自分の顔を他人に撮られたくないのです。故に「ヒジャーブ」と言う布で容姿をお覆って居るのです。概して年配の女性は目だけ出し全身は黒い布で覆っているようです。日本で言えば着物を着る感覚だと思います。



 若い女性は頭巾だけで、それもカラフルで時代の趨勢を感じ取れます。



 ちょっと年配の方は、やはり黒装束のようです。が子供達はカラフルないでたちです。



 「ヒジャーブ」も徐々にファッション趣向になっているようです。頭部のスカーフもカラフルになり、黒装束も横に縞模様が入っています。



 工業団地から帰宅する女性は色々な服装をしております。が、頭巾だけは全員が着用しております。下の「ヒジャーブ」の中は色とりどりのジーンズやパンツ(概して地味な色です)で靴はサンダルやスニーカーや革靴等さまざまです。



 パンツと靴の配色を考えたファッショナブルな女性も数多く見られます。



 白い頭巾は学生です。これは規律があると考えます。但し男子学生は何も被っておりませんし、何でもありの服装や靴です。



 上記、同様に女子大生と思います。通りの向こう側が学校で13:00頃に門から出て来た所です。筆者は昼食を終え、ジョギング(早足のウオーキング)の最中に出会いました。



 こちらは多分、女子中学生だと思います。白い頭巾はしていますが、ジーパンとスニーカー姿です。



 中には、このようなカラフルな装いの女性も時々出会います。確かに時の流れが移っているように感じられます。首都アンマン市ではアメリカ資本の5星ホテルもあり、マクドナルドやバーガーキングもあります。驚いたのにはセブンイレブンも1店舗ありました。が、殆どの女性は頭部だけはスカーフをしております。記:セブンイレブンは偽物です。(後日判明しました)


モスク百景(No.1)

2009-11-24 01:39:21 | ヨルダン
 皆様お変わり御座いませんでしょうか。再び投稿を開始致しますので宜しく叱咤激励、ご鞭撻並びにコメントをお願い申し上げます。先回コメントがあり「国別のカテゴリー分け」にしましたので、ご覧になりたい国をクリックすればその国にアクセスできる様にしました。  さて、
 機会がありて中東はヨルダン国に来ました。ご存知の様にヨルダン川西岸は「パレスティナ自治区」とそれを囲むようにイスラエル国、北はシリア国、東はイラク国及び南はサウジアラビア国と接し、ヨルダン川東岸に位置します。JORDANと書いてヨルダンと日本人は発音しますが欧米人はジョルダンと発音しているようです。国土の8割が土漠(砂漠ではなく土)です。筆者は初めての中東の地で、幾度に亘る中東戦争、湾岸及びイラク戦争でこの地に逃れたきたパレスティナ難民やイラクからの避難民をヨルダン国は引き受けており国際社会から暖かい眼差しで見られております。歴史はおよそ50万年前の石器時代から遊牧人種がいたという記録があり、紀元前(今後はBC)1万年前にはヨルダン川流域には人類最古の農業が行われたと記されています。後日掲載しますが、古代ローマ時代の遺跡等、多くの歴史や文化が複雑に点在する古代文化の交錯を感じさせる国です。
 さて、下記写真はヨルダン国最大のモスクである「キング・アブドウッラー・モスク」です。対になった尖塔とブルーのタイルに覆われたドームの形状から「ブルー・モスク」と呼ばれています。



 「ブルー・モスク」ドームのマジョリカブルーの美しいタイル。



 「ブルー・モスク」の先頭部分です。夜はライトアップされます。おおよそ1ha(100mX100m)にこういうモスクと尖塔があり、全方向に拡声器が設置され、所定の時間になると大きな肉声でコーラン(イスラムの聖典)が響き渡ります。本当に敬虔なイスラム信者のように思えます。以前、東南アジアに行った時にはお酒は自由に飲めたのですがここは完全に禁止です。一部の最高級ホテル等ではもてなしていると聞きますが、その理由の真偽は分かりません。



 拡声器部の大写し。何だかここだけを見ると要塞を思い浮かべます。やっぱり威厳を大切にするのでしょうね。


 首都アンマン市の旧市街のアシュラフィーエの丘の上にあり、白と黒の2色のブロック(タイルではない)で積み上げられたちょっと変わった「アブー・ダルウイッシュ・モスク」です。上記の「ブルー・モスク」同様、アンマン市に置いては至る所からその容姿を仰ぐことが出来ます。



 上記モスクの尖塔部。白と黒と拡声器の取り合わせは異様な感じを覚えます。



 上記しましたように、旧市街の「アンマン城」(後日掲載)から「アブー・ダルウイッシュ・モスク」の背部を望遠で撮っております。安息日以外の日は自動車の排気ガスや風の強い日は土漠の土が空を覆い大気が霞んで見えます。文化が進化するとは逆に環境は悪化するようです。



 旧市街(ダウンタウン)のランドマークの「キング・フセイン・モスク」。上記白黒モスクとアンマン城の谷間にあり、金曜日の安息日は車は通行不可です。ここダウンタウンは多くのアンマン人の生活を支えている市場ですので週日でも大勢の人々で賑わっております。



 同上「キング・フセイン・モスク」イスラム帝国AD640年のビザンチン時代に作られた大聖堂(カトリック)を改装してモスクにされ、ヨルダン国初代国王アブドウッラー1世によりオスマン建築様式にて修復されたと書物に記述されています。筆者は建築様式は分かりませんが、その石造建築のセンスには現代の建築には感じ得ない崇高な荘厳さが有り心が洗われる感じがしてきます。



 夕暮れのモスクの上に、雲で「世界地図が描かれていました」ので撮りました。珍しい光景です。世界は一つであれと言う神の啓示でしょうか。