土木技術者が撮った中南米の「光りと影」の写真 及び 他国風情

 約22年間の中南米赴任中に土木技術者の視点から撮った写真。開通前のパナマ運河に架かる第二アメリカ橋は圧巻 & 他国事情

ジェラシュ遺跡 (2)

2016-09-08 00:51:12 | ヨルダン(ジェラシュ遺跡)
 2009年以来、今回訪問2016年7月の間に、遺跡の入口に立つ凱旋門が完全に修復されており、
 その威風堂々とした構えは、訪れる人を、一瞬の内にしてローマ時代へと引戻します。
 遺跡の中も立入禁止措置の塀が設置されて、徐々に修復作業が進められていました。
 又、お土産店や駐車場等の、かなりの部分の遺跡以外の施設も整備されていました。

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 ジェラシュは紀元後(AD)1世紀~2世紀にかけて造られた建造物で、AD8世紀に大地震に見舞われ、遺跡の東側半分は瓦礫に埋もれて、現存する遺跡は西側半分のものです。 
 現在、東側は市街地化が進み建物が所狭しと存在しています。

    北が上方部で中央の道路(紫色)を挟んで西側が遺跡で東側(茶色)が市街地。
           
 
 19世紀にドイツ人観光客が発見し、20世紀から発掘・修復作業が進められています。
 建物や幹線道路脇等の柱、梁は地震後の姿のままで、ローマ時代当時の面影を偲ばせています。
 その状態を見ると、今にも倒壊しそうで、日本では立入禁止の処置が取られますが、大半の観光客はガイドに先導されて眼前まで連れて行かれます。何か訳があるのでしょう? 訳があるのです。

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2009年時(before)修復中のハドリアヌス皇帝の凱旋門

2016年時(after)同上の修復後。 石段や手すり等も整備された。


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 ヨルダンは高速道路や一般道路が整備されておりアンマンからは約1時間でジェラシュに到着します。

 ゆえに高速道路を跨ぐ為の、このようなトラス形式(部材を三角形にした構造体)の陸橋が数多く設置されています。通常は中央分離帯を跨ぐのでこの形式になります。ここは路面横断でも良いのではと思いますが、何か訳があるのでしょう?訳があるのです。

 遺跡の入口のお土産品店。ここを通り抜けるとチケット売り場があります。ペトラ遺跡の売り場からすると、こじんまりしていますので通り過ぎる可能性があります。

 チケット売り場を出たらハドリアヌス凱旋門のアクセスです。左側に戦車・競馬場があります。この石段、手すりや身障者用の斜路等も整備されました。

 上記の大写し。

 戦車・競馬場 (古代ローマの人が乗った戦車を数頭の馬で引く競技で相手の戦車をぶつけて倒すこともできます。チャールストン・ヘストン主演の「ベンハー」と言う映画で出てきます)左側が凱旋門です。

 2009年のもの。凱旋門背面は全面に修復用の足場が組まれている。

 ここが貴賓席です。今でいうロイヤル・ボックスでしょうか。

 一周、約600mあります。直線の長さ約250mで幅約60mです。この場所がほぼフラットになっていますので競馬場になったものと考えます。

 凱旋門から南門までのアクセス道路。南門からが見学コースでGATEが設置されています。

 南門。右側にチケットのモギリがいます。その奥にビジターズセンターがあります。写真を撮ってる場所の左側にレストランがあります。

 ゼウス神殿への遊歩道です。この突き当りに楕円形のフォラムと呼ばれる公共広場があり、その東南方向にゼウス神殿があります。

 楕円形のフォラム。中央の円柱は毎年開催されるジェラシュ祭りの聖火台で近年、造られたもの。
 外周の円柱はイオニア式建築様式で56本残存しています。円柱をつなぐ横石(アーキトレーブ)も残存しています。ここが当時は市場や商店になっていたそうです。

 同上、2009年のもの。床タイルもきれいです。経年劣化に加え観光客の増加が劣化に拍車をかけています。

 現存するAD1世紀に造られたゼウス神殿。

 地震の後が生々しい。フォラムの入口から見る。

 アカンサスの葉模様のコリント式建築様式。

 フォラムの東側=地形的には北側から見る。

 ゼウス神殿からフォラム及びそれに繋がる約800mの幹線道路(カルド・マキシム)を見る。幹線道路を交差する南北の2本の道路はそれぞれ南道および北道と呼ばれています。

 2009年のもの。遠景では然程 変わっていません。

 同上。奥に見えてる門は北道に立つ四面門で、この先に北門がある。手前の幹線道路の左半分だけ列柱が残っているのが南道。

 同上、四面門。

 列柱が残存する南道東側部と左奥の遥か遠くにアルタミス神殿を見る。

 上記、南道東側から西側を見る。列柱をつなぐ横石(アーキトレーブ)は倒壊しています。西側は現代は市街化して、その下に遺跡が眠っています。ゆえにジェラシュは中東のポンペイと言われています。

 ディオニュソス神殿跡で後の大聖堂。

 アルテミス神殿遠景

 アルテミス神殿

 同上、礼拝場、2009年の状態。

 同上、2016年

 同上2016年。中央の落下しそうな石が持ち上げられたようだし、アーチ上面が欠損したように見える。

 同上2009年のもの。

 アルテミス神殿の中庭、円柱も大半が倒壊している。

 アカンサスの葉模様

 ダルマ落とし状態の円柱

 同上

 幹線道路からアルテミス神殿へと続く大階段

 ここが幹線道路からアルテミス神殿への入口。途中の階段は修復中。

 同上2009年のもの。

 北道の四面門。奥が北門。

 同上 

 同上2009年のもの。

 四面門から北門を見る。

 四面門の北道東側(市街地)西浴場の跡地を見る。

 四面門の北道西側を見る。

 四面門から南側のフォラムを見る。幹線道路の列柱の被害は大きい。

 アルテミス神殿の入口と大聖堂入口の間に位置するニンファエウム。

 上記2009年のもの。
 
 南道の西側。

 南道から東側市街地を見る。

 南道全体2009年のもの。上記2枚の南道の東西の写真。

 南道から幹線道路北側を見る。東側にパイプの柵が設置された。2009年にあった黒色のゴミ箱が撤去されている。

 同上2009年のもの。

 同上

 幹線道路からフォラムとゼウス神殿を見る。

 同上

 幹線道路から市場を見る。円柱の上部は全壊。

 フォラム(公共広場)


 中東西部に於いてはこのアザミの花ととオリーブの木をよく目にします。
 それもそのはずコリント式建築様式のアカンサスは葉アザミです。
 
 嗚呼!! 🎵夏草や兵どもの夢のあと🎵?
     


ジェラシュ遺跡(No.3)

2009-12-10 00:59:32 | ヨルダン(ジェラシュ遺跡)
 お詫び:昨日掲載の方角が逆でしたので訂正いたしました。 

 ここ「アルテミス神殿」はジェラシュ遺跡の中で最も大きな遺跡です。写真はその正門のちょっと右側で、アカンサスが装飾された柱頭部が置かれていました。前回投稿の「大聖堂」の入口にもありました。個人的には自然のままが一番良いと感じますのでこの趣向(サービス)は「?」の感じがします。後日掲載しますペトラ遺跡はこういう趣向は一切ありませんでした。訪問日は金曜日の安息日ですが、その日に関係のない欧米人観光客もまばらでした。サービスが「負」に働いているのでしょうか。それとも今にも倒・崩壊しそうな円柱群に脅威を感じているのでしょうか。個人的には(建築家の見解は分かりませんが、土木技術者としては)リピートする感じは?です。でも、脅威と驚愕を感じる建造物であった事は確かです。



 正面入口です。長い大階段が2段あり神殿入口まで続いています。この大きな高い柱には驚きを感じます。2枚下の写真に反対方向からこの柱全体を撮っております。



 一段目の大階段と2段目にはこういう踊り場があります。左上の円柱は今にも倒壊しそうです。



 その踊り場から入口方向を撮りました。方角は東から西です。左側の屋根部の石は今にも崩落しそうです。



 ここから聖域の中庭に入ります。おおよそ150mx100m(1.5ha)あります。ここで祭事がおこなわれていたのでしょう。礼拝堂は更に一段上がったところにありその前の神殿の円柱は損なわれることなく立っていました。



 神殿の北側からの写真。



 神殿の南側からの写真。



 神殿の礼拝所を撮っています。



 礼拝所の前です。売り子のサービスは「ちょっと?」の感がします。



 礼拝所の飾りアーチの一部が今にも崩落しそうです。その下方の無傷のアーチとの対照が非常に印象的でした。



 前記しました中庭の北側の円柱です。ここにも神殿があったと考えます。柱頭部は崩落し、円柱部も「ダルマ落としの」状態です。



 入口横にあった案内看板。「アルテミス神殿入口」と書いてあります。ここには復元図が見当たりませんでした。先回投稿のアンマン城のヘラクレス神殿(復元図付)よりも大規模な神殿が容易に想像されます。



 「アルテミス神殿」から幹線道路を数m行った東側に浴場後があります。浴場の面影は全くありませんがアーチの門をくぐって入るのでしょうか。何でこの写真が「西浴場」跡かは次の看板があったからです。また神殿と幹線道路の東側に在るのにも拘わらず「西浴場」と呼ぶのは、現在は近代建築物がある場所に、つまり更に東側に「東浴場」があったからだと考えます。



 「WEST BATH」の案内看板がありました。後ろの木は健気に生きるオリーブです。



 幹線道路上に「西浴場」を過ぎると「北道」との交差点に前回投稿の「四面門」があります。



 四面門の天井はアーチです。現代ならRC建造物(鉄筋コンクリート)の梁で上部荷重を支えますが昔の建造物は石の為、全てアーチです。関東在住の皆様が時々見る有楽町のガードもアーチですし、近代的なダムや橋もアーチ型があります。



 四面門から「北門」の列柱通りを見ています。ここから立ち入り禁止でした。この円柱はイオニア式です。柱頭上部はコリント式のように大きくなく左右対称に渦巻き模様がありました。



 「北門」を四面門から大写しで見ております。アーチ門は一つですので裏門です。安息日にも拘わらずここにはガードマンが居ました。
 


 この四面門から西側に、この案内看板の「北劇場」があります。色あせて見づらいのですが 「North Theatre」と書いてあります。



 「北劇場」です。「南劇場」に比べるとその1/3位の規模です。



 前回の「ビジターズ・センター」の出口付近にはこのようなレストラン・バーがあります。失礼ですけど、ここも違和感(場違い)を感じ素通りしました。



 左側がビジターズ・センターでここは出口のゲートです。古の土漠地帯の(緑の植栽の少ない)人工の今にも倒・崩壊しそうな石造建築を見た後の自然植物のオリーブや草花をみてほっとしました。出口の向こうに見えるのが「凱旋門」です。


ジェラシュ遺跡(No.2)

2009-12-09 09:01:47 | ヨルダン(ジェラシュ遺跡)
 「フォーラム」の西側(左側)の丘の中腹に「南劇場」があります。観客席は先回、アンマン城の投稿で紹介しました「ローマ劇場」の半分の約3,000人収容できます。2層で32段あります。



 同上「南劇場」の最高所の通路から舞台を撮っています。建造年はA.D.81年~96年です。約16年とは長い年月を掛けて石切、細工、運搬及び組立施工と地道に造られた物と思っていましたら、寄進による建設と書かれていました。



 「フォーラム」から「南劇場」とその南側にある「ゼウス神殿」の円柱群を撮っております。建造年はA.D.162~163年と記されております。こちらは何でこんな短期間で完成されたか? 答えは、ここは以前からローマ神殿がありそこを建替えしたからです。またこの「ローマ神殿」も遡ればギリシャ時代から神殿があった場所だそうです。それにしても約2年は短か過ぎる感じがしますので建替えは極一部だったのでしょう。



 更に北側から南西側にある「凱旋門」「ゼウス神殿」、ヨルダン渓谷及びその奥はパレスチナ自治区の山々と考えます。ここからヨルダン川まで約40kmで北のシリア国境まで約50kmです。



 「南劇場」の最上段の通路の裏側の角から大写しで「フォーラム」と幹線道路「カルド・マキムス」=「列柱通り」を撮っております。



 ゼウス神殿は修復中でネットフェンスが張られ立入禁止でした。(2009年11月時点) が、絶好のカメラアングル獲得の為、安全とガードマンをチェックし、ゼウス神殿の前の破損しているフェンスから5mほど侵入して「フォーラム」及びその先の遺跡群を撮りました。見つかれば当然お仕置きをでしょう。 故に貴重な写真です。??



 更に5m侵入しました。



 更に3m侵入しました。観光の本はいずれも、ここからの写真ですので、以前は開放されていたのだと思います。もしくわ侵入したかもしれません。金曜日の安息日に行けばガードマンはいません。配慮なのでしょうか。否、100%自己責任なのです。言い訳は一切通りません。当然の理ですよね。



 「フォーラム」から北門までの約800mの区間は石畳の「列柱通り」と称し、通りの両側に円柱が建っております。



 同上の大写し。



 South Colonnaded Str.と案内板に書かれています。「南列柱通り」です。この先に「北列柱通り」があり、この幹線道路を上記「カルド・マキムス」と呼び、A.D.2世紀頃の敷設です。「南列柱通り」の円柱は最初はイオニア式だったのをコリント式に建替えられたと言われています。「フォーラム」と「北列柱通り」はイオニア式のままです。円柱の殆どには飾られた柱頭が載っており、横石が載ったのも何本かに見られます。コリント式とイオニア式の明確な特徴は前者は柱頭や柱径が大きく感じられますし、柱頭にはアカンサス(ハアザミ=古代ギリシアでは不死の葉とされてきた)の模様が施されています。後者のそれは左右対称の渦巻き模様です。



 上記幹線道路は「フォーラム」→「南道」→「北道」→「北門」と続きます。幹線道路と南道及び北道の交差点には四面が開放された門があり「四面門」と言われています。「南道」の四面門は4つの角柱の基礎(台座)のみ残っており、この写真は「北道」の四面門です。



 「南道」から「北道」間の幹線道路です。



 「南道」を西から東へと見ています=幹線道路と交差する通り。この交差点には上記のように四面門はありません。



 「南道」と「北道」の間にある「大聖堂」です。正面入口と少しの聖堂跡が残っております。反射して見づらいのですが、崩壊しているので、復元図の立て看板がありました。



 大聖堂の入口隣にある「ニンフェウム」はA.D.2世紀に造られ、半神半人の妖精ニンフに捧げられた泉です。凹状の壁は以前は半円蓋の天井で覆われていました。



 同上。少し遠景。



 「ニンフェウム」前の幹線道路の円柱の列柱群。西側=右側の円柱は大地震で崩壊しています。今でも崩壊しそうな柱もあります。


 同上。大写し。観光客がいる向こう側後ろの「ダルマ落とし」風の建造物は不安定建造物で撤去されないのでしょうか? と言うよりも役所の認可が下りないのでしょう。遠くに見えるのが「北道」の四面門です。


ジェラシュ遺跡(No.1)

2009-12-08 16:28:50 | ヨルダン(ジェラシュ遺跡)
 アンマン市から北方に車で約1時間弱にあるジェラシュ遺跡はペトラ遺跡に次ぐヨルダンの見所(観光地)です。
 規模はPETRAの、数拾分の一の限られた広さ(2kmx1km)ですが、古代ローマ人がアラブに造ったローマ都市の中でも最も華麗、崇高で壮大な建造物です。A.D.60年代からローマ帝国の繁栄に伴いジェラシュは植民地化し、その後A.D.106年にトラヤヌス皇帝がヨルダン一帯を制圧しローマの属州の一つになりました。農・工業が栄え域内、域外交易を繁栄させジェラシュ及びヨルダンは以後200年間黄金時代を迎えました。A.D.392年にテオドシオス皇帝がキリスト教をローマ帝国の国教と定め、ジェラシュの神殿群も教会として転用されました。その後のビザンチン帝国の下、約300年間、繁栄をし続けてきましたが、7世紀初頭のA.D.614年にペルシャ軍が襲来し、636年にはイスラム軍に完全に制圧されました。その後8世紀に大地震が起こり、建物の多くは崩壊し、現在の遺跡になっております。現在も所々で修復作業が続けられております。
 先ずはジェラシュ遺跡の入口である「凱旋門」の写真です。古の城壁はここから約500m行った所の「南門」が地勢的に正面口にあたります。「凱旋門」はA.D.129年にハドリアヌス皇帝の巡行を記念して建てられたものです。3つのアーチを持ちその4本の円柱の下部には装飾彫りがされています。ここも足場を組んで壁や天井の修復作業がなされていました。



 天井と梁(はり)部のアーチ。アーチを受ける角柱の上部にも綺麗な装飾がなされております。



 上記アーチ部の長方形の石材の大写し。



 「凱旋門」の東側に映画「ベンハー」(ちょっと古すぎ・・)でお馴染みの戦車競馬の競技場があります。



 上記の「見張り台」と中央の柵。



 上記の大写し。望遠で撮っていますので長さが見えませんが、およそ片側で100m位ありますので200m/周です。



 南側からジェラシュ遺跡群の方向を見ています。多分にこの赤い丸太に周回のカウンター(何周したかを戦士が確認する何かが刺してあった)が立てられたと考えます。



 「凱旋門」側の周回標の前が貴賓席になっております。



 「貴賓席」横のアーチ門。上部に掲げられた旗は色とりどりですので、何かの意味があると思います。蛇足ですが日本の競馬の場合は頭に被った帽子の色で、また欧米の場合は胴体に巻いたゼッケンの色で何番の馬かが分かり投票をします。ローマ時代もこういう賭け事をしていたのでしょうか?また騎手が着ている服で馬のオーナーが分かります。ちなみにエリザベス女王の所有馬の騎手は黒い帽子、真紅のそでで胴は深い紫色で金色の飾りヒモのいでたちです。



 遺跡を見学して=約半日 帰る時間に「凱旋門」横の戦車競技場で何かをやっておりました。



 2回/日に古の「兵士」と「一人乗り二輪戦車」のパフォーマンスを入場料を更に徴収し、行っています。遺跡の入場料だけでもこの国の物価を考えれば高価なのに・・・何で・・。 やはり修復費用等の維持管理費に相当な費用が必要なのでしょう。



 戦車競技場を過ぎると表参道は石畳になります。ここまでの道は戦車の馬に配慮して砂の道路にしたと考えております。



 オリーブや杉の木等が路傍に植栽されて居ります。



 上記大写し。「南門」の向こうの丘にジェラシュの遺跡群が見えます。



 「南門」の手前で右に曲がり「ビジターズ・センター」があり、そこでパンフレットを勝手に選んだり遺跡の模型を見て、入場券の半券を徴収されます。南門から真っ直ぐの道は出口専用です。



 遺跡の正面入口の「南門」です。A.D.1世紀に他の3つの城門と一緒に築かれました。凱旋門が建てられた時に、その影響を受けてアーチの横の円柱下部にアカンサス(ハアザミ)の葉模様の飾りをつけています。



 やっと案内標識に出会いました。



 「南門」をくぐると楕円形の「フォーラム」もしくわ「フォロ」と呼ばれる公共広場に出ます。イオニア式の列柱に囲まれたこの広場です。列柱上部は横石が載せてあり(多分に後で載せたと考えますが・・)綺麗な姿勢をしております。広場は石灰岩のタイルで舗装されており、中心に向かって徐々に形の小さい石が使われています。