土木技術者が撮った中南米の「光りと影」の写真 及び 他国風情

 約22年間の中南米赴任中に土木技術者の視点から撮った写真。開通前のパナマ運河に架かる第二アメリカ橋は圧巻 & 他国事情

ティ・ブレイク(ペトラ遺跡プロローグ)

2009-12-02 16:20:03 | ヨルダン(ペトラ遺跡)
 ペトラは約2,000年以上も前から、アラビア半島からやってきた遊牧民のナバタイ人やベドウインによって形成された(建設はされていた)、インドから地中海諸国へ抜ける交易品の中継都市であったと書物には記されています。その歴史はB.C.7,000年の新石器時代に遡り、モーゼ率いるヘブライ人一行が、この土地を通過するのを拒んだと旧約聖書に記されているエドム人がB.C.1,000年代にこの高地を整備し要塞を建設したものではないかと言われております。彼らのB.C.7世紀の多くの住居跡や、雨水を貯める井戸から発見されたと記述されています。これとペトラ遺跡との関連は具体的には記されていませんので解明中だと思います。前記ナバタイ人の出現はB.C.4世紀頃ではないかと言うことですが、「この民族の起源は今でも謎に包まれています」と専門家による歴史検証は有りますが、今日では冒頭記述の「ナバタイ人が形成した都市である」が一般的に普及しているようです。「謎に包まれた都市」と言う言葉は非常に興味をそそがれます。メキシコのアステカ遺跡やグアテマラのマヤ遺跡 及び 世界遺産で一度は訪れたい場所No.1の「謎の空中都市マチュピチュ遺跡」も然りです。多分に歴史検証は進んでいるのでしょうが、敢えて「その歴史は謎で未だに解明中である」と言う表現は、曖昧ではなく、奥深い歴史をおもんばかる意味深長な言い方に、聞こえますし、読者に夢や想像を与える感じがします。
 さてペトラ遺跡の入口から映画「インディジョーンズ最後の聖戦」の舞台になった「宝物殿」までの約1.5km~2.0kmはこの様に切り立った今にも落ちてきそうな岩石山のシークと呼ばれる細かい通路を通らなければなりません。シークの後半の約1kmは写真のような場所です。この写真の場所は比較的安全?ですが、後日掲載いたしますが今にも落ちそうな岩の箇所が殆んどです。



 この正面の岩石山の割れ目がシークの出口であり「宝物殿」の前の大広場です。シークは入口から「宝物殿」へと勾配がかなり下っており、帰りは馬車や馬で戻る人も数多く見かけられます。ラクダはこの「宝物殿」から更に先の遺跡巡りに利用されます。



 写真がペトラ遺跡のお目当てであるエル・ハズネと言う「宝物殿」です。この建物の一番上に乗っている壺の中に宝物が隠されていたことから由来しています。エル・ハズネはヘレニズム建築の影響を受けていることが明らかにされています。朝の光を浴びてバラ色の岩肌に輝くファサード(建物正面)は高さ約40m、幅約30mあり暗褐色の周りの岸壁との絶妙なコントラストを呈しております。精巧な造りのコリント式円柱の2層構造になっているのも特徴的です。下層の6本の円柱の内、発見当時は1本が途中で折れており1960年に修復されました。どの柱がどのように折れていたかは後日お伝えいたしますので、推測されてください。また、この建物が実際に何の目的で建てられたかは(墳墓、神殿や霊廟)及び製作年代がアレタス3世(B.C.84~56年)かハドリアヌス皇帝(A.D.117~138年)時代に建てられたかも専門家の間では意見が分かれており、その真意は分かりませんが、現時点では解明されておりません と書物には記されていますので、今でも謎の建造物です。こういう表現は神秘的で夢を膨らませてくれます。シークは自然の造形物ですので、その脅威には圧倒されます。一方エル・ハズネ(宝物殿)は人工ですが、マチュピチュ同様素晴らしい建造物でこちらも魅了させられます。

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