土木技術者が撮った中南米の「光りと影」の写真 及び 他国風情

 約22年間の中南米赴任中に土木技術者の視点から撮った写真。開通前のパナマ運河に架かる第二アメリカ橋は圧巻 & 他国事情

ペトラ遺跡 (2)

2016-08-04 22:37:09 | ヨルダン(ペトラ遺跡)
 ペトラ遺跡が、
 このような荒涼とした岩石だらけの山岳地帯にあるとは誰が想像するでしょうか。
 ①右側のビジターセンターからシーク始点までは未舗装道路で約1.0km
 ②シーク始点から左側のエル・ハズネ(宝物殿)までのシーク区間は簡易舗装(砂利等)で約1.2km

 手前がペトラ遺跡の入口=ビジターセンターで後方がシークのある岩石の山岳地帯。

 その岩石の山岳地帯に一歩、入り込むとそこは神秘と恐怖の世界です。
 誰がどうやって何の目的で造ったのかでしょうか。

 この今にも崩落しそうな恐怖にかられた岩の割れ目(シーク)を抜けると
 この世のものではない光景が突然に出現します。

 岩石(砂岩)に彫られた壮大な建造物にただただ圧倒させられます。

 同上。
 太陽光線の角度により約50種に壁面の色が変わるそうです。

 
 ここは
 自然を利用して造られた都市であり、
 それは人跡から隔離された驚嘆するような場所の中にあり、
 それは人智では考えられない荘厳で壮大な遺跡である。
 初めて出会った時の素晴らしい感動は「マチュピチュ遺跡」を思い出します。

 余計ですが・・・・・


 ペトラは紀元前6世紀頃に遊牧民族ナバタイ人が造った都です。
 切り立った断崖に挟まれた細い狭い道(シーク)は、
 地殻変動でできた山の裂け目で、ムーセ河(ワディ・ムーサ)の河床に沿っており、
 全長は約2kmで宝物殿(エル・ハズネ=エル・カズネ)までは約1,2kmあります。

 2009年に訪れた時にはなかったセキュリティ・ゲート、ビジター・センター、新ゲートや
 そのエントランス部が今回、新設されました。
 それもそのはず、2009年の時の入場料は1日券が21JD(=30 US$)でしたが、
 今回2016年には50JD(=70 US$)になっていました。
 観光客の増加に伴い遺跡のメンテ費用が高騰したそうです。

 中央右側がペトラ遺跡のエントランス部。
 中央左側に5つ星ホテルが建った。

 エントランス部の大写し。
 セキュリティ・ゲート、ビジター・センターとお土産品店。

 セキュリティ・ゲート

 同上から、来た道を見ている。

 ビジター・センター。ここで入場料を購入する。
 日本語のパンフレットもありました。(10ケ国位あります)
 多くの日本人や海外の旅行者も訪れているのでしょう。

 ここでチケットをチェック。
 ここまでが今回2016年に新設されていました。


 ここからは2009年とほぼ変わっていません。
 と言う事はメンテがしっかり行われていると言う事だと考えます。
 左側が馬車道で右側が歩行者道路。

 同上

 同上。右側の方形が下記ジン・ブロック。

 ジン・ブロック=お墓です。
 
 4つのオベリスクがある、これもお墓です。

 宝物殿まで1,2kmt続くシークの始点部。
 ここからは岩壁高も奥に進むにつれて高くなります。(60m~100m)

 シークに入りました。


 道路勾配は宝物殿へと下っています。
 ので、戻り(上り)は馬車を使う人が見受けられます。
 なんでも1,2km片道で30 US$と聞いて私は健康の為に歩く事にしました。
 馬子は現地人(ナバタイ人の末裔?)です。
 言うのが憚れますが、人を見ての「掛け合い」=「押売り」相場です。

 細くて狭いシークです。

 こちらは少し幅があります。
 この位あれば恐怖感も少しは和らぎます・・?? 

 日本人観光客だと思います。

 シーク。
 いつ崩落しても不思議ではありません。

 同上

 同上

 同上

 同上

 同上

 同上

 同上

 同上

 次第に壁高が高くなり壁幅が狭隘になってきます。

 壁の隙間から何かが見えています。

 同上

 同上


 シークを抜けると突然に異次元の空間が現れました。
 今まで来た狭いシークが消えて、眼前に美しいピンク色の大きな建造物が現れました。
 ・・・ビックリし、その後、感動に変わります。
 エル・ハズネ=宝物殿です。

 同上
 2016年7月現在エル・ハズネの中や地下へは立入禁止でした。

 同上。目を奪われる光景です。

 同上。宝物は上層部の壺の中と言われています。
 「木製の杯」ではないと考えます。この項は映画「インディ・ジョーンズ」を見た人しか分かりません。

 エル・ハズネから来た道(岩石山の中央部)のシークを見ています。
 狭いです。地震がくれば怖いです。

 上記の左側。

 上記の右側は休憩所、お土産品と飲料売り場です。
 イスラム国ですからお酒はありません。

 休憩所からエル・ハズネ前の広場を見ています。
 左側がエル・ハズネで右側がシークの終点(出口)です。

 同上。
 ラクダは人みたいに跪いて座ります。

 奥へと進みます。
 ペトラ遺跡見物は約3日掛かる広さがあります。
 ここはファサードの道と言い、ほとんどが岩窟墓です。

 同上。
 ツーリストポリスは馬車の方が似合っていると思いますが・・・。

 同上
 分岐点にはお土産品店があります。

 同上。
 2日目はこの階段を登っていきます。

 同上。


 ここが1日目終点で2日目と3日目の分岐点の広場です。


 入場券は1日券=50JD,2日券=55JD,3日券=60JDですが、
 体力と時間に余裕がないと、またここの暑さ対策をして行かないと途中棄権します。
 だからペトラ見るだけで中日をいれて5日は必要と考えます。
 私は時間に体力が追い付かず初日でGive upしました。

 ー以上ー
 
 

ペトラ遺跡(No.5)

2010-01-04 15:15:24 | ヨルダン(ペトラ遺跡)
 エル・ハズネは断崖を削り彫られて造られた神殿風のファサードを持つ霊廟と言われております。(真相は今でも解明中ですが霊墓説が有力です)前方のコリント式の円柱は良ーく見ると4本+2本で構成されています。前方4本の円柱はその上部の装飾されたアーキトレーブ(梁)とその上にペディメント(屋根の三角形の部分)を支えております。先回掲載しましたが、発見当時にはこの内の一本が折れていました。どれだかお解りになられたでしょうか。



 上記を「縦」に撮りました。先回記したように、この調和の取れた美しいファサードは高さ約40mX幅30mありコリント式の豪華な装飾に飾られております。



 上記2枚の写真とほぼ同じ場所から撮っております。が時間の差があり、太陽の位置により、壁や柱の色が変化します。



 「宝物殿」の右側の部分です。



 更に右側の部分です。右端に岩をくり貫いたところがあります。その前がシークになっております。



 ペトラ遺跡を観光するには3日間必要です。この地点より約250mのシークがあり、ここが2日目の出発点となります。シークの幅は次第に広くなっておりその先にはないとの事です。(筆者は行かなかったので事実は不明です)



 ファサード上層の中央にはトロス(周柱円形堂)と呼ばれる円形の建物が置かれ、その両脇にある半分のペディメントが乗った2柱式のパビリオンがあります。



 トロスの中央の彫刻は幸運の女神の「イシス女神」であり豊饒の角と杯を左右の手に持っております。これも諸説あり、BC2世紀のアレキサンドリアの壺に描かれたトトメス3世の妻ベレニス妃と言う説もあります。



 左側のパビリオンの彫刻です。これも諸説ありますが胸をさらけ出した勇壮な女性狩猟民族の「アマゾーン族」と言われています。



 右側のパビリオンの彫刻。同上。



 トロイの上部に乗っている「エル・ハズネ」=「宝物殿」の由来である壺とその台座。



 壺の大写し。長い間この中に宝物が隠されていたと言われてきました。インディ・ジョーンズの映画の「木の杯」同様この「あばた」だらけの壺の中に宝物があったのでしょうか?



 エル・ハズネのファサードから階段を上がった所の大広間にいます。三方に開口部があり、生憎、立入禁止のロープが張られ中には入れませんでしたが、奥行き、幅とも約10mの小さな部屋でした。この写真は大広間を入って正面の壁です。「インディージョーンズ最後の聖戦」の入口から中を期待していたのですが残念でした。現在(2009年11月)正面入口の地下の発掘作業がなされ立入禁止ロープが張られています。あと数10年以上は続くと思います。



 大広間の右側の壁。



 大広間の左側の壁。



 復元前の エル・ハズネです。円柱は1本折れています。


(This photo is quoted from Casa Editrice Bonechi)

ペトラ遺跡(No.4)

2009-12-31 01:58:22 | ヨルダン(ペトラ遺跡)
 シークの出口=「宝物殿」前の広場からシークを逆戻りします。眼前の岩の裂け目がシークの出口です。通常はここまで(宝物殿も含む)の道程で1日です。ここまでは下り勾配ですが石畳の道等あり歩き辛く、また眼前に繰り返し迫ってくる岩石の脅威に体が固まり動きが止まります。而してこの広場に着くと「やっと出たー」と言う表現が適当と感じますし、この後ろに拡がる宝物殿の荘厳なるファサード(正面)を見れば「来て良かったー」と感激します。
 広場の左岸側(下流に向かい左側)には売店がありそこには木のベンチが設けられ太陽の光で壁面の色が刻々と変わる「宝物殿」をミネラルウオーターを飲みながら見ます。




 上記写真を「縦」に撮っております。ラクダはここから2日目以降を1日で見る人や「宝物殿」の前で写真に収まる人達用です。観光客の90%以上が金曜日の日が安息日ではない欧米人です。
 本日は閉店(この先は行きたくないの意)にし、ここで「休息したい」及び「もっと居たい」と言う感じになります。この広場では大半の人は凡そ2時間を過ごします。



 この場面の心境はご察知がつくと思います。峻険な岩石山の奥に「宝物殿}=「エル・ハズネ」が垣間見れた瞬間です。本当に「宝物」を見つけたその瞬間の感動です。



 上記写真の同様ですが、この時点では「宝物殿」は見られず、光が射しこんでいる場所に「何か」があると感じている瞬間です。



 上記同様ですが、「何か」があると言う 期待感は未だ湧きません。



 道幅は段々狭隘に、岩石山も峻険になってきました。  



 上記同様。 
 岩質は「砂岩」が殆んどで、他に礫、石灰及び泥岩の堆積層です。堆積したものが地殻変動で隆起して出来たものです。その後の大地震でこういう割裂、亀裂が入り、また雨水の浸食作用により形成されたと考えられております。
 蛇足ですが、土木でコンクリートやモルタルに使用する砂は通常「川砂」か「砕砂」でJISの仕様に則った5mmフルイを重量百分率で85%以上を通る骨材で「細骨材」と呼ばれます。逆に「粗骨材」は85%留まるものです。そのたセメント、水及び混和剤(料理の調味料と同様に多種多様あり、これにより強度や品質が向上する)を入れコンクリートになります。



 上記同様。職業柄、こういう場所は立入禁止にしますので、早く通り抜けたい気持ちです。
 が、絶景に固唾を呑んで足が止まっております。



 この場所で道路の断面が一旦広がり、この先が前記の狭隘な岩石山の道路になっていきます。左岸側には所々に水路の跡が見えますし洪水を調整したゲートもあります。大昔だから角(丸太)落としだと考えます。



 何やら遠くに光りが射している所が見れます。「何か」が在るのでしょうか?
 前記のシークの道路幅が広いため陽が差し込んでいます。



 前を行く集団の観光客の人達は、当然上方の今にも滑落しそうな岩を見ましたよねー。


 

ペトラ遺跡(No.3)

2009-12-23 17:12:33 | ヨルダン(ペトラ遺跡)
 マイルストーン(距離程)がないため正確な位置は不明ですが、前記した様に ①変曲点 ②特徴のある物 を撮っております。今回掲載分でシーク延長の約2/3地点と考えます。この場所も修復されて通行可にしたと考えられます。前回同様に自然の造形物に言葉が出ない状況にあります。



 壁面に埋め込まれた「碑文」や祈願用の「霊石」等も多く見受けられます。



 前記と同場所を「縦」に撮影しました。



 次の変曲点。帰りは上り勾配なので馬や馬車を利用する観光客もいます。所々、石畳なので馬や馬車や乗客もしんどい思います。



 前記と同場所を「縦」に撮影しました。



 次の変曲点。



 次の変曲点。



 前記と同場所を「縦」に撮影しました。



 次の変曲点。ここも安全上、修復されていると考えます。



 古のシークは全て石畳だったのでしょうか。シークの数箇所に石畳が見受けられます。書物にはB.C.4世紀頃からナバタイ人が形成した町で、A.D.2世紀にジェラシュ遺跡同様ローマ皇帝のトラヤヌスがヨルダン一帯を支配下に治めローマ帝国の属州になったと記してありますが、先回、記述したようにペトラ遺跡の歴史検証は現在も解明中です。



 前記、同様に石畳です。



 前記と同場所を「縦」に撮影しました。



 次の変曲点。



 前記と同場所を「縦」に撮影しました。



 底面部は洪水により浸食されてこの様に今にも落ちそうな岩もあります。数箇所岩石が剥離しておりますが、修復の順番を待っている状況だと考えます。



ペトラ遺跡(No.2)

2009-12-22 18:37:23 | ヨルダン(ペトラ遺跡)
 再度シーク(もしくわシク)について説明します。シークは切り立った断崖に挟まれた細く狭い道で、太陽の光によりバラ色、黄色、青灰色の入り混じった色彩が写しだされます。本来は地殻変動によって出来た岩石山の裂け目で、全長は約1.5kmあると言われています。元々はムーサ河の河床で、ナバタイ人の造った町の入口だったのです。ナバタイ人は灌漑施設用の水路や洪水調整用の堰もここに造りその痕跡を見ることができます。シークは自然の造形物であり、ただただただ、驚くばかりです。



 撮影した写真はシークの変曲地点や特徴のある造形物を撮っています。大体20m/ヶ所で約150枚撮影しました。その内の重複箇所を除き投稿いたします。



 上記箇所の上方を撮りました。岩石山は高い所で約100mあり、全て急峻で切り立った絶壁がそびえております。



 同上。上記、断崖絶壁をみております。



 シークの幅が狭隘な箇所です。遠くに足場を組んで崩落防止の修復を行っていました。



 現代の建築で使用するビティと言われる鋼製の足場が組まれておりました。せり出した岩が崩落する危険があるのでしょう。



 ベンチに座っているのが監視員です。頭上の岩は見事に落下しています。こういう風に表面がきれいに落ちることは考え難い形状ですので、修復した物と考えます。水路は約2,000年前にナバタイ人が造ったものを修復したものです。



 左側の階段状のものは水路壁兼用で、馬や馬車の乗降所と言われています。多分に戻りは上り勾配なので使用したものと考えます。


 
 上記写真の突き当たりの変曲点から撮っています。峡谷は浸食され蛇行しております。



 次の変曲点から撮っています。以前は石畳もあったようです。所々にその跡が残っています。水路は続いております。オリーブが安らぎを与えております。以前は沢山あったのでしょう。



 上記の大写しです。前回掲載したオベリスクやジン・ブロックス同様に、ここは身分の高い人の墓だったと推測いたします。



 上記の先を撮影しています。縁石は倒石防護用に造ったものと思われます。
 


 上記の先を撮影しています。この地点から両側の岩石山は急峻になり道幅も徐々に狭隘になります。



 所々にこういう側面に峡谷があり落石崩落して居ります。



 同上。奥行はあり裾は広く、谷に挟まった大きな石で更なる落石を防いでおります。ここも徐々に修復されるのでしょう。



ペトラ遺跡(No.1)

2009-12-21 23:54:22 | ヨルダン(ペトラ遺跡)
 ペトラ遺跡は首都アンマン市から南側(紅海側)へ約250kmに位置します。どこまでも続く土漠の中に出現した「砂漠の高速道路」=デザート・ハイウエイ=無料 を制限時速110km/h.(なぜか100km/h.ではありません)+αの速度にて、途中一回給油し約3時間で到着します。



 「デザート・ハイウエイ」を西側(イスラエル側)に右折し更に南下しペトラ遺跡に隣接した町 「Wadi Musa」=ワディ・ムーサに到着します。ペトラ遺跡は広大で通常、遺跡群を見るだけで3日間必要ですので、この町にホテル、レストランや土産物店が多数存在しています。



 上記峠を過ぎるとペトラ遺跡群の岩石山(主に砂岩)が眼前に広がります。植生している木々は大半がオリーブです。ここにもモーゼが杖で岩を突き刺し泉が湧き出た「アイン・ムーサ」=モーゼの泉 があります。



 北のシリア国から続くヨルダン川→死海→アラバ川→紅海のイスラエル国やパレスチナ自治区との国境のヨルダン川流域は大渓谷地帯で水が豊かで、今でも農業が主流です。南部ペトラ地帯は山岳地帯で深い断層で刻まれた岩石山に覆われています。



 正門手前に隠れたように「ビジターズ・センター」とチケット売り場があります。1日、2日と3日券が売られています。但し15歳以下は無料で、ヨルダン人は2JD(約30円)です。1日券の21JD(約3,200円)は、この国の物価から比べたら異常に高価な金額です。が、先回投稿のジェラシュ遺跡同様に修復作業や維持管理費に相当な費用が掛かるのだと考えます。それにしても1日券は2,3日券の割増高に比べると高すぎではないでしょうか?? 確かに3日掛けて見たい遺跡ではありますし、3日滞在したい人達の優遇料は理解が出来ますが宿泊代や食事代で大変な費用になってしまいます。ここで3日間費やすには暇と費用が必要です。



 チケット売場のあるロータリの一角から正門ゲート(右側の人垣の所)を見ております。



 先回掲載しました「エル・ハズネ」=「宝物殿」までは約1.5km~2kmあります。シークと呼ばれる切り立った岩石山で囲まれた狭小な道は未だ見えません。右前方に岩壁を掘って造られたその名も「ジン・ブロックス」と言う塔形の墓廟が見られます。中央分離帯の左半分は馬や馬車の道です。



 「ジン・ブロックス」の前方には上部に4本のオベリスクがまた下方には円柱で造られた墓がありそれぞれ「オベリスクの墓」及び「トリクリニウムの墓」と呼ばれております。



 上記に続く道路です。前方に見える岩石山が「シーク」の入口です。植生している木々はオリーブです。



 上記オリーブの木々を通り過ぎた所を撮っています。ここから「シーク」の入り口です。



 「シーク」の入口の見張り小屋です。ここから先、約1km~1.5kmは「シーク」だけですので、日よけの白色のスカーフ(モスレム=イスラム教の女性が被る)やミネラルウオーター等の売店があります。



 さあー今から「シーク」に入っていきます。この場所を「バブ・アス・シーク」と言い「シークの門」の意味です。現在は枯れた峡谷ですが古の時は雨水がここを轟々と流れていたそうです。ナバタイ人がこの東側に長さ88m、高さ6mの堰(ダム)を造り転流したとの事です。
 ここからは自然の岩石山ですので驚異です。馬車や馬に乗った観光客は多分にここまで来るのに疲れたもしくわ足に豆ができた人達だとだと考えます。本人達も非常に残念な思いだと推察します。



 大半の観光客はこのように岩山の絶景に驚きながら歩きます。殆どが欧米人で頭に白いスカーフを巻いた人はここの暑さに耐え切れない人か、もしくわ準備周到な人達です。観光の本にはペトラは暑いのでスカーフや帽子が必要と記されております。11月にも拘わらず半袖の人達もいます。



ティ・ブレイク(ペトラ遺跡プロローグ)

2009-12-02 16:20:03 | ヨルダン(ペトラ遺跡)
 ペトラは約2,000年以上も前から、アラビア半島からやってきた遊牧民のナバタイ人やベドウインによって形成された(建設はされていた)、インドから地中海諸国へ抜ける交易品の中継都市であったと書物には記されています。その歴史はB.C.7,000年の新石器時代に遡り、モーゼ率いるヘブライ人一行が、この土地を通過するのを拒んだと旧約聖書に記されているエドム人がB.C.1,000年代にこの高地を整備し要塞を建設したものではないかと言われております。彼らのB.C.7世紀の多くの住居跡や、雨水を貯める井戸から発見されたと記述されています。これとペトラ遺跡との関連は具体的には記されていませんので解明中だと思います。前記ナバタイ人の出現はB.C.4世紀頃ではないかと言うことですが、「この民族の起源は今でも謎に包まれています」と専門家による歴史検証は有りますが、今日では冒頭記述の「ナバタイ人が形成した都市である」が一般的に普及しているようです。「謎に包まれた都市」と言う言葉は非常に興味をそそがれます。メキシコのアステカ遺跡やグアテマラのマヤ遺跡 及び 世界遺産で一度は訪れたい場所No.1の「謎の空中都市マチュピチュ遺跡」も然りです。多分に歴史検証は進んでいるのでしょうが、敢えて「その歴史は謎で未だに解明中である」と言う表現は、曖昧ではなく、奥深い歴史をおもんばかる意味深長な言い方に、聞こえますし、読者に夢や想像を与える感じがします。
 さてペトラ遺跡の入口から映画「インディジョーンズ最後の聖戦」の舞台になった「宝物殿」までの約1.5km~2.0kmはこの様に切り立った今にも落ちてきそうな岩石山のシークと呼ばれる細かい通路を通らなければなりません。シークの後半の約1kmは写真のような場所です。この写真の場所は比較的安全?ですが、後日掲載いたしますが今にも落ちそうな岩の箇所が殆んどです。



 この正面の岩石山の割れ目がシークの出口であり「宝物殿」の前の大広場です。シークは入口から「宝物殿」へと勾配がかなり下っており、帰りは馬車や馬で戻る人も数多く見かけられます。ラクダはこの「宝物殿」から更に先の遺跡巡りに利用されます。



 写真がペトラ遺跡のお目当てであるエル・ハズネと言う「宝物殿」です。この建物の一番上に乗っている壺の中に宝物が隠されていたことから由来しています。エル・ハズネはヘレニズム建築の影響を受けていることが明らかにされています。朝の光を浴びてバラ色の岩肌に輝くファサード(建物正面)は高さ約40m、幅約30mあり暗褐色の周りの岸壁との絶妙なコントラストを呈しております。精巧な造りのコリント式円柱の2層構造になっているのも特徴的です。下層の6本の円柱の内、発見当時は1本が途中で折れており1960年に修復されました。どの柱がどのように折れていたかは後日お伝えいたしますので、推測されてください。また、この建物が実際に何の目的で建てられたかは(墳墓、神殿や霊廟)及び製作年代がアレタス3世(B.C.84~56年)かハドリアヌス皇帝(A.D.117~138年)時代に建てられたかも専門家の間では意見が分かれており、その真意は分かりませんが、現時点では解明されておりません と書物には記されていますので、今でも謎の建造物です。こういう表現は神秘的で夢を膨らませてくれます。シークは自然の造形物ですので、その脅威には圧倒されます。一方エル・ハズネ(宝物殿)は人工ですが、マチュピチュ同様素晴らしい建造物でこちらも魅了させられます。