土木技術者が撮った中南米の「光りと影」の写真 及び 他国風情

 約22年間の中南米赴任中に土木技術者の視点から撮った写真。開通前のパナマ運河に架かる第二アメリカ橋は圧巻 & 他国事情

中米と南米の架け橋 第二アメリカ橋=センテナリオ橋

2009-03-09 00:36:53 | パナマ
 中米と南米を結ぶパナマ運河に架かる第二アメリカ橋でその名は「センテナリオ橋」と言います。2本の主塔から斜めにケーブルで橋桁を保持して(引っ張って)おります。2004年の4月初旬で開通の約4.5ヶ月前の写真です。この時点では橋の建設は終わっており両端部の道路の仕上げ工事を行っていました。日本人青山士が参加したパナマ運河に架かる新しい橋の上から運河を眺めるととてつもない難工事に立ち向かわれて行った先輩諸氏、曰く「土木技術者の心意気」に改めて感服すると共にここに居ると感動を覚えます。土木技術者は通常土木家とは呼ばず土木屋と呼びます。が建築技術者は建築家と呼び建築屋とは呼びませんしまた政治家も通常は政治屋とは呼びません。昨今、とある政党の代表等の献金問題が取り出されています。この運河の写真を見る度に、年々、純真無垢な「土木技術者」が少なくなって行ってるような気がしています。
 この写真は太平洋側車線から北方向を撮影しています。


 同上、大西洋側車線から北方向を撮影。


 主塔から張られたケーブルのアンカー部分(橋桁を保持している部分)


 橋の南側でかつ太平洋側からの全景写真です。背景の空と同色で見難いのですが、本当に美しい「斜張橋」です。


 橋の南側からパナマ運河越に橋桁と主塔を撮っています。橋桁(床版)は複数のブロックにて主塔から出された斜めのケーブルにより一個づつ保持されています。

 
 同上南側の主塔及び橋桁(床版)を撮っております。


 同上、運河の船舶上からの写真。この時点では橋は通常に利用されています。

(Panoramioから写真引用)

 ライトアップされた夜景写真。

(Panoramioから写真引用)

 橋上から下述この運河で難工事区間のクリブラ(ゲイラード)カット方向(=大西洋側)を撮影。


 同上。ペドロミゲル閘門方向(=太平洋側)を撮影。


 同上。運河北側は未だ工事中で作業の為の機械、車両や船が稼動しています。


 近隣国から飛行機でパナマに入った時に遭遇した女性パイロットです。時々こういう風に操縦席の仕切りを開放したままでいます。通称AIR TAXIなので安全に関しては無感覚なのでしょうか?否、乗客が少数でかつ悪人顔に見えない善良な乗客と判断をしたのと思いますが。??

 
 既存(2004年4月時点)の唯一の中米と南米をつなぐ「アメリカ橋」です。この橋は美しい「アーチ型」です。

(Panaramioから写真引用)

 アーチの部分にブレース(筋交い)が入っています。こういうのは昨今はお目に掛りません。「ブレースドリブアーチ橋」でこのアーチの部分から橋桁を吊っています。

(Panaramioから写真引用)

 アメリカ橋の夜景写真。

(Panoramioから写真引用)

 再度この写真を使用します。ミラフローレス閘門の展望台からミラフローレス湖→ペドロミゲル閘門の向こうに「センテナリオ橋」が見えます。上記写真で引用の無い物はこの時に撮影しましたので未開通の時です。



パナマ運河(閘門の仕組み)

2009-03-04 23:57:43 | パナマ
 閘門はほぼ「開き」第一ドックと第二ドックの水面の高さは等しく成りました。


 第二ドックの前方に第二番目のペドロミゲル閘門方向を見ております。水位は上記同様両方のドックが等しい状態です。


 閘門が壁面にぴったり収まれば船舶は第一ドックから第二ドックへ移動します。右側の灰色の格子柄の部分が壁に収まった閘門です。


 船舶は第二ドックへと入っております。

 
 同上進行中。


 第二ドックの前方の閘門に接近しここで水位の上昇を待ちます。


 同上。注水による水位上昇直前の待機の状態です。閘門は「閉め」の状態です。閘門通過後にある写真前方部=ミラフローレス人工湖(最下段の写真で複数の船舶が待機している場所)との水位差はかなりあります。


 後方の閘門が「閉め」られようとしています。この後、注水し水位を上昇させ上記ミラフローレス湖のレベルにします。

 
 ミラフローレス閘門の水位をミラフローレス湖の水位と等しくし第二ドックを通過中の船舶。

(Wikitravelより写真引用)

 船舶は太平洋側の第一番目のミラフローレス閘門を出ました。次の太平洋側の第二番目のペドロミゲル閘門に入る為、その手前のミラフローレス人工湖で待機しております。ぺドロミゲル閘門を通過するとパナマ運河開通百年を記念して2004年8月15日に開通した「センテニャアル橋(英)」=「センテナリオ橋(西)」=「一世紀橋」が眼前に美しい雄姿を見せてくれます。


運河の国パナマ

2009-03-02 23:55:42 | パナマ
 コロンブスが1,502年にパナマ地峡に到達しその8年後1,510年にスペイン本国が植民地化を開始するまではまだ太平洋の存在はありませんでした。1,513年にN.バルボアがこの地峡を探検し東西をつなぐ航路の重要性を確認した(この時点では別の海があるのを薄っすらと知っていた)最初の征服者となりました。太平洋の命名は平和な海を意味しバルボアが命名者と言われております。1,534年にスペイン国王カルロス5世が地峡の幅がほぼ最少で約80kmの所に運河建設をするよう命じましたが当時の技術力を遥かに越えた土木工事で断念せざるを得ませんでした。それから3世紀以上経った後の1,880年にスエズ運河を建設したフランス人F.レセップスは「パナマ両洋世界会社」を設立しスエズ運河と同様な海面レベル航行案での運河計画で施工しましたが、これもまた技術不足+熱帯地方の伝染病の発生及び調達資金ショートで実現が不可能になりました。フランスはこの最初の失敗にも負けず1,894年に「パナマ運河新会社」を設立し、地峡の地形的、地質的及び水文学的性質を調査する委員会を創設しチャグレス川の増水の管理及び海面レベル案での膨大な岩石山を掘削する工事を削減する為に閘門(こうもん=ロック)を利用する計画を提案しました。が資金ショートで運河建設の特権を4,000万ドルで、パナマがアメリカ支援を得てコロンビア国から独立した1年後の1,904年に米国に売り,運河建設の権利譲渡の契約をしたのです。それから10年後の1,914年8月15日に「パナマ運河」は開通しました。その工事の苦労は筆舌に尽くし難い程の過酷なものでそこには唯一の日本人土木技術者「青山士」も居ました。長らく米国の管理が続いてきたが1,977年に署名し1,979年10月1日から発効の両国代表者トリホス・カーター条約の規定により1,999年12月31日の昼12:00にパナマ国への返還が成され米国の南米の軍事拠点は完全に撤退したのです。それ以降はパナマ運河庁(ACP)が運河の運営,経営,維持管理及び改良を行っております。

 
 運河は以前は陸続きで特にクリブラ(ゲイラード)カットと呼ばれる地形を削岩しなければなりませんでした。現在この場所が運河の最小航路幅で直線部分で192m、曲線部分で222mです。最小水深は約13mで、3つの閘門と3つの人工湖から形成されています。約80kmの運河の航行のみの時間(待機時間は含まない)は約9時間です。船舶は3つの閘門にて太平洋⇔大西洋を途中人工湖のガトウン湖の海抜26mまで昇降させます。閘門の幅は33.53m、長さは304.8mできっ水(水面より下の船体の深さ)は12mでこの運河を通過する仕様(長さ=294m,幅=32.3m)の船をパナマックスサイズと呼びます。(パナマ運河を通行できる最大級の船のサイズです。第二次世界大戦時の米国海軍艦艇も同仕様に建造し東海岸から西海岸へと投入したのです。) 現代の大型コンテナ船舶化傾向に対応できる長さ366m、幅49m、きっ水15mの航行が可能な、かつ現在の運河を利用した「新しい閘門」の建設の開始が今なされようとしています。


 太平洋側のパナマシティから一番近接した2つの閘門を持つミラフローレス閘門の太平洋側の入り口を見ています。大型船舶は両岸に設置された軌道上の機関車により閘門内は牽引されます。船舶の後方の閘門は今は「開き」の状態です。


 船舶が閘門内に収まると後方の閘門が閉められます。この時点では太平洋側と閘門内の海面の高さは同じです。

 
 上記写真の大写し。


 船舶が第一番目の閘門に収まりました。側道の機関車軌道が急勾配で上がっております。何ででしょうか?次の写真をご覧下さい。


 第一番目の前方の閘門=第二番目の後方の閘門は「閉まった」状態ですので、両側の海面の高さの差は歴然と見られます。これからこの上側の海面高まで閘門の開け閉めで船舶を上げるのです。もうお分かりですよね。第一段階はこの閘門を「開けて」海面高を左右の高さの平均高にします。(≒壁面の黒い部分の上の線の高さ)


 油圧ジャッキにて閘門は徐々に開けられようとしています。