土木技術者が撮った中南米の「光りと影」の写真 及び 他国風情

 約22年間の中南米赴任中に土木技術者の視点から撮った写真。開通前のパナマ運河に架かる第二アメリカ橋は圧巻 & 他国事情

運河の国パナマ

2009-03-02 23:55:42 | パナマ
 コロンブスが1,502年にパナマ地峡に到達しその8年後1,510年にスペイン本国が植民地化を開始するまではまだ太平洋の存在はありませんでした。1,513年にN.バルボアがこの地峡を探検し東西をつなぐ航路の重要性を確認した(この時点では別の海があるのを薄っすらと知っていた)最初の征服者となりました。太平洋の命名は平和な海を意味しバルボアが命名者と言われております。1,534年にスペイン国王カルロス5世が地峡の幅がほぼ最少で約80kmの所に運河建設をするよう命じましたが当時の技術力を遥かに越えた土木工事で断念せざるを得ませんでした。それから3世紀以上経った後の1,880年にスエズ運河を建設したフランス人F.レセップスは「パナマ両洋世界会社」を設立しスエズ運河と同様な海面レベル航行案での運河計画で施工しましたが、これもまた技術不足+熱帯地方の伝染病の発生及び調達資金ショートで実現が不可能になりました。フランスはこの最初の失敗にも負けず1,894年に「パナマ運河新会社」を設立し、地峡の地形的、地質的及び水文学的性質を調査する委員会を創設しチャグレス川の増水の管理及び海面レベル案での膨大な岩石山を掘削する工事を削減する為に閘門(こうもん=ロック)を利用する計画を提案しました。が資金ショートで運河建設の特権を4,000万ドルで、パナマがアメリカ支援を得てコロンビア国から独立した1年後の1,904年に米国に売り,運河建設の権利譲渡の契約をしたのです。それから10年後の1,914年8月15日に「パナマ運河」は開通しました。その工事の苦労は筆舌に尽くし難い程の過酷なものでそこには唯一の日本人土木技術者「青山士」も居ました。長らく米国の管理が続いてきたが1,977年に署名し1,979年10月1日から発効の両国代表者トリホス・カーター条約の規定により1,999年12月31日の昼12:00にパナマ国への返還が成され米国の南米の軍事拠点は完全に撤退したのです。それ以降はパナマ運河庁(ACP)が運河の運営,経営,維持管理及び改良を行っております。

 
 運河は以前は陸続きで特にクリブラ(ゲイラード)カットと呼ばれる地形を削岩しなければなりませんでした。現在この場所が運河の最小航路幅で直線部分で192m、曲線部分で222mです。最小水深は約13mで、3つの閘門と3つの人工湖から形成されています。約80kmの運河の航行のみの時間(待機時間は含まない)は約9時間です。船舶は3つの閘門にて太平洋⇔大西洋を途中人工湖のガトウン湖の海抜26mまで昇降させます。閘門の幅は33.53m、長さは304.8mできっ水(水面より下の船体の深さ)は12mでこの運河を通過する仕様(長さ=294m,幅=32.3m)の船をパナマックスサイズと呼びます。(パナマ運河を通行できる最大級の船のサイズです。第二次世界大戦時の米国海軍艦艇も同仕様に建造し東海岸から西海岸へと投入したのです。) 現代の大型コンテナ船舶化傾向に対応できる長さ366m、幅49m、きっ水15mの航行が可能な、かつ現在の運河を利用した「新しい閘門」の建設の開始が今なされようとしています。


 太平洋側のパナマシティから一番近接した2つの閘門を持つミラフローレス閘門の太平洋側の入り口を見ています。大型船舶は両岸に設置された軌道上の機関車により閘門内は牽引されます。船舶の後方の閘門は今は「開き」の状態です。


 船舶が閘門内に収まると後方の閘門が閉められます。この時点では太平洋側と閘門内の海面の高さは同じです。

 
 上記写真の大写し。


 船舶が第一番目の閘門に収まりました。側道の機関車軌道が急勾配で上がっております。何ででしょうか?次の写真をご覧下さい。


 第一番目の前方の閘門=第二番目の後方の閘門は「閉まった」状態ですので、両側の海面の高さの差は歴然と見られます。これからこの上側の海面高まで閘門の開け閉めで船舶を上げるのです。もうお分かりですよね。第一段階はこの閘門を「開けて」海面高を左右の高さの平均高にします。(≒壁面の黒い部分の上の線の高さ)


 油圧ジャッキにて閘門は徐々に開けられようとしています。