アジアと小松

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小松基地問題研究会

『溶鉱炉の火は消えたり』(浅原健三著)を読む

2017年08月06日 | 読書
『溶鉱炉の火は消えたり』浅原健三著 1930年2月15日 新建社発行 1円50銭

 浅原健三の『溶鉱炉の火は消えたり』は1930年に刊行された。昭和初期の大ベストセラーで収録作品は「二十二年」「溶鉱炉の火は消えたり」「仁丹先生」「地底」「炭田を衝く」「香月村血記」「反動狂舞」「屍を野に焼く」「西部戦線乱る」「驟雨一過」「出発」「戦火燃ゆ」である。
 浅原は1920年、八幡製鉄所の大労働争議を指導し、争議を勝利に導いたが、治安警察法(1900年成立)違反で逮捕された。1929年の帝国議会では、山本宣治への追悼演説をおこなっているが、後年石原完爾らと有無相通じ、侵略戦争に加担していく。
 学生のころに、「溶鉱炉の火は消えたり」は薄いパンフレットにされ、回覧された。「読んだ」という記憶と、「凄い!」という記憶しか残っていない。1930年の発行から87年が過ぎ、著者は1967年7月19日に亡くなり、50年が過ぎたので著作権はなくなっており、デジタル化した。ブログ「アジアと小松」を開いていただきたい。

八幡製鉄所とは?
 1894年日清戦争に勝利した日本は、1895年(明治28年)に製鉄事業調査会を設置し、翌1896年に公布された製鉄所官制に基づいて、福岡県遠賀郡八幡町に官営の製鉄所として、八幡製鉄所が設置された。1901年2月5日に東田第一高炉で火入れがおこなわれた。建設費は、日清戦争でぶんどった賠償金で賄われた。
 1914年の第1次世界大戦を経て、八幡製鉄所はどんどん増築され、ストライキがおこなわれた1920年には2万5000人の労働者(職員1400,職工17000,臨時職不7000)を擁する巨大企業に成長していた。
 2015年、ユネスコは北九州市を含む8県11市にまたがる23資産を、幕末から明治時代にかけて日本の近代化に貢献した産業遺産群として、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」を登録した。このなかに、八幡製鉄所が含まれている。「遺産」という評価には、日本の近代化=資本主義化を美化する、歯の浮くような「日本賛美」によって「民族的自尊心」を形成する意図が隠されている。「登録」キャンペーンによって民族主義・排外主義の温床にされようとしている。

八幡製鉄労働者の不満の蓄積
 1920年2月5日(大正9年)に2万5000人の労働者が大ストライキ(罷工)に決起したが、その以前から、労働者の不満と怒りが蓄積していた。1918年には西田健太郎らのよびかけで、1万人がサボタージュをおこなった。1919年1月24日に、溶鉱炉鉱石運搬作業の朝鮮人82名が待遇改善要求して2日間のストライキ、また8月24日にも工事現場臨時職夫33人がストライキを起こした。
 浅原健三は1919年8月30日に八幡市内で「労働問題公開演説会」を計画したが、警察によって禁止命令が出された。10月16日に、日本労友会の発会式が開かれ、八幡製鉄所、旭ガラス、安川電気、安田製釘など八幡市の大工場を網羅する鉄工場労働者600人が結集した。戦時手当の本給繰入による賃金の値上、8時間労働制の実施などが中心的要求だった。
 12月頃からたたかう体制を構築し始め、2月12日の給料日の翌日ストライキ突入の計画を立てたが、労働者は早期の決起を望み、2月5日突入がきまった。
 要求は、下記の5点とした。①臨時手当及臨時加給を本給に直して支給されたき事。②割増金は従来3日以上の欠勤者に対しては附加せざりしが、之れを廃し、日割を以て平等に支給されたき事。③勤務時間を短縮せられたき事。④住宅料を家族を有する者には4円、独身者には2円を支給せられたき事。⑤職夫の現在賃金3割を加給せられたき事。
 
8時間労働制を要求
 1850年代以降、ヨーロッパ、アメリカなどの労働者は、8時間労働制を求めてたたかい、1886年のアメリカのメーデーは8時間労働をメインに掲げた。1917年のロシア革命は全労働者を対象にした8時間労働制を宣言(布告「8時間労働日について」)し、1919年に創設された国際労働機関(ILO)の第1号条約が結ばれ、「8時間労働制」が確立した。
 浅原健三らが第一の目標にした8時間労働制(当時の八幡製鉄所では12時間労働)は世界的潮流であった。白仁製鉄所長官との会話のなかでは、

 (浅原)「時間短縮、賃金値上げ、其他二三項です。」
 (白仁)「八時間労働にしろといふのかね。」
 (浅原)「さうです。」
 (白仁)「でも、八時間制は無茶だ。官設工場で実施しているところはまだ一つもない。製鉄所が先走りするわけには行かないぢやないか。」

 浅原健三の脳裏には、ヨーロッパの動向、特にロシア革命で確立された8時間労働制が確固としてあったはずだ。

朝鮮人労働者とともに
 八幡製鉄所ではかなり早い時期から、朝鮮人労働者を使役していたようだ。この小説のなかに、2月5日のストライキ(罷工)突入を知らせる場面が描かれている。

 「成功は確実だ。」今度は鳴り熄まぬ。最高潮の強音は、強く、鋭く、長く、全八幡の空に、ビュー、ビューと鳴り響く、突き破る勝利の雄叫(おたけび)が鳴る。
 聞けば、朝鮮人の金泳文が非常汽笛を鳴らし始めた、と見た十数人の守衛が一気に押寄せ、金君を追ひのけて其場を守備した。その時中絶したのである。それを観た百余の職工は、ドツと殺到、守衛連を突き落して汽笛台を××した、金泳文は再び引綱を掴んだ。乱れた髪、喰ひしばつた歯、蒼白の顔、ランランたる目、彼は四十年の恨を二本の手に託して、死んでも放さない。
 此の汽笛は日露戦争に捕獲せられたロシア船に備付けてゐたものだと聞いてゐる。日露戦争後の×××××××××××の青年が此の大ストライキの凱歌を奏する役目に就いたのだ。

 また、とあるブログによれば、次のように書かれている。

 八幡製鉄所構内では、大正9年2月の大争議の前の大正8(1919)年1月24日に、溶鉱炉鉱石運搬作業の朝鮮人82名が待遇改善を要求して、2日間ストライキをした。

 このように、日本の朝鮮侵略・植民地化で、土地を奪われ、追いつめられた朝鮮人が続々と渡日し、八幡製鉄所でも多数働いていたのである。内務省警保局調査によれば、1920年には全国で30,149人の朝鮮人が働いていた。浅原はこの現実を決して見失わず、朝鮮侵略・植民地化のなかで苦闘する朝鮮人労働者との一体感をもって、ともにたたかっていたのである。
 ここで言う「四十年の恨」とは、1875年江華島事件から始まる朝鮮侵略と植民地化にたいする朝鮮人の根底的な怒りである。「日露戦争後の×××××××××××の青年」の、伏せられた11文字は、今となっては正確に知ることはできないが、浅原はくり返し「朝鮮の青年」の怒りを共有している。
 この感性は、今の日本の労働者人民に欠落しており、最も必要としている感性である。極右勢力や保守政治家(例えば谷本石川県知事の「北朝鮮人民を餓死させよ」発言)によるヘイトスピーチ(排外主義)とたたかうための原点があると考える。1970年7・7でようやく自覚した排外主義とのたたかいが、その50年前、今から97年前の1920年には当たり前のように語られていたのである。

鬨(かちどき)、そして一歩退却
 2月5日にストライキ(罷工)に突入し、1901年以来19年間燃え続け、労働者を支配してきた溶鉱炉の火は消えた。八幡製鉄の主人公が誰なのかを明確にした瞬間だった。
 しかし、浅原を始め、中心メンバーの検束(逮捕)が相継ぎ、指導部を失った労友会は急速に力を失っていく。ストライキ(罷工)6日目には大半の職工が「極度に憤懣を抱きながら、不承無精に」職場に就いた。
 しかし、2月23日には、労友会の協議会が開かれ、「満場一致で再罷工を議決した」。小説は次のように描いている。

 二十四日、飛雪霏々(ひひ=降りしきる)。朝の交替時間、予定どほり、第一中型で喊声が揚つた。雪崩出た職工は、順次に、各工場に××、××― ××する者、××する者は××××××××。××××は容赦なく××××。その度毎、ドツと喊声、歓呼。駆り立てられ、追い立てられた群衆は、一群、又一群、通用門に集合。やがて、東門、南門から堰を切って落とした様に流れ出る。
 一万五千の大群は、遂ひに、警戒線を突破して、市内に溢れ出た。井上、加藤(義)は先頭に立つて、春ノ町の購買組合事務所に群集を導く。見渡すかぎりは人の波。商店は戸を閉ざし、幾十台の電車が立往生だ。

 製鉄所は、3月1日まで休業を宣告し、労働者は再び地にねじ伏せられて、3月2日には大半が就業した。 

弾圧と犠牲を乗り越えて
 小説では、弾圧について「代表、補佐、伝令併せて八人私と西田と十人が起訴せられた。」「三百の首なき屍(しかばね)よ! 七十四名の囚徒よ!」「前後二回の罷工のために工場を追はるゝ者三百余、投獄せらるゝ者七十三名。」「一日から四日までに馘首(かくしゅ)せらるゝ者二百二十四名、起訴せらるゝ者六十三人。」「二十七日からの一斉検挙で四百名の主要人物を羅致(らち=拉致)され」、という記述がある。
 製鉄所当局と警察の暴力で、労働者の怒りとたたかいを沈黙させたが、ストライキ(罷工)の力を自覚した2万5000の労働者がいるかぎり、製鉄所も警察も枕を高くして寝ることはできない。
 4月上旬、製鉄所は「優遇案」なるものを発表した。「二交代十二時間労働は三交代八時間労働制となり、労働賃金率は職工の要求に近く改定せられ、我等が要求条項の本体は、殆んど完全に獲得せられた」のである。
 最後のページに、浅原は次のように総括している。「××(労働)者は必ず××(勝つ)! 敗くるは××(戦わ)ないからである。××(戦い)のある所、そこには必ず××(勝利)がある」。そして、「三百の首なき屍(しかばね)よ! 七十四名の囚徒よ! 彼等の犠牲の×(血)は、涙は、十年の今日まで、否、×××××(労働者階級)解放の日まで、脈々として生き続ける」と。
 そして、浅原は「我等は三度(たび)叫ぶ! 富と××を闘ひ守るものは労働者なり!」と締めくくっている。


八幡製鉄大ストライキ前後の歴史
 1894年~日清戦争→台湾割譲、賠償金
 1897年 官営八幡製鉄所設立告示
 1901年 八幡製鉄所操業開始。←強兵富国政策
 1904年~日露戦争
 1909年 安重根、伊藤博文暗殺、
 1910年 朝鮮併合
 1914年~第一次世界大戦
 1917年 ロシア革命→8時間労働
 1918年 中秋の頃―職工1万人のサボタージュ(西田健太郎)。
 1919年 1/24、溶鉱炉鉱石運搬作業の朝鮮人82名が待遇改善要求、スト
 1919年 3/1独立運動
 1919年 8/24、工事現場臨時職夫33人がストライキ
 1919年 8/30、労働問題公開演説会(八幡市)―禁止命令
 1919年 10/16、日本労友会の発会式
 1920年 2/5、八幡製鉄所大ストライキ
 1920年 2/24、第2波ストライキ
 1920年 4/上旬、優遇案→8時間労働
 1923年 9/1関東大震災→朝鮮人・中国人虐殺
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