好評!? 小説『野田山日記 甦えれ魂』
B6版、90頁、売価200円(送料140円)。
注文 郵便振替口座番号:00710-3-84795 口座名:アジアと小松
製本は手作業故、多少難あり。
友人・知人から、うれしい便りが届いた。
A:先日、 『野田山日記 甦えれ魂』届きました。さっそくありがとうございます。史実に基づく創作活動は大変な労力を必要とされますね。石川・富山両県ゆかりの人物が登場してきて、私たちにも身近に日本のアジア侵略と植民地支配について考える手ごろな著書となっていると思いました。尹奉吉、鶴彬、不二越に強制連行された少女たち、姜徳景・・・。日本の近現代史は彼ら彼女らの血と涙で彩られている。この歴史にいまだ決着はついていない、いつまでこの物語は続くのだろうか? そういう思いをいだきながら読みました。
B:『野田山日記』を冊子にまとめられて何よりでした。これを機に、どなたかが舞台化される人がでてくるかも知れません。その日を楽しみにしています。
C:原稿はもちろん、構成、印刷、製本まで全部お一人で手作りされたとは、驚きです。…これは私家版ながら、立派な刊行物。…味のあるいいご本です。
目 次
野田山
1941年晩秋 陸軍墓地 / 尹萬年と尹奉吉
暗闇のなかで
1942年春 日米開戦後 / 1943年夏 徴用令 / 1944年春 感性と決断
1944年12月 いらだつ3人 / 1945年初春 具仁哲の苦悩
解放だ、帰国だ
1945年9月 不二越の少女 / 1946年3月 遺体発掘
孝昌公園へ
2000年夏 聖戦大碑 / 2012年初春 墓掃除 / 2012年7月 孝昌公園で
<書き出し>
野田山は金沢市街地から、犀川を渡って、四キロほど南方にあり、そのはるか先には白山を主峰とする加越山地を遠望する。東に雀谷川を挟んで三小牛(みつこうじ)山があり、共に二〇〇メートル未満の低山で、北に向かって裾野を広げている。
野田山墓地は、江戸時代初期に前田家藩主、正室の墓所として拓かれ、その後家臣、町人の墓が建てられ、明治初期には、その一角を陸軍墓地とし、その下方に市民墓地が広がっている。その面積は四三平方メートルにも達し、五万余の墓碑が林立し、死者の魂がひしめきあっている。
その一角に尹奉吉(ユン・ボンギル)は埋められていた。
尹奉吉は大韓帝国(テハンジェグク)忠清南道礼山(イエサン)郡で一九〇八年に生まれ、日本の植民地支配下で、農村復興運動を進めていたが、弾圧の手が伸び、一九三〇年に亡命を決意し、臨時政府のある上海に向かった。
一九三一年は「いくさのはじまり」と読まれるように、九月満州事変から翌一九三二年一月上海事変へと、日本による中国侵略戦争がはじまった。尹奉吉は金九(キム・グ)が上海で組織する韓人愛国団に参加し、四月二九日の日本軍戦勝記念式場に乗り込み、壇上に爆弾を投げて白川軍司令官ら要人を多数打倒して、逮捕された。
軍法会議で、死刑判決が出され、十一月大阪衛戍拘禁所に移監され、十二月十八日に金沢に移送され、翌十九日午前七時二七分に三小牛山陸軍作業場で処刑され、陸軍墓地と市民墓地の境目に暗葬され、人々の踏むに任されていた。
(以下略)
B6版、90頁、売価200円(送料140円)。
注文 郵便振替口座番号:00710-3-84795 口座名:アジアと小松
製本は手作業故、多少難あり。
友人・知人から、うれしい便りが届いた。
A:先日、 『野田山日記 甦えれ魂』届きました。さっそくありがとうございます。史実に基づく創作活動は大変な労力を必要とされますね。石川・富山両県ゆかりの人物が登場してきて、私たちにも身近に日本のアジア侵略と植民地支配について考える手ごろな著書となっていると思いました。尹奉吉、鶴彬、不二越に強制連行された少女たち、姜徳景・・・。日本の近現代史は彼ら彼女らの血と涙で彩られている。この歴史にいまだ決着はついていない、いつまでこの物語は続くのだろうか? そういう思いをいだきながら読みました。
B:『野田山日記』を冊子にまとめられて何よりでした。これを機に、どなたかが舞台化される人がでてくるかも知れません。その日を楽しみにしています。
C:原稿はもちろん、構成、印刷、製本まで全部お一人で手作りされたとは、驚きです。…これは私家版ながら、立派な刊行物。…味のあるいいご本です。
目 次
野田山
1941年晩秋 陸軍墓地 / 尹萬年と尹奉吉
暗闇のなかで
1942年春 日米開戦後 / 1943年夏 徴用令 / 1944年春 感性と決断
1944年12月 いらだつ3人 / 1945年初春 具仁哲の苦悩
解放だ、帰国だ
1945年9月 不二越の少女 / 1946年3月 遺体発掘
孝昌公園へ
2000年夏 聖戦大碑 / 2012年初春 墓掃除 / 2012年7月 孝昌公園で
<書き出し>
野田山は金沢市街地から、犀川を渡って、四キロほど南方にあり、そのはるか先には白山を主峰とする加越山地を遠望する。東に雀谷川を挟んで三小牛(みつこうじ)山があり、共に二〇〇メートル未満の低山で、北に向かって裾野を広げている。
野田山墓地は、江戸時代初期に前田家藩主、正室の墓所として拓かれ、その後家臣、町人の墓が建てられ、明治初期には、その一角を陸軍墓地とし、その下方に市民墓地が広がっている。その面積は四三平方メートルにも達し、五万余の墓碑が林立し、死者の魂がひしめきあっている。
その一角に尹奉吉(ユン・ボンギル)は埋められていた。
尹奉吉は大韓帝国(テハンジェグク)忠清南道礼山(イエサン)郡で一九〇八年に生まれ、日本の植民地支配下で、農村復興運動を進めていたが、弾圧の手が伸び、一九三〇年に亡命を決意し、臨時政府のある上海に向かった。
一九三一年は「いくさのはじまり」と読まれるように、九月満州事変から翌一九三二年一月上海事変へと、日本による中国侵略戦争がはじまった。尹奉吉は金九(キム・グ)が上海で組織する韓人愛国団に参加し、四月二九日の日本軍戦勝記念式場に乗り込み、壇上に爆弾を投げて白川軍司令官ら要人を多数打倒して、逮捕された。
軍法会議で、死刑判決が出され、十一月大阪衛戍拘禁所に移監され、十二月十八日に金沢に移送され、翌十九日午前七時二七分に三小牛山陸軍作業場で処刑され、陸軍墓地と市民墓地の境目に暗葬され、人々の踏むに任されていた。
(以下略)