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小松基地問題研究会

20240825「内灘問題を省みて」(梅田善作1953年12月)を読む

2024年08月25日 | 内灘闘争
20240825「内灘問題を省みて」(梅田善作1953年12月)を読む

 これまで、ずいぶんと内灘闘争資料に目を通してきたが、警察当局者による「内灘闘争総括」をはじめて見る機会を得た。表記の「内灘問題を省みて」は石川警察編集委員会が発行する『いしかわ』103号(1953/12/11)に掲載されている。執筆者の梅田善作は内灘を管内とする国警河北地区署長である。『いしかわ』103号は風と砂の館に蔵書され、内灘闘争60周年研究事業として発行された『風と砂の館資料から探る 内灘闘争参加の諸組合活動』(注1)のなかに収録されている。(注1:この冊子には、「内灘闘争の概要と労働組合支援の背景」(西尾雄次)、「労働組合資料から内容掲載」があり、北陸鉄道、国鉄、私鉄、金属、銀行関係労組の資料が掲載されている。石川県立図書館と内灘図書館に蔵書されている)

 梅田文書の結論は、「純真で単純な漁村の人々(内灘村民のこと)」、「愛村同志会の活動は…内灘問題の解決に大きい役割を果たした」、「8月、網元責任者15名を刑特法違反として逮捕検挙」、「今後は過去一切水に流し、恩讐を越えて互いに内灘村の発展を期する」ということにあるだろう。

 『愛村の声』第9号(1953/8/28)には、「愛村同志会は内灘を共産党から守るために生まれたもの」と自らを位置づけており(『内灘闘争資料集』202頁)、出島権二さんが、「愛村同志会は津幡警察署の肝いりで作られ、その活動資金は林屋亀次郎から出ていた」(注2)と話しているように、愛村同志会は政府・警察と一体となった反共運動体であり、内灘村民の生活の糧である浜と海を米軍に売り渡すために、外在的に作られた。(注2:「1953年内灘解放区」(1989年『内灘から三里塚へ』所収)

 梅田は内灘闘争の性格を、共産党などの左翼によって騙され、躍らされた「純真で単純な漁村の人々」の一時的な動揺であり、津幡署のてこ入れで大根布愛村同志会をつくり、理性が恢復され、解決(試射場の使用)の糸口がつかめたと描いている。

 愛村同志会の結成は、1953年8月16日だが、その以前に大根布の医療小屋を壊し(8/8)、共産党工作隊の小屋を壊し、全学連を青年会館から追い出した。内灘村実行委員が集まっていた保育所に押しかけ、村民大会(8/24)を粉砕した。このとき、警察の1個小隊が村民を包囲し(『医療班ニュース』3号1953/9/5)、愛村同志会の行動を援護していた。その後、集まっていた500人の村民は村民大会の開催を要求したが、後日改めて開催することになり(1953/8/25『北陸新聞』)、反対運動は退潮へと向かっていった。

 梅田は、政府と内灘村との間の未解決問題或いは法的に疑義の点(接収地700町歩の中にある権現森の11町歩の民有地、接収地各所に点在する耕作地の耕作権、漁業権(地曳網)の立ち入り問題)の存在を自覚しており、「外見上不法行為の如く見えても、民法上の正当な権利の行使となる場合もある」として、ストレートな弾圧を控えていたが、愛村同志会を作って、内灘村実行委員会を分裂させ、然る後に警察は「忍従と自重の警備」を転換させ、愛村同志会とタッグを組んで、8月以降反対運動つぶしを前面化してきたのである。すなわち、全村民を敵にまわすことがなくなったからである。

 梅田は、警察に検挙された者として49人(軽犯罪法違反7人、傷害罪6人、詐欺1人、暴力行為等処罰法17人、刑事特別法違反19人)を挙げている。とくに、当初は「施設内(試射場)立ち入り」を軽犯罪法違反として検挙していたが、8月に入って、より罪の重い「刑特法違反」として網元責任者15人を逮捕検挙している。

 梅田は「愛村同志会の反共的活動は…内灘問題の解決に大きい役割を果たした」と結論し、分裂・分断工作と弾圧をセットにすることこそが闘争破壊の要であると、総括している。

メモ「内灘問題を省みて」梅田善作(内灘を管内とする国警河北地区署長)
『いしかわ』103号(1953/12/11石川警察編集委員会)


・内灘がなぜ全国軍事基地(注:闘争)の突破口となったか
(1)吉田政府の不信を衝くに好個の資料がある
  一時使用とは一時使用期間中に再交渉をなし、永久使用に導く含みのある一時使用であった。
(2)革新陣営の党勢拡大を図る絶好の機会である。
  純真で単純な漁村の人々の信頼を得て、革新陣営に村人を加入せしめ、党勢を拡張

・内灘警備の特殊性
 忍従と自重の警備だった―微温的、取締緩慢との批判。
 力には力をと直ちに実力行使できぬところに内灘警備の悩みがあった。
 鉄板道路における座り込み―硬軟双方の警備措置。
 警察力を強力に行使することが内灘問題を早急に解決するのではないかという考え=それは最も危険な考えである。
 内灘警備の失策は直ちに全国軍事基地(注:反対運動)を一斉に立ち上がらしむる危険性を包含している。
 政府と内灘村との間の未解決問題或いは法的に疑義の点(接収地700町歩の中にある権現森の11町歩の民有地、接収地各所に点在する耕作地の耕作権、漁業権(地曳網)の立ち入り問題)
 外見上不法行為の如く見えても、民法上の正当な権利の行使となる場合もあり→穏忍持久の精神を必要

・革新陣営のリードに躍らされた拡大闘争
 4月初旬、日共工作隊は向粟崎及び大根部付近の小屋に宿泊して潜行闘争。
 全学連の10余名が進出し、北鉄、国鉄、金属、全纎等の県評傘下の労組及日共、両社党、民戦、日教組が決起。→1ヶ月間冷却期間
 一ヶ月試射中止→全国からの支援→逆効果→接収反対実行委員会が生まれ、村議会が満場一致の反対決議、県議会も絶対反対決議→婦人団体も青年団なども
 内灘接収反対運動→全国軍事基地反対運動へ→盲信した村民→妥協派と対立→村民相食む愚=傷害事件
 革新陣営の宣伝闘争に対し、政府の啓蒙宣伝が1回もなかった。政府与党を代表して中央から説得に1人の政治家も見えなかった。

・反対闘争がもたらした功罪
 5月1日以降、反対闘争の中核となって挺身したのは日共工作隊、全学連及び急進労組の一部であった。これらの急進分子は村内に起居し、未明に起床して道路に物を運搬する人の手助けをなし、日中は漁具の手入れ及び畠地の耕作、雑草取り等労務の無償提供をなして、村民より信頼され、5月中旬の村民大会=共産党と一線を画す→6月中旬村民大会=共産党であろうと過激分子であろうと受け入れ。
 警察は政府の代表と見なされ→警備情報が入手できなくなった。
 急進分子、工作隊、70余名の全学連=大根布の青年会館で宿泊。
 愛村同志会を結成→青年会館の全学連追い出し、共産党工作隊の小屋取り壊し
 愛村同志会の反共的活動は…内灘問題の解決に大きい役割を果たした。
 警察に検挙された者(施設内立ち入り=軽犯罪法違反7人、傷害罪6人、詐欺1人、暴力行為等処罰法17人、刑事特別法違反19人、合計49人)

・伝家の宝刀棚上げの内灘警備
 上局から刑特法(1952/5/7公布)の適用を避けよとの指示→8月に入ってから刑特法適用が許された
 8月、網元責任者15名を刑特法違反として逮捕検挙した。

・内灘警備の教訓
機動力装備の強化、通信連絡機材の強化、携帯用屯所資材の整備、指揮官の正確状況判断、指揮掌握と任務の徹底、単独行動を慎むことを挙げている。

・内灘永遠の平和と弥栄を祈る
 中山村長=勝利なき無謀な反対闘争→9月中旬に妥結→リコール運動→10/10辞表→11/10選挙(中本)
 内灘の村民たちよ、内灘接収に反対した人も、政府案に妥協した人も、…今後は過去一切水に流し、恩讐を越えて互いに内灘村の発展を期するため、協同一致村造りに専念し、…「内灘よ永遠に栄あれ」



 

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