アジアと小松

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小松基地問題研究会

20211217 堀辰雄『風立ちぬ』を読む

2021年12月17日 | 読書
堀辰雄『風立ちぬ』を読む

 月1回の風変わりな学習会があり、そこでは、参加者の関心ごとや、読んだ本についてレポートし、ワイワイ、ガヤガヤと討論する場である。ずいぶん長くつづいているが、私は5年ほど前に大串龍一さんに誘われて、顔を出すようになった。
 先日は、堀辰雄の『風立ちぬ』が俎上にのせられたが、一読して、性愛の物語であり、私には気乗りのするテーマではなかった。それでも、議論に参加するためには、私なりの読み方をしなければならないと思い、多少は時間をかけて読んでみた。

 本書は堀辰雄の直近の体験を題材にして小説化したものであり、必ずしも観念の世界で作り上げられたものではない。当時(20~30歳代)の堀の経歴を見ると、22歳(1926)のときに中野重治らと『反デューリング論』(マルクス)の学習会に参加しているが、その後マルクス主義を捨てている。23歳(1927年)のとき肋膜炎に罹り、26歳(1930年)で喀血し、28歳(1932年)のとき1カ月ほど床に伏し、29歳(1933年)で矢野綾子(作品では節子)に出会い、30歳(1934年)で婚約し、綾子の病状が深刻化し、療養所に入院し(1935年)、堀も看護のために同行し、1935年12月には綾子が亡くなった。翌1936年に『風立ちぬ』の執筆を開始し、1937年加藤多恵子と出会い、1938年3月に脱稿し、4月に結婚している。

 作品は死に直面する節子との愛の物語だが、実際の堀はそんなにピュアな人ではない。だって、節子との「愛」を書き綴りながら、「お前がちっとも生き生きと私に蘇ってこない」(188頁)というのも、すでに多恵子と恋仲になっており、葛藤を抱えながら、それを表現せずにいるからではないだろうか。

 当時の結核は有効な薬のない感染症であり、確実に死に至る病であり、1935年には死亡率1位を記録している。堀自身も26歳で喀血し、病床に伏し、23年後の49歳で死亡している(死因は結核)。このように重大な病を得ているふたりが結核療養所の重症病棟で同居し、「接吻」(127頁)し、「頬ずり」(157頁)しているが、まさに節子の死を早める行為以外の何ものでもない。作品中では「接吻」「頬ずり」としか書かれていないが、ピュアな性愛ものに仕上げるためには、ベッドシーンを排除したのだろう。

 33歳の若き堀は、「なるたけ世間なんぞと交わらずに」(199頁)と書き、「谷の向こう側はあんなにも風がざわめいている」(201頁)と書き、現実世界との関係を遮断している。堀が生きる現実世界は、1932年には上海軍事侵略、満州国でっち上げ、5・15事件、中野重治検挙(34年釈放)、1933年には小林多喜二虐殺、国際連盟脱退、1934年には日本プロレタリア作家同盟解体、1935年には天皇機関説(美濃部達吉)弾圧、共産党壊滅、1936年には新興仏教青年同盟弾圧、2・26事件、1937年には盧溝橋事件、日中戦争、南京占領、中野重治らに執筆禁止、1938年には鶴彬獄死など、『風立ちぬ』執筆の前後数年間は、激しく揺れ動いている。

 しかし、堀は、この時代状況を「谷の向こう側」と称して、直視しようとせず、軽井沢を「幸福の谷」(200頁)と呼び、「私の足下」(201頁)で落ち葉がさらさらと音を立てている程度にしか受けとめようとしていない。たしかに、室生犀星のように戦争詩を詠まなかっただけましかもしれないが、この堀を「時流に迎合しない作風」、「無言の抵抗」、「静かに反抗」などと評するものがいるようだが、いかがなものだろうか。
(頁数は新潮文庫版)
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