アジアと小松

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小松基地問題研究会

20230401『花の結び目』(時実新子)を読む

2023年04月01日 | 読書
20230401『花の結び目』(時実新子)を読む

 知人のWさんが、最近発刊された『反戦川柳人 鶴彬の獄死』(佐高信)をプレゼントしてくれた。玄関先で少し立ち話をしたときに、『花の結び目』(時実新子)が話題になり、その後図書館で借りだした。
 時実新子は1929年生まれで、16歳で敗戦を迎え、戦後に川柳を詠みはじめ、1981年に『花の結び目』を刊行し、2007年に亡くなっている。
 同著「九の章」には、下記のようなフレーズがあり、違和感と不快感を感じた。

(1)もっとも無垢な少女期に戦争をくぐり抜け、飢えと紙一重の敗戦後の混乱に身を置いた者にとって、間違った戦争ではあっても一丸となって戦ったその片隅で、川柳を手段としつつ冷たい批判の目が光っていたことが私には耐えられない。

 →「間違った戦争」を強いた天皇・政府にたいする批判はもちろん、体制順応派として「間違った戦争」に協力した自身への反省がない。伊丹万作は敗戦翌年の1946年には、エッセイ「戦争責任者の問題」(『映画春秋』創刊号)で、「だまされた者の責任」を論じているが、時実は1981年時点でも、自らを天皇・政府と対立する存在として対象化できていないのではないか。時実は戦後35年が過ぎても、天皇制の暗闇から目覚めていないのであろう。
 魯迅(1881~1936)は「暴君治下の臣民は暴君よりさらに暴である」と喝破しているではないか。

(2)結果的にはその人たちが正しかった、馬鹿みたいに大本営発表を信じて汗した少年も少女も笛吹きに踊らされていたのだ、としても私は踊った自分を悔いていない。…人間爆弾となって散った少年航空兵の心は私たちが想像する以上に晴れやかであったかも知れない。

 →少年航空兵がわが身をハンドルに縛り付けられて、脱出できないようにされて、敵艦に自爆攻撃をかけさせられたことを「晴れやかであってほしい」と願う時実による美化・浄化作業である。それは第六潜水艇の沈没事故(1910年)の際に、与謝野晶子が「海底の/水の明りにしたためし/永き別れの/ますら男の文」を詠み、事故をおこした佐久間勉艇長の誤判断をうやむやにして美化しているのにも似ている。

(3)天皇ヘイカバンザイの嘘は事実であっても、極限に置かれた人間は苦悩を超越する。完爾たる戦死もあり得たであろうと私は思うのだ。

 →「完爾(にっこりとほほえむ)たる戦死」とは! 生きながら死を選択し、敵艦に向かってハンドルを切り、急降下し激突する直前の恐怖に対するリアリズムが感じられない。自分自身の問題ではなく、他人事なのだろう。「死人に口なし」か! 

(4)「手と足をもいだ丸太に」誰が好んでするものか。川柳に於いてそれを責める鶴彬に問いたい。「それであなたに戦争を防ぐ力があったのか」と。

 →その「誰」とは、徴兵から逃げられないようにした政治・天皇ではないか。その天皇を責めるなとでもいうのか。鶴彬は川柳で表現する以前に、行動で主張している(軍隊内で、その結果何年も刑務所だった)。そのたたかいがあまりにも小さく、実を結ばなかったが、だからといって、その行為を無駄なことであるかのように評論する時実の不誠実さ。

(5)鶴彬の川柳が愚衆の代弁として、国への抗議として、現在までも信奉されることと、一人の二等兵の尊厳なる死とどちらが立派かと問われるならば、私は迷わず後者をとる。

 →鶴彬の川柳は「代弁」ではなく、たたかいのなかから生まれた自己主張である。時実はチフス菌を投入されて殺された(湯浅謙の証言)鶴彬の死を嫌悪し、特攻隊の死に尊厳を感じる時実は、おそらく小林多喜二の死をも嫌悪しているのであろう。時実は一般の国民を「愚衆」と見下しており、鶴彬や小林多喜二の死を自らの死と感じる人々(私も)を「愚衆」と見ており、時実の差別的・侮蔑的感情の吐露でもあろう。

 この時実が「川柳界の与謝野晶子」と呼ばれているそうだが、他方「川柳界の小林多喜二」といわれる鶴彬と対極をなしているようだ。
 私は少年時代、与謝野晶子は「君死にたまふことなかれ」(1904年)を歌った反戦歌人と教えられてきたが、とんでもない。1910年に発生した第六潜水艇の沈没事故の際には、「海底の/水の明りにしたためし/永き別れの/ますら男の文」という歌を詠み、判断を誤って事故をおこした佐久間勉艇長を美化している。1942年には発表した「白櫻集」では、「強きかな/天を恐れず/地に恥じぬ/戦をすなる/ますらたけをは」、「水軍の/大尉となりて/わが四郎/み軍(いくさ)にゆく/たけく戦へ」と詠み、兵士を鼓舞する歌を詠んでいる。
 時実を「川柳界の与謝野晶子」と呼ぶのは、言い得て妙ではないか。


メモ
 1910年岩国沖で第6潜水艇が水没事故を起こしたが、乗組員全員が持ち場を離れず、亡くなったことを賛美し、修身の教科書や軍歌で、「潜水艦乗組員かくあるべし」「沈勇」などと取り上げられ、子どもたちの「軍人への憧れ」を引き出す装置として利用した。
 母艦歴山丸の艦長は、安全面の不安からガソリン潜航を禁止しており、佐久間大尉はこれを無視してガソリン潜行を実施した。佐久間大尉の「禁令無視」によって、13人の兵士が殺されたのであり、美談でも何でもない。
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