アジアと小松

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小松基地問題研究会

20240805 佐道昭さんを偲ぶ

2024年08月06日 | 思い出の人
20240805 佐道昭さんを偲ぶ

 私は、1年間の療養後の1971年に内灘・大根部に着地し、内灘火力発電所(内灘火電)建設(1970年5月計画発表)に反対する出島権二さんや内灘青年共闘会議のメンバーとともに、町長リコール運動に走りまわりました。
 佐道さんは教員時代(金沢大学)に、教職員組合の活動をしており、その視点からキャンパスでの私たちの活動を見ていたそうです。佐道さんと知り合うのは、内灘であり、その後半世紀もの長い付き合いでした。

内灘火力発電所建設阻止闘争
 佐道さんは砂丘地に造成された新興団地・鶴ヶ丘の住民をまとめ、出島さんは内灘闘争(1953年)を実体験していた旧村の知友に働きかけ、新旧住民が結びあって、1972年10月町長リコールを成立させ、内灘火電計画を中止に追い込みました。
 この渦中で、出島さんは肺結核を発症し、城北病院に入院し、回復後、新旧住民の力で、内灘闘争25周年集会(1978年)を成功させました。その後、25周年集会実行委員会のメンバーが「内灘闘争資料集」の作成に着手し、資料収集に10年の歳月をかけて、1989年に「内灘闘争資料集」を完成させました。
 その後、私は内灘を離れ、小松に着地しましたが、佐道さんとは、その後も長い付き合いがつづきました。しかし、内灘の皆さんには、こころからお詫びしなければならないことがあります。私が三里塚闘争をたたかっているが故に、出島さん、佐道さん、内灘青年共闘会議の皆さんに、嫌がらせの電話や行為が繰り返しあり、本人以上に家族の皆さんが苦しんでいました。

反原発闘争に邁進
 内灘火電建設を阻止し、内灘闘争25周年記念集会の成功後、1981年に佐道さんたち(19人)は「反原発石川県民の会」の結成を呼びかけ、その代表の責任を果たしています。3月24日の『毎日新聞』は次のように報道しています(一部抜粋)。
 (見出し)反原発へ「県民の会」130人が参加、結成 勉強会開き地道に活動
 北陸電力の能登(志賀)、珠洲原発建設計画が進んでいる県下でも、「地球上からすべての原発と核を廃絶させる」を目標に、「反原発県民の会」(会員120人)が発足した。…昨年11月「呼びかけ人会」を作り、これまでに県内10カ所で原発の危険性を訴えるスライドの上映会を開くなど、結成準備を進めてきた。…結成総会では、佐道助教授が「なぜ原発に反対するのか。一人一人がしっかりと認識して、地道な運動を進めていきたい」と挨拶した。「死の灰をふりまく原発が能登、珠洲にできれば、県民の生活は破壊される。エネルギー危機に名を借りた原発推進をわれわれはきっぱりと拒否する」という大会宣言を採択した。

 このように佐道さんは、1953年内灘闘争と1970年代の内灘火電反対運動から、さらに原発反対運動へと歩を進めました。1981年4月25日に、石川県と北陸電力にたいして、能登(志賀)原発と珠洲原発の建設計画中止を申し入れました。当時の『毎日新聞』の取材にたいして、佐道さんは「私たちは前々から原発の危険性を主張してきたが、それ(注:日本原電敦賀発電所の放射能汚染)が現実となって現れた。企業はミスだといっているが、ミスがあれば放射能が漏れるし、原子炉が爆発することもあり得ることを証明した。これを機会に原発を県内に立地させない運動の輪を広げたい」と話しています。

 その結果、2003年には、珠洲原発計画を中止させ、志賀(能登)原発を廃炉に訴訟が息長くたたかわれてきました。佐道さんによる『北陸中日新聞』への投稿を添付します。

 

ああ、淋しい
 佐道さんが高齢になるに従い、直接お会いする機会が途絶え、「便りのないのが良い便り」と思いつつ、『アジアと小松』を送ってきましたが、2024年7月に、内灘の方から佐道さんの死(2023年春)を知らされ、愕然としてしまいました。下記は佐道さんが亡くなる半年ほど前の投稿です。私への遺言として心に刻んでいます。



 【追伸】佐道さんは『経済評論』(1983/11、市民のエネルギー白書)に、「中止された金沢火力発電所建設計画」という論考を投稿しており、国立国会図書館から手元に届くには、もう少し時間がかかりそうです。
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