アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

20211201 『タリバン復権の真実』(中田考著)の感想

2021年12月02日 | 読書
『タリバン復権の真実』(中田考著)の感想

【はじめに】
 2021年8月15日にタリバンがアフガニスタンの首都カブールを制圧したと報じられてから、タリバン=悪者論がマスコミを覆い、違和感を感じていたところに、『北陸中日新聞』読書欄に『タリバン復権の真実』(中田考著)の書評が載り、購入して読んだ。

 マスコミの論調は、「タリバン=諸悪の根源」であり、8月18日付け『北陸中日新聞』では「アフガン留学生―もう帰れない」、「教育、また奪われる」という大見出しが躍っている。他方、田原牧さんは、「ブルカの着用は田舎の因習であり、むしろ略奪しないタリバンに親近感を抱いている」(10・9)と、タリバンを評している。たしかに、イスラム法によれば離婚や遺産相続では女性にとっては不平等であり、ジェンダー平等が求められているが、アフガニスタンは欧米による侵略と政治的混乱に加えて干ばつが追い打ちをかけ、市民生活が困窮しており、その根本的原因(侵略)の追及を疎かにして、タリバンのジェンダー不平等を批判して事足れりとしてよいのだろうか。

 では、『タリバン復権の真実』(中田考著)から、現在のアフガニスタンが直面している問題について整理しておきたい。読み進めると、アフガニスタンの歴史は複雑で、激しく変転しており、簡単な年表を作成し(末尾)、参考にしながら読み進めた。

【1】アフガニスタンという国
 アフガニスタンの人口は約4000万人であるが多民族国家で、最大のエスニック集団(民族)は40%強のパシュトゥーン人であり、つづいて30%弱のタジク人、10%弱のアザラ人、ウズベク人からなる。

 アフガニスタンのGDPは200億ドル弱、1人あたりGDIは600ドル弱であり、世界の最貧国のひとつである。長年にわたる戦争で、国土が荒廃し、産業が育っておらず、農産物と地下資源外にはほとんど輸出品もない。

 アフガニスタンはイスラーム文明と中華文明のフォルトライン(断層線)であり、中央アジアからインドへの通路である(イスラーム文明圏とインド文明圏とのフォルトライン)。イスラーム文明が西欧文明、中華文明、インド文明、東欧ロシア文明と対峙するフォルトライン(断層線)として、地政学的・文明論的緩衝地帯である。

【2】アフガニスタンの近代史概略
<イギリスによる植民地支配>
 近代国家としてのアフガニスタンは、1834年にアフガニスタン首長国として出発するが、イギリスからの侵略攻撃にさらされ、1838~42年第1次アフガン戦争(イギリス軍が大敗して撤退)、1878~81年第2次アフガン戦争(イギリスに外交権を委ねる条件で撤退)、1879年アフガニスタンで対英反乱が起き、英軍はカブールを占領し、1880年から植民地支配が始まった。

<イギリスから独立>
 しかし、1919年第3次アフガン戦争でイギリスから独立し、アフガニスタン王国を名乗った。1973年にクーデターで王政が廃止され、共和制のアフガニスタン共和国が成立した。

<ソ連による軍事支配>
 1978年には、社会主義政権のアフガニスタン民主共和国が成立したが(アミン)、各地でイスラム主義の武装蜂起が起こり、ソ連がアフガニスタンに武力侵攻した。1987年ナジブラ政権が発足し、アフガニスタン共和国と改称した。その後もアメリカの武器援助で、イスラム主義による武装抵抗が続き、1989年にソ連軍が撤退し、1992年にナジブラ政権が崩壊した。

<タリバン結成>
 1994年にムッラー・オマルによってタリバンが結成された。タリバンとは「学生たち」または「求道者」という意味である。匪賊化したムジャヒディーン(聖戦を遂行する者)の軍閥が割拠し無法化している現状を変革するための神学生集団である。
 1996年にタリバン政権が発足し、アフガニスタン・イスラム首長国を名乗った。タリバン政権時には、偶像崇拝を禁止し、写真やテレビは禁止され、バーミヤンの石仏を破壊した。女性の社会的進出も否定された。
 2001年9・11後、アメリカがアフガニスタン(タリバン政権)にビン・ラーディンらの引き渡しを要求したが、タリバンはアフガニスタン国内での裁判を主張し、引き渡しを拒否した。アメリカは空爆を開始し、タリバン政権を追いつめ、カルザイ暫定政権(+北部同盟)を発足させ、2004年アフガニスタン・イスラム共和国が成立した。

【3】アフガニスタン・イスラム共和国の20年
 バイデン大統領が「米国が過去20年間で1兆ドル(110兆円)以上の資金をアフガンに投じ、兵士30万人に装備を調え、訓練を施したにもかかわらず、大統領は逃亡し、アフガン軍は戦わずに崩壊した」と述べたように、アフガニスタンは新植民地主義支配の下で苦しんでいた。

 日本も5億ドルもの復興支援をおこなったが、アフガニスタンへの援助資金は欧米企業やNGO要員、アフガニスタンの軍閥、政治家、そして彼らの縁故のビジネスマンのために消費され、一般民衆がほとんどその恩恵を受けていなかった。

 2019年の大統領選挙で、ガニ候補が勝利したが、北部同盟が異議を唱え、アメリカの仲裁は不調に終わり、ポンペオ国務長官はその足でカタールに向かい、タリバンと会見し、米駐留軍の撤退方針(2021年までに)で合意した。ガニ政権を見限り、支援金は削減された。

 2020年 米・タリバン間で和平合意が成立し、2021年7月米軍は撤退を開始し、8月15日、ガニ大統領が4台の車に現金を積み込んで空港に向かい、逃亡し、アフガニスタン・イスラム共和国は消滅した。タリバンは政権を掌握し、8月19日にアフガニスタン・イスラム首長国の再建を宣言した。

【4】2001年以降のタリバン
 1996年にタリバンによるアフガニスタン・イスラム首長国が発足し、2001年に打倒されたが、その後もタリバンは地方で生き続けた。<欧米の有志連合+アフガニスタン政府>による人権侵害や民間人の犠牲、汚職にたいする民衆の怒り、組織犯罪や麻薬密輸に係わる地方当局者にたいする不満から市民の支持を獲得した。

 西欧ではタリバンを悪役に仕立て上げるために、「(タリバンに)敵対するものは問答無用で虐殺する」などの言説を流布しているが、タリバン結成当時から、戦闘は最終手段であり、出来る限り交渉による解決を図ってきた。

 高橋博史は「タリバーンの戦闘方法は粘り強く投降を呼びかけ、やむを得ざる場合に攻撃」「1970年代のアフガニスタンには賄賂などなかった。賄賂や汚職が増加したのは2002年ころから」「タリバンが民衆の支持を得る最大の理由は、彼らは腐敗していないことにある」などと書いている。

 中村哲(医師)は「北部同盟(注2)が…自由や民主主義というのは、普通のアフガン市民から見るとちゃんちゃらおかしい」「各地域の長老会が話し合ったうえでタリバンを受け入れた。人々を力で抑えられるほどタリバンは強くありません」「(カブール)市民は北部同盟は受け入れないでしょう。市民は武器輸送などでタリバンに協力しています」「われわれの活動については、タリバンは圧力を加えるどころか、むしろ守ってくれる。例えば井戸を掘る際、現地で意図が通じない人がいると、タリバンが間に入って安全を確保してくれているんです」と書いている(「タリバンの恐怖政治は嘘、真の支援を」2001年『日経ビジネス』)。

 圧倒的に劣った資金力、兵力、軍備にもかかわらず、世界最強の米軍の過酷な掃討作戦、匪賊・夜盗あがりの腐敗した政府による残虐な弾圧と切り崩し工作があったにもかかわらず、タリバンが戦い続ける志気を維持できたのはなぜか。デオバンド学派の共同体意識と理想があり、加えてパキスタンやイランの援助があったからである。

【5】諸外国の政治的意図
 2011年の段階で、すでに国土の70%はタリバンの「影の政府」によって支配され、政府とタリバンによる二重支配状態だった。このような状況のなかで、同年オバマ大統領はアメリカ外交の優先順序を中東、中央アジアから東アジアへと変更し、アフガニスタンから米軍を暫時撤退させる方針を発表し、カタールにタリバンの公式代表部の開設を許可した。

 2020年2月、米・タリバン間で和平合意が成立し、2021年3月、米ロ中パキスタンによるアフガン和平会議が開かれた。中国は親インドのガニ政権を見捨て、タリバンを一帯一路構想実現のためのパートナーに選んだ。中・パ同盟にタリバン政権を加え、日米豪印軍事同盟(クアッド)に対抗する意図がある。

【6】2021年8・15以降のアフガニスタン
 アメリカのアフガニスタン侵攻は20年に及び、アメリカ史上最も長い戦争となり、1兆ドルとも3兆ドルともいわれる莫大な戦費をかけながら、タリバンを打倒できなかった。1975年ベトナム戦争におけるサイゴン陥落の悪夢の再現であった。

 タリバンにとって、アメリカとNATO同盟国は最初から最後まで侵略者であり占領者であり、欧米諸国の支援で成立したアフガニスタン・イスラーム共和国は、傀儡政権として、国民間の格差、地方農村の貧困、都市と農村の格差のいずれも解消しなかった。

 アメリカ軍が撤退に入った2021年5月あたりから、タリバンは次々に地方を制圧したが、大きな戦闘は起こらなかった。政府軍兵士も、反タリバンの民兵も、貧しい農村の若者が中心であり、腐敗し、不正蓄財する政権との一体感はなく、タリバンとの戦闘をネグレクトしたからである。

<タリバンの主張>
 欧米や日本のメディアは、「タリバンの魔の手」から逃れてきた人々を歓迎し、「可哀そうなアフガン市民を救え」というキャンペーンを展開した。欧米日のメディアは自分たちの政府がやってきたことを「侵略」であるとも「占領」であるとも認識できず、その視点は根本的に間違っている。

 メディアによるタリバンへの批判(評価)として、①民主主義の否定、②女性の人権の否定が挙げられるが、タリバンは次のように主張する。

 ①民主主義はアッラーの主権を否定し、多数決の形で地上の至上権を人間に帰属させる。多数派が法を制定し、合法と禁止を定める権限を持ち、多数決で支配者を選ぶ。したがって、民主主義はイスラームの法体系=聖法シャリーアを否定する。イスラームでは主権はアッラー(神)の手にあり、人間の手にはないから、民主主義と共存の余地はない。民主主義は人間よりうえの主権を認めず、特権的多数派の見解から生じた絶対的権力である。他人の自由を侵さぬ限り、自分の欲するところをおこなう自由があり、いかなる聖法も宗教もこの自由を侵すことができない。

 ②ムスリム女性は、真のイスラームが両性に課した聖法の義務において完全に平等である。ジェンダーフリーではない。女性の地位とは、尊敬される母、大切な姉妹、気高い娘、貞淑な妻であり、いずれも尊敬される。アフガン女性こそ、侵略者に屈辱を味あわせた「戦士を生育した」存在。タリバンによるイスラム首長国が樹立されれば、西洋的な世俗主義から生まれた教育理念や内容は排除される。

<理解し、ともにたたかう>
 イスラームの法体系は6世紀に形成されたものであり、現代的社会感覚からすれば、とても容認できない内容を抱えている。しかし、侵略と略奪の意図を隠して、資本主義国家(マスメディア)が「民主主義」だの、「ジェンダー平等」だのと能書きをたれても、空疎に聞こえるではないか。宗教批判は外的におこなわれるべきものではなく、内的に宗教を必要としない社会を生み出すことによってしか完結しない。

 たとえば、「戦士を生育した女性」が尊敬されることにジェンダーフリーを対置したところで、侵略の軍隊と戦うアフガニスタンの人民にとっては、屁の突っ張りにもならないだろう。その社会のなかからマララさんのような女性が生まれてくることによって、イスラーム法と現代の矛盾が明らかになり、変革のチャンスを受け取るだろう。

 マララさんのノーベル平和賞受賞を契機に、アドナン・ラシードさん(タリバン幹部)は「あなたは不公平な国際機関のステージで正義と平等を求めた」「あなたに、郷里に戻ってイスラムと地元の文化を学び、近くの女性メドルサ(神学校)に入り、コーランを学び、イスラムと同胞の苦しみのためにペンを持ち、少数のエリートが新世界秩序の名の下に世界中を奴隷化しようとしていくことを糾弾してほしい」という手紙を送ったように。

 欧米の占領者による民主主義やジェンダー平等の「移植」は、その国の人々を外的に分裂させ、占領支配を容易にすることはあっても、内的な形成はむしろ阻まれるのではないだろうか。日本でも、明治以来、民主主義とジェンダーフリーを求めて、数えればキリのない人々が、必死にたたかい、現段階にたどり着いているように、アフガニスタンでもその道程が始まるのではないだろうか。


<用語注>
注1:タリバン=「学生たち」または「求道者」。アフガニスタンで活動するイスラム教スンナ派(多数派)であるデオバンド学派のイスラム主義組織
注2:北部同盟=アフガニスタン救国・民族イスラム統一戦線―反タリバン
注3:ムジャヒディン=ジハード(聖戦)を遂行する者

<アフガニスタン年表>
5万年前~アフガニスタンに人類→9000年前―定住生活が始まり
     →紀元前3千年紀のインダス文明、オクサス文明、ヘルマンド文明へ
1834年 アフガニスタン首長国
1838~42年 第1次アフガン戦争(イギリス軍が大敗して撤退)
1878~81年 第2次アフガン戦争(イギリスに外交権を委ねる条件で撤退)
1879年 アフガニスタンで対英反乱→英軍カブールを占領→1880年植民地支配
1919年 第3次アフガン戦争→イギリスから独立
1926年 アフガニスタン王国
1928年 国王の改革計画に反対する反乱→翌年退位
1973年 クーデター→王政廃止→アフガニスタン共和国(共和制)
1978年 クーデター→アフガニスタン民主共和国(社会主義政権)樹立(アミン)―イスラム主義の武装蜂起
1979年 ソ連のアフガニスタン侵攻→イスラム主義の武装抵抗(1984年米国の武器援助法)
1987年 アフガニスタン共和国に改称(ナジブラ政権)
1989年 ソ連―アフガニスタンから撤退(1991年ソ連解体)
1992年 ナジブラ政権崩壊→アフガニスタン・イスラム国が発足
1994年 タリバン結成(ムッラー・ムハンマド・オマル)
1996年 タリバン―アフガニスタン・イスラム首長国成立(日本は承認せず)
     北部同盟(注2)結成(アフガニスタン・イスラム国残党)
2001年 9・11後―アメリカなど+北部同盟→アフガニスタン空爆→北部同盟カブール制圧→タリバン政権崩壊
    →12月カルザイ暫定政権発足
2004年 アフガニスタン・イスラム共和国(カルザイ政権)成立。大統領制の憲法。
2014年 ガニ政権
2020年 米・タリバン和平合意→米軍撤退方針
2021年 7月米軍撤退開始→8・15ガニ政権崩壊
    →タリバン政権掌握→8月19日にアフガニスタン・イスラム首長国の建国宣言
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 20211128 志賀原発で、たま... | トップ | 20211209 自民党改憲攻撃の整理 »
最新の画像もっと見る

読書」カテゴリの最新記事