アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

19750626 叱咤! 50年後の君を

2024年09月12日 | 日本軍性暴力関係原資料
19750626 叱咤! 50年後の君を

 ぶ厚い、そして二重三重の獄壁をとおって、アジア否全世界の激動が、ひしひしと伝わってくる。南ベトナム、カンボジアの武装解放勢力の自信に満ちた前進が手にとるように見える。

 南朝鮮には、朴大統領による大弾圧が吹きあれている。6月28日には、韓国国民の首をしめあげる二つの重要法案が上程されようとしている。ひとつは「国民防衛基本法案」であり、全国民の政治活動が禁止されようとしている。もう一つは「社会保安処分法」であり、反政府活動家の予防拘束、住居移転の事前届け出義務が強制されている。前者はまさに戦前日帝の総動員法を、そして後者は治安維持法をそっくりそのまま適用したものであろう。
 さらに、政令として、「学徒護国団」が指令されている。すでに6月20日、釜山市で、9800人の高校生による結団式がおこなわれたという。南朝鮮における体制的危機はいや増しに増している。朴はヒステリックに反共を叫ぶ。日帝は死活をかけて、朴に応えんとしている。朴は「南朝鮮が赤化したら、日本は危機を迎える」と言って、日帝の尻をたたいている。日帝は、朴に言われるまでもなく、朝鮮危機を国内問題としてとらえ、その死重をかけて攻撃に出ている。すでにマスコミは朝鮮危機=日帝の危機という図式を口角泡を飛ばすがごとくに、叫びたてている。

 今こそ問われている! 日本プロレタリアートの責務が。戦後史を画する決定的時点において、日本プロレタリアートの真価が問われている。排外主義をもって応えるのか、内乱をもって応えるのか。今こそ革命派の指導力が問われている。金芝河氏の3・1声明(注1)に決死的に応えるのか。割腹自殺に追いやられ死の良心書(注2)を残していった金相真君に真に応えるのか。

(注1)56年前の3月1日は韓民族と日本国民が同じ厳しい痛みと深い人間的自覚をもって記憶すべき日だ。しかし現在、日本民族は36年間の非人間的韓国侵略よりも、もっと狡猾で野獣的な方法で、わが民族の生存を脅かし、人権を蹂躙している。…民主回復国民会議を中心とする民主・民族・民生運動に対する日本民衆の共同闘争のために、韓日民衆の反独裁共同戦線を提案する。(画像はネット上から拝借)

 

(注2)これ以上、我々はどうして我慢できようか。これ以上我々は彼らに何を望めるだろうか? 暗闇が濃くたちこめた、この社会の陰鬱な空気をかき分けて、死の伝令便がゆっくりと近づいてくる。…我々の主張が決して間違っていないはずなのに、我々の主張が決して非良心的なものではないのに、どうしてこれ以上自尊心を踏みにじられ、不名誉な生を生き続けられようか。我々を代弁してくれた同志たちは洗面所の床の上でうめき、罪のない民衆は刑場の露と消えていく。

 このぶ厚い獄壁を打ち破り、諸君との合流を何としても成しとげたい。今や獄中でのんびりしている時ではない。私たちはたたかわねばならない。たたかうべき課題は目白押しにならんでいる。8月三木訪米阻止! 11月天皇訪米阻止! まさに決戦としてたたかいぬかねばならない。

 6月25日、第1回公判闘争を敢然とたたかいぬいた。長く引き裂かれた同志との合流。共に不屈の精神で、40日をたたかいぬいてきた。この自信は、これから予想される何百日もつづく不当な勾留に耐えぬく力を与えた。力強い笑いが両者の顔にあふれた。
 バスは裁判所にむかう。2人の押送に12人の護衛官。すさまじい体制である。車は市街地を避けて、卯辰山にむかい、大きくまわって裁判所に到着した。すでに刑務所から派遣されていた看守が数名歩哨に立っている。
 3時半、裁判が始まった。法廷にも数名の獄吏が入りこんでいる。私の両隣にも、同志の両隣にも、ビシッとついている。
 田中弁護士「公判上不都合なことがおこりますから、被告人の間にいる獄吏を移動してほしい。」
 獄吏「これまでの裁判では、このようにしてきており、全国的にもそうであり、問題がないと思います。」
 被告「裁判長! この件について、弁護人とのスムーズな秘密交通権からいっても、ぜひとも弁護人の言ったように願います。このままですと、獄吏の存在が被告人に威圧を与えるおそれもあります。」
 裁判長「今の形でも、問題はないと思われますが、まあ、弁護人の言われたようにしてください。」
 二人の被告人は肩を寄せて裁判に臨む。人定尋問、起訴状朗読がおこなわれる。
 田中弁護人「昨日までに検察官の準備すべき裁判上の書類ができておりません。よって被告人との十分な打合せができませんでした。それ故、ここで若干の打合せの時間を下さい。」
 私たち3人は頭を寄せ合って、会議を始める。方針が定まり、定位置に戻る。
 田中弁護人「ここで起訴状の内容について、5点の釈明を求めます。……」
 ここで検察官が立ち上がるが、田中弁護人はこれを制止して、「今後の公判運営上、文書で提出してください」。検察官は同意する。
 次回公判期日が8月12日午後1時に決まり、本格的な格闘に入る。私は意欲満々。この40日のうちで、今日ほど晴ればれとしたことはなかった。47日後の第2回公判まで、必死で頑張りぬく決意を固めている。

 昨日の新聞を見て、ますます怒りが燃えさかる。かのファシストを許してなるものか。彼らはヌケヌケと「最小限の攻撃」と言っている。私の腹の中に、ぐつぐつと怒りが吹き出てくる。そして獄舎にいる限り、それは貯金されていく。拘留が長ければ長いだけ、解き放たれたときの超人的な力を、今、腹の中で感じる。
 革命への志向は、弾圧を主食にして、弾圧を食い物にして生きのびるであろう。ムギメシを食って、怒りの魂と化していくように。
 共にたたかわん。
1975年6月26日 金沢市田上より





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