アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

19751021 連帯 50年後の君へ

2024年09月10日 | 落とし文
19751021 連帯 50年後の君へ

 昨日(1975/10/20)、朝鮮人の「集団密航」についての記事を見た。私はとても怒りを抑えておくことはできなかった。朝鮮人民の生活の危機につけ込み、多数の朝鮮人男女を「密航」せしめ、よって、男は工事現場のタコベヤへ、そして女は売春させるという。絶対に許すことのできない、日帝の朝鮮人民への卑劣な攻撃である。

 戦前には、日帝は不当な「土地調査」なるものをおこない、朝鮮農民から、あらかた土地を奪った。又、朝鮮人商人の無知につけ込んで、朝鮮人商人を破産させ、多くを路頭に迷わせた。又、日帝の資本侵略は朝鮮の民族資本を破壊せしめ、多くの労働者を路頭に放り出した。
 放り出された朝鮮人民は満州へ、そして日本へと、仕事を求めて放浪を余儀なくされた。そして日本からカラフトへと、最低の生活を強いられながら、流れて行かねばならなかった。
 戦争の接近は、そして日本軍のアジア各国への派兵は、日本国内の労働力の絶対的不足をもたらした。その穴は、朝鮮人労働者によって埋められていった。彼らは常に、最劣悪な労働条件の下で、労働させられ、その上賃金は日本人よりもはるかに低かった。更に戦況の悪化は、より一層の朝鮮人労働者を要求し、朝鮮全土で、「神隠し」にあったかのように、朝鮮人は捕らえられ、日本に強制的に送り込まれた。朝鮮の各市町村では、「本土」への徴用のために割り当てが決められ、続々と朝鮮人青年は「本土」へ送られていった。
 又、朝鮮人女性は、日本軍兵士の性欲を満たすために、日本軍のいるあらゆる前線に送られていった。そこで朝鮮人女性は、ぼろ布のごとく扱われ、そして捨てられていった。
 このように、日本の歴史は朝鮮人民の血で描かれた負の歴史である。そしてこの負の歴史を、今再び、全く同じ過程をたどりながら、繰り返そうとしているのである。朝鮮人民に苦悩と恥辱を与えんとしているのである。それが暴力団によっておこなわれているからといって、わが日本プロレタリアートは黙って見過ごすことは許されない。

 日帝の朝鮮侵略は、今や、韓国の政治・経済の全面において、覆いつくさんとしている。日韓閣僚会議、三木・フォード会談共同声明などによって、端的に示されている。これまでの制約を取り払い、極めてロコツなやり方で進んでいる。
 日帝の資本進出は、今や、朝鮮人民の生活をことごとく破壊してきている。朝鮮人民にとって、自国で生きること自身が閉ざされている状態である。自国での生活が保障されているときに、誰がムチャな冒険をなそうか。朝鮮人民にとって、もはや、生きる道は自国に見いだせなくなっているのである。だからこそ、国を捨て、親しい人を捨て、言葉を捨て、そして死と直面しながら、玄界灘を渡る決心をするのである。あるいはエンジンもない、小さな舟に隠れて、数日間飲まず食わずで、しかも必ずしも「本土」に行き着くとは限らないのである。99%が死に傾きつつ、あとの1%に自己の生命を賭けねばならないのである。
 このような状況にたたき込み、そして、そこからの脱出者に暴力団が牙をむきだし、挑みかかるのである。全く卑劣なやり口である。朝鮮人民の苦闘を見て、救いの手を差しのべるかのように、手を出し、がっちりとつかみ、そして地獄につれこむのである。男はタコベヤへ、女は売春宿へ。

 断じて許してはならない。日本プロレタリアートの自尊に賭けて、これら朝鮮人民にかけられた、日帝の攻撃を断固としてはね返さねばならない。にもかかわらず、私は暗い気持ちである。
 スペイン・フランコが革命的人民への処刑攻撃を仕掛けたとき、全ヨーロッパの民衆は一斉に立ち上がったではないか。あるいはストライキで、あるいはデモで、あるいはスペイン大使館の焼き討ちによって、断固として、スペイン人民のたたかいを鼓舞激励したではないか。
 だが、私はここに、暗い気持ちを表明しなければならない。朝鮮人民の不屈のたたかいとそれへの朴正熙の大弾圧、その頂点としての4・9処刑攻撃。この大攻撃にたいして、日本人民のたたかいは、いかほどであったか。日本プロレタリアート人民は、少なくともこの点について、とことん自己批判しなければならない。この否定的現実をとことん見据えねばならない。
 わが革命派は、確かに果敢にたたかいぬいている。だが、そこに安住していてはならない。安住した途端に、それは自己満足的なマスターベイション、アリバイ闘争に堕してしまうだろう。わが革命派は、「やる」と言ってきたことは、確実にやってきた。「10・8羽田闘争」がそうであり、「二つの11月決戦」がそうである。

 だからこそ、だからこそ、4・9を絶対に忘れることなく、真に「血債」とは何かを、常に問いつめつつ、たたかわねばならない。金芝河氏は、今、「人に会うことも、手紙を受けとることも、文字を書くことも禁じられており、更にひどいことは、活字になったものは、バイブルさえも、読むことはできない。運動も制限されており、私が密閉されている暗闇の監房の広さは1・27坪である」という状況のなかでたたかいぬいている。
 私をとりまく状況は、金芝河氏の状況よりも、すべてにおいてまさっている。であるからこそ、私は、もっともっと厳しく、自らにたたかいを課さねばならないと思っている。獄中で、何が何でもやり抜くべく決意していることを、とことんやり抜く気持でいる。
1975年10月21日 金沢市田上より

 今、「良心宣言」を手にしている。すでに1カ月以上前、「週刊現代」の切り抜きで読んでいたが、ここで、再び読んでみると、ますます彼の重さがぼくに肉迫してくる。


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