アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

【資料】20210203『女工哀史』(細井和喜蔵)と「不二越強制連行」の比較

2021年04月17日 | 戦後補償(特に不二越強制連行)
【資料】20210203『女工哀史』(細井和喜蔵)と「不二越強制連行」の比較  最近、50年ぶりぐらいだろうか、細井和喜蔵の『女工哀史』(1925年)を読み直した。不二越強制連行はそのわずか20年後の1944年であり、和喜蔵の時代と比較しても、募集、通信規制、多発する病気・けが、長時間労働、給料の簒奪、不当労働行 . . . 本文を読む
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20210416 金沢市は独占禁止法違反業者と手を組むのか!

2021年04月16日 | 金沢市ガス・発電事業譲渡問題
20210416 金沢市は独占禁止法違反業者と手を組むのか!  4月13日、東邦ガスが独禁法違反で公正取引委員会(公取委)の立ち入り検査を受けました。独禁法について少し調べました。  独禁法違反(カルテル)には「警告」、「排除措置命令」、「課徴金納付命令」、「刑事罰」が課されます。今回の東邦ガスの場合はガス・電気料金を高止まり(料金を引き下げないこと)させるためのカルテルであり、市民生活に直接 . . . 本文を読む
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【資料】2003.8「8・2富山大空襲と朝鮮女子勤労挺身隊」

2021年04月13日 | 戦後補償(特に不二越強制連行)
【資料】「8・2富山大空襲と朝鮮女子勤労挺身隊」 (2003年8月26日 S)  朝鮮女子勤労挺身隊(合計1090人)が不二越に強制連行されたのは、1944年5月、6月、7月そして翌1945年3月です(朝鮮男子報国隊の540人は1944年秋)。舟橋村の『昭和十七年以降 防空日誌』(1944~45年)によれば、警戒警報や空襲警報が発令されている真っ只中のことです。 富山大空襲 . . . 本文を読む
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【資料】2004年9月「不二越勤労動員の記録」

2021年04月10日 | 戦後補償(特に不二越強制連行)
【資料】2004年9月「不二越勤労動員の記録」  朝鮮人女子勤労動員の実態解明のために、日本人女学生の勤労動員について、提訴前後から富山県立図書館で調査した(S)。 目次 ①高島 富山県立砺波高等女学校(1944年、3年生、15歳) ②塚原 富山市立富山高等女学校(1944年、3年生、14歳) ③鈴木 富山県立高岡高等女学校(1945年、3年生) ④中川 富山県立砺波高等女学校(1945年、教員 . . . 本文を読む
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【資料】2006年5月「第2次不二越強制連行訴訟の課題」

2021年04月09日 | 戦後補償(特に不二越強制連行)
【資料】2006年5月「第2次不二越訴訟の課題」           ~朝鮮女子勤労挺身隊について~ (1)1630人の強制連行  不二越への強制連行は1944年から始まった。不二越の社史には朝鮮から「女子勤労挺身隊1090人、男子報国隊540人、合計1630人」が強制連行されたと記載されている。侵略戦争を遂行する国家と、利潤を追求する不二越資本が表裏一体となって、強制連行・強制労働を強行した . . . 本文を読む
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【資料】2003.3「戦犯企業不二越論」

2021年04月08日 | 戦後補償(特に不二越強制連行)
【資料】2003.3「戦犯企業不二越論」  第2次不二越訴訟に取り組むにあたって、不二越とはどんな会社なのかについて、『不二越二五年史』『不二越五十年史』などで調べた。 第1章 不二越の歴史 <1> 創業まで  1889年 創業者井村荒喜長崎県で生まれる  1910年 徴兵検査不合格、上海へ渡る  1911年 九州日の出新聞社で記者見習  1915年 帝国製糖(台湾)に就職  1919年 富山 . . . 本文を読む
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【資料】2001.8.20「第2次不二越訴訟準備のために」

2021年04月06日 | 戦後補償(特に不二越強制連行)
【資料】2001.8.20「第2次不二越訴訟準備のために」 (1)不二越闘争とは  不二越訴訟は日帝の植民地支配と戦争責任を追及する江原道訴訟(1991年提訴、2001年9月25日結審、東京)を出発点としている。日帝の戦争責任を追及する江原道裁判から、不二越に強制連行・強制労働させられた3人の原告を独立させて、不二越の企業責任を追及する裁判として始まった。「強制連行・強制労働」「未払い賃金」「労 . . . 本文を読む
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20210405【資料】第2次不二越強制連行訴訟資料リスト

2021年04月05日 | 戦後補償(特に不二越強制連行)
 第2次不二越強制連行訴訟資料リスト  第2次不二越強制連行訴訟の支援に係わり、そして係わり終えてから、ずいぶんの年月が過ぎました。数年前、押し入れの原資料のほとんどは東京の在日韓人歴史資料館に預かっていただいて、散逸を防げましたが、デジタル化された資料はそのままパソコンのなかで、眠っています。  とりあえず、私が把握している資料のリストを一覧表にしたので、添付します。その後、徐々に、当時私が書 . . . 本文を読む
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