『Unknown (ネットの声)2017-02-10 22:44:38
百歩譲って、犠牲者名簿が作られなかったのは、中国はあまりにいい加減でだらしないから――国も軍も党もその労を惜しんだのだといたしましょう――そうなると、その場合、ならば何を基準として30万人という数字を公言しているのか、全くの意味不明となりますが――繰り返しになりますが、犠牲者30万人の場合、南京の元々の人口は20万人程度ですが、その周辺を含めると合計60万人ほど民間人がいたようですし、もちろん更には軍人もいたわけです(「あった」派の人にはたとえば上海から10万人の部隊が合流したとして、結局南京でどのくらいの人が戦死したのか? また、南京大虐殺はそもそも「軍人ではなく民間人の被害」こそが問題の焦点だったのでは? という疑問にも答えていただきたいものですが)。』
『Unknown (ネットの声)2017-02-10 23:05:50さて、これだけ――当時その近くにいた人の生き残りだけでも30万ほどの人がいました。中国全土の遺族の数は百万人単位でしょう。彼らはなぜ声をあげなかったのか? 戦後5年とか10年といった混乱期には慰霊祭開催がができなかったということもあるでしょう。では、15年後は? 30年後は? 45年後は』
『反論 (文科系)2017-02-11 08:18:04
① 「犠牲者名簿」は、「国も軍も党もその労を惜しんだ」のではありません、出来なかったのです。国として一般的な全国的戸籍もほぼなく、「職もろくにない中国では、兵士にはかき集めの浮浪者も多い」とは、日本軍兵士事前教育に使った教科書にも書いてあった通り。
② 数字根拠は、こういうもの。
先ず上海から長江上流の首都・南京に逃げた敗走兵と、南京城近隣からの避難民を含むもの。なお、上海中国兵は延べ70万人投入、南京包囲戦の直前3か月続いた大激戦でした。
③ 中国兵士が敗走するとき民間人に化けた便衣隊は超有名で、ここから民間人男子も多く殺され、「捕虜」になりました。
④ 「捕虜」のことですが、日本軍が完全包囲した南京城壁(城塞都市です)は高さ18メートルで、一方は揚子江沿いです。完全包囲城壁の限られた出入り口からの中国軍撤退・突破作戦を、ある歴史学書は、こう描いています。
『唐生智(将軍)は、撤退の時期と方法を誤り、12日夜から13日の朝にかけて、約15万人の中国軍は日本の包囲網を破って退却を試みた。しかし、たとえば第58師で長江左岸に逃れられたものは3分の1に過ぎず、第87師は、約300名が長江の激流を渡河できただけであったといわれる』(「満州事変から日中戦争へ」加藤陽子・東京大学大学院人文社会系教授著、岩波新書)
⑤ こういう状況では「捕虜」は無数でしょう。極端に言えば、便衣隊らしき人も含んで死者以外の男は全部「捕虜」にした。そして、以降終戦まで占領下にあった南京の「捕虜」は、収容所に連れていくように見せかけて、密かに全部殺すこともできたはずだ。満州事変から更に南下してきた上海・南京包囲戦以降の中国南下作戦を考えれば、「捕虜」を生かして放つはずがありません。現に集団白骨現場が無数に発見されています』
⑥ なお、男以外でも、レイプ殺害はあったと証明されているし、ちょっとでも抵抗、抗議を示した婦女子を殺害していったことも日中人以外の外国人が証言しているように、有名な話になっています。
結論
こういう状況すべてから南京虐殺死者数検証を目的とした日米学者会議で、日本側学者でさえがこう認めざるを得なかったということなのです。
『中国人死者数は2万~20万人』
百歩譲って、犠牲者名簿が作られなかったのは、中国はあまりにいい加減でだらしないから――国も軍も党もその労を惜しんだのだといたしましょう――そうなると、その場合、ならば何を基準として30万人という数字を公言しているのか、全くの意味不明となりますが――繰り返しになりますが、犠牲者30万人の場合、南京の元々の人口は20万人程度ですが、その周辺を含めると合計60万人ほど民間人がいたようですし、もちろん更には軍人もいたわけです(「あった」派の人にはたとえば上海から10万人の部隊が合流したとして、結局南京でどのくらいの人が戦死したのか? また、南京大虐殺はそもそも「軍人ではなく民間人の被害」こそが問題の焦点だったのでは? という疑問にも答えていただきたいものですが)。』
『Unknown (ネットの声)2017-02-10 23:05:50さて、これだけ――当時その近くにいた人の生き残りだけでも30万ほどの人がいました。中国全土の遺族の数は百万人単位でしょう。彼らはなぜ声をあげなかったのか? 戦後5年とか10年といった混乱期には慰霊祭開催がができなかったということもあるでしょう。では、15年後は? 30年後は? 45年後は』
『反論 (文科系)2017-02-11 08:18:04
① 「犠牲者名簿」は、「国も軍も党もその労を惜しんだ」のではありません、出来なかったのです。国として一般的な全国的戸籍もほぼなく、「職もろくにない中国では、兵士にはかき集めの浮浪者も多い」とは、日本軍兵士事前教育に使った教科書にも書いてあった通り。
② 数字根拠は、こういうもの。
先ず上海から長江上流の首都・南京に逃げた敗走兵と、南京城近隣からの避難民を含むもの。なお、上海中国兵は延べ70万人投入、南京包囲戦の直前3か月続いた大激戦でした。
③ 中国兵士が敗走するとき民間人に化けた便衣隊は超有名で、ここから民間人男子も多く殺され、「捕虜」になりました。
④ 「捕虜」のことですが、日本軍が完全包囲した南京城壁(城塞都市です)は高さ18メートルで、一方は揚子江沿いです。完全包囲城壁の限られた出入り口からの中国軍撤退・突破作戦を、ある歴史学書は、こう描いています。
『唐生智(将軍)は、撤退の時期と方法を誤り、12日夜から13日の朝にかけて、約15万人の中国軍は日本の包囲網を破って退却を試みた。しかし、たとえば第58師で長江左岸に逃れられたものは3分の1に過ぎず、第87師は、約300名が長江の激流を渡河できただけであったといわれる』(「満州事変から日中戦争へ」加藤陽子・東京大学大学院人文社会系教授著、岩波新書)
⑤ こういう状況では「捕虜」は無数でしょう。極端に言えば、便衣隊らしき人も含んで死者以外の男は全部「捕虜」にした。そして、以降終戦まで占領下にあった南京の「捕虜」は、収容所に連れていくように見せかけて、密かに全部殺すこともできたはずだ。満州事変から更に南下してきた上海・南京包囲戦以降の中国南下作戦を考えれば、「捕虜」を生かして放つはずがありません。現に集団白骨現場が無数に発見されています』
⑥ なお、男以外でも、レイプ殺害はあったと証明されているし、ちょっとでも抵抗、抗議を示した婦女子を殺害していったことも日中人以外の外国人が証言しているように、有名な話になっています。
結論
こういう状況すべてから南京虐殺死者数検証を目的とした日米学者会議で、日本側学者でさえがこう認めざるを得なかったということなのです。
『中国人死者数は2万~20万人』
この事件が起こったのは1937年12月~翌2月。そこから、7年半は日本の占領地。さらには国共内戦というごたごたで、証拠が消え、もしくは調べられなかったということなのでしょう。日本占領時には、満州事変への国際非難もあって、戦意高揚策からも南京事件は徹底的に隠されていたことですし・・・。
あるのかしら?
あったという話は欧米からは聞きますが。
ロシアや北朝鮮はどうかな?
世界史を知らず、諸外国の知識もなく、ただ日本近代史の改竄を広める右本だけの愛読者なんて。彼らの最大の誤り、欠陥は、以下の二つを考えた事がないことにあります。
① まず、僕が書いた「第二次大戦双方の、特に日独の黒論」。
② 次いで、15年戦争の見地が無くって、近代日本が戦争犯罪確信犯国家になってしまった満州事変を考えてみたことがないこと。
③ 以上二つを、太平洋戦争敗戦論にはけっして結びつけないこと。
以上です。
二次大戦そもそもの「白黒論」①と、満州事変とを以降の日本史にしっかりと結びつけて考えれば、日本は残念ながら悪人にならざるを得ないはずです。
ユダヤ殺害も、『国民が居ない臣民の天皇主権国家が目指した「大東亜共栄圏」』も、『国連を脱退せざるを得なくなった満州事変』も語らない日本近代史なんて、お話しにならんでしょう。「当時の魂」が抜けたような近代日本史になるはずです。