安倍首相がこう言ったそうだ。「国のために亡くなった人に参拝するのは当然!」。馬鹿も休み休み言えと言いたい。以下の反論論拠が新聞などにも案外見当たらなかったので、改めて力説したい。
戦前と戦後、我が国はお前には同じ国かも知れないが、普通の人には全く違う国であって、国とさえ言えるかどうかだ。国民主権か、「万世一系の天皇これを統治す」(大日本帝国憲法第1条)か、これは現世界の普通の人には全く異なった「国」であるはずだ。普通の人というのは、政治には民主主義が最も大切と考える人という意味だ。そう考える人にとっては、戦前の日本国家というのは国民のものではなかったのだから、今普通に言う国と見られるかさえ怪しいのである。大日本帝国憲法には国民などという言葉はなく「臣民」とあり、天皇のために我が命は赤紙よりも軽いと処するべしと、そんな教育まで徹底された国だった。天皇を良く言わない臣民は、小林多喜二のように殺されもした。不敬罪という、そうして良いという法律まで存在したのである。
そんな国を今と同列に扱う安倍らの頭脳というのは、国民主権などどうでも良いと「感じている」としか、僕にはどうにも考えられないのである。国民主権国家と天皇主権国家とを区別しないということはそういうことなのだとしか思えないのである。
大日本帝国は、第一に我が祖父母、曾祖父母、父母のものではなかったどころか、彼らは国を所有する天皇の道具にすぎなかったと言える。彼等は、到底、主権者・自由人ではなかったのである。南洋で助けもなく、飢え死にさせられた多くの兵士たち。天皇と本土を守る時間稼ぎの犠牲として供されて、見捨てられた沖縄! そんな国のために死ぬのが運命とされた若者達は、国民のために死んだのではなくって、「天皇万歳」と言わされて犬死にさせられたと言えるのである。この犬死にをまともに拝んだら旧体制を賛美することになる。犬死には犬死にと扱ってこそ、日本民主国家充実に寄与できるというものだろう。
こんな当たり前のことも普通に理解されていない今の日本保守政治家の世界は、ちょっとどうかしている。どうかしているもう一つの証拠もある。天皇元首化を憲法に明記しようとまで言い出した。この感覚は、心ある国民には理解できないものであるばかりか、アジアとトラブルばかりと、これはもう必然。韓国など、他のアジア各国には(当時の天皇の)国と言えば、何の有り難みも無いどころか、むしろ憎しみの対象でしかない。アジアに根強く残っている「血縁」の感じ方、考え方ではさらに、現天皇でさえよくは思われないことだろう。つまり、自民党の政治家達はそれほどの時代錯誤感覚だから相手をも見えないということだろう。
対アジア諸国家友好関係のこの先が思いやられる。こんな国家観を押しつければ、これが悪化する責任は全て日本国家にあると言いいた。民主主義国家観からすれば、当然の理屈であろう。
戦前と戦後、我が国はお前には同じ国かも知れないが、普通の人には全く違う国であって、国とさえ言えるかどうかだ。国民主権か、「万世一系の天皇これを統治す」(大日本帝国憲法第1条)か、これは現世界の普通の人には全く異なった「国」であるはずだ。普通の人というのは、政治には民主主義が最も大切と考える人という意味だ。そう考える人にとっては、戦前の日本国家というのは国民のものではなかったのだから、今普通に言う国と見られるかさえ怪しいのである。大日本帝国憲法には国民などという言葉はなく「臣民」とあり、天皇のために我が命は赤紙よりも軽いと処するべしと、そんな教育まで徹底された国だった。天皇を良く言わない臣民は、小林多喜二のように殺されもした。不敬罪という、そうして良いという法律まで存在したのである。
そんな国を今と同列に扱う安倍らの頭脳というのは、国民主権などどうでも良いと「感じている」としか、僕にはどうにも考えられないのである。国民主権国家と天皇主権国家とを区別しないということはそういうことなのだとしか思えないのである。
大日本帝国は、第一に我が祖父母、曾祖父母、父母のものではなかったどころか、彼らは国を所有する天皇の道具にすぎなかったと言える。彼等は、到底、主権者・自由人ではなかったのである。南洋で助けもなく、飢え死にさせられた多くの兵士たち。天皇と本土を守る時間稼ぎの犠牲として供されて、見捨てられた沖縄! そんな国のために死ぬのが運命とされた若者達は、国民のために死んだのではなくって、「天皇万歳」と言わされて犬死にさせられたと言えるのである。この犬死にをまともに拝んだら旧体制を賛美することになる。犬死には犬死にと扱ってこそ、日本民主国家充実に寄与できるというものだろう。
こんな当たり前のことも普通に理解されていない今の日本保守政治家の世界は、ちょっとどうかしている。どうかしているもう一つの証拠もある。天皇元首化を憲法に明記しようとまで言い出した。この感覚は、心ある国民には理解できないものであるばかりか、アジアとトラブルばかりと、これはもう必然。韓国など、他のアジア各国には(当時の天皇の)国と言えば、何の有り難みも無いどころか、むしろ憎しみの対象でしかない。アジアに根強く残っている「血縁」の感じ方、考え方ではさらに、現天皇でさえよくは思われないことだろう。つまり、自民党の政治家達はそれほどの時代錯誤感覚だから相手をも見えないということだろう。
対アジア諸国家友好関係のこの先が思いやられる。こんな国家観を押しつければ、これが悪化する責任は全て日本国家にあると言いいた。民主主義国家観からすれば、当然の理屈であろう。
この国民主権が大日本帝国憲法にはなかったのである。そこには国民という言葉すら無くって、臣民がこれに替わっていた。こういう「戦前の日本のために死んだ人々」を戦後と同じ「我が『国(民)』のために死んだ」と扱って良いかということだ。
また、今安倍内閣がやろうとしている改憲は、この戦後憲法の基本を換えるようなないようがある。地方自治は既に形骸化し、集団的自衛権是認によって平和主義も危ういし、そもそも基本的人権を制限する柱として「公益および公の秩序」が入り込んでいる。この場合の公益の「公」、公の秩序の「公」とは「他人の基本的人権を妨げてはならないから」というように基本的人権の中で考えられるものか外でしか考えられないものか。この根本問題を曖昧にして「公」を肥大化させるのは、国家というものを非常に大きなものとして神聖視するような要素を感じてならないのである。「安倍路線は国家主義」というゆえんである。こういう基本的人権や国民主権を曖昧にする考え方だからこそ、戦前も戦後も自民党にとっては一緒になるのだと、そういうことも批判したい。
ここに書いた内容「戦前と戦後の国の根本的違い」ということを、右の諸君が全く考えたことがないことがよく分かった。今までも分かっていたことだが、ここの討論でなおわかった。
ちなみに、新聞などでも何故かこの違いはほとんど問題にされていない。「参拝は当然」という政府にマスコミが反論を書く視点にも、この違いから論じるやりかたは全く欠けている。明らかに意識的に避けているのだが、どうしてなのだろう。自民党のように天皇を強調したり、天皇元首化を目指したりすれば、中韓などと上手くいくはずがないから、警告のためにも重視しなければならぬ視点のはずなのだ。まー多分、多少とも昭和天皇を貶める結果になるからだろうが、ここをはっきりさせないと国民主権と国の概念が、どうしても漠然としたものになるはずだ。つまり、安倍・石破らの国家主義志向に抵抗力が欠けることになるはずだ。
貴方はこう言われましたね。
『靖国参拝が問題となること自体、多くの日本人の心を痛めつけているんですよ』
一方、貴方が別に次のように語ったが、その時に東條らの戦犯有罪を決めたアメリカはじめ連合国がどう感じ、思うかも考えたのですか。
『「国内に戦犯はいない」のです』
こういう態度を称して、僕も浜も、コドモと言うしかないのです。自分の感じ方は大事にして、主張もするが、相手の感じ方、主張に全く鈍感だと。まるで、それでよいと開き直っているようだとさえ思えます。
次にこれについて、
『・・・・が戦争に直結しているかのような論理こそわけがわかりません。』
どんな戦争の開始でも、直前まで重要な利害対立を巡って、ギリギリの外交交渉が必ずあります。太平洋戦争の時には、近衛内閣までは対米外交交渉が先で「戦争準備がそれに次ぐ」という国家方針でした。これを41年9月頃を起点に逆転させたのが天皇(統帥部)と、東條内閣でした。
さて、上のような交渉の時に(それ以前の日常からも)、自分の主張だけしているコドモの人々は、そのままでは結局利害関係対立を大きくするだけで、最後は戦争状態のようなことしかなくなるよと、そういうことになる確率が非常に高い考え方だよと、そういうことを言いたかったのです。こういう人々は、軍備もどんどん増強していくはずですしね。時代はあたかも、世界大恐慌で失業・貧困問題などあの時と同じです。
また、こういう考えの人々は案外次のような国家観哲学も暗黙の内に持っていることが多いものだとも、僕はここで痛いほど観てきたつもりでした。社会ダーウィニズムの思想です。調べてみてください。貴方も親しいと感ずるのではないかと恐れています。
話が平行線になるのも(もっとも水と油だから当然なんだが)、それぞれの考え方をみることだけでもいいんじゃないかという考えが、わたしにはあるということ。
あくまでも個人の考えとして。
例えば、「国内に戦犯はいない」、これは多分戦犯として処刑された人々がその後名誉回復され「戦犯」という言葉の扱いは無くなったことを指してでしょう。
そして、そんな言葉の問題ではないという考え方も当然ある。海外から見ればどうなんだと。
更に進むとそもそも戦争裁判ってどうなんだという考え方もある。
勝てば100万人殺してもいいのか?とか。
まぁそういう考え方を色々見る場としての役割も掲示板にはあるよねということ。
「なに、これが新しいファッションさ」
ただね、すぐ上のあなたのご意見は、この点を見落としている。
①ここは、9条の名を打ったブログだ。今回もそうだが、右翼を名乗った人が訪れる事が多く、その場合必ず論争を挑んでくる。と言うよりも、初めから嘲笑的態度で来る人も多い。
②わざわざ訪れてそうされた場合、答えないわけにはいかない。このブログの主旨を知った上で敢えて嘲笑に訪れるのだから。そこにおかし過ぎる考え、論理があれば指摘しなければ将来の世のため人のためにもならないことだし。彼等が、こういう論理で世を洗脳しようとしていることも確かであるし。
③今回で言えば、こんなふうに。
『国民主権と天皇主権との区別も「ゼーンゼン問題だと思っていません」』
『 「国内に戦犯はいない」のです』
大体、首相の靖国参拝や、小沢一郎が沖縄の土地を買うこと(笑)が戦争に直結しているかのような論理こそわけがわかりません。
例えば、わたし。
色んな立場や考え方を見るのが目的で、特に討論しようというのが最目的ではない。
討論になるとどうしてもお前のここは違う、こっちが正しいとなり、これが1対1ならまだいいが複数になるとどさくさ紛れでヘンなのも入ってくるから(笑)。
掲示板でそれをやりだすとキリがなくなる。
どっちが正しいとか間違えてるよりは、成る程そういう考え方をするんだねというのが見える場として掲示板に来る。
勿論共感出来るか出来ないかというのはあるが、だからと言って相手に詰めていくのがいいとも思わない。それをやれば、やればやるほど誰も何も言えなくなるだろうから。
それとも、愛国心同士は対立、ケンカの関係しかないと考えている?
いやいや、多分こういうことだろう。その考えの結果など、考えたこともない。
いずれにしても、浜矩子が言うように子どもの、しかもケンカの考え、構えと言える。
①相手が何を語ってもそれには答えず、自分の主張をただぶつけ返すだけ。つまり、相手との共通点を探して、説得、理解、歩み寄りの努力を最初から放棄している考え方、態度を取ってきた人。
②ちなみに一例を上げると、これはそういう態度と言えるはずです。
『 「国内に戦犯はいない」のです』
これは、「相手国が何を語ろうが、『我が国の考え』だけで行く」と表明していることになります。個人間討論でも当然、同じ態度を取ることになりましょう。
③これは、人間らしい考え方、「人類に対立、戦争はあっても必ず和解できるものだ」というような立場、考え方を最初から放棄しているにも等しい態度と言えましょう。そうなることが、分かってもいないということでもあるのでしょうが。
④これは誰でも分かるように、ケンカになる考え方、ケンカの論理です。国と国との間では結局戦争に繋がっていく論理だ。相手を罵倒、嘲笑する事だけ専門にもなっていくはずですから。
『問題視しているのはそちらの勝手でしょう。私はゼーンゼン問題だと思っていません。』
『左翼の論理だと、ヒトラー=東條=安倍晋三=ジョン・レノンですかね?』
『もれ伝え聞くところでは小沢一郎は沖縄の土地を買ったりしているようですが……(痛いところをつきました? すみませんね笑)。』
こういう「最初から戦争覚悟のような論理」を使う人こそ、真実「話にならん」というお方だと言いたい。そういう自覚もないので、こういう態度が取れるのだとも思いますが。ここでは、名無しさんが長らくそういうお方であって、僕も「話にならん」という態度しかなくなったのでしたが。
もっとも、国民主権と天皇主権との区別も「ゼーンゼン問題だと思っていません」という方だ。これでは確かに、世界とはケンカにしかならない。これは当たり前のことであって、こっちの方が人間の考え方、論理というものだろう。
ちなみに、本日の中日新聞12面の「視座」で、浜矩子がある解説をしている。安倍晋三首相の参拝後の言葉「中国あるいは韓国の人々の気持ちを傷つける考えは毛頭ない」における「考え」(英語バージョンでは、intention)について。ここで解説している要点が実は、上と同じ指摘だと思ったものでした。
浜は要するにこう語っているのです。
「人の痛みが分かるか否か」
「そのような魂の力こそ、大人の力だ」
そんな感じでは無いな。
それなら信濃町の方だろう(笑)。
まぁこうしてみているとやはりテンパるのはよくないな。
共感は呼ばなくなる。
ジョン・レノンと安倍では立場が違うだろう。外タレが物見遊山のついでに靖国に立ち寄ったか、馬鹿な案内人がそこへ誘導しただけだろう。
それとも、ジョン・レノンがすることは全部正しい、したがって、靖国参拝は正当だとでもいいたいのか?
ジョン・レノンは金閣寺へ立ち寄ったが、それでもって彼が仏教徒になったということにはなるまい。
かくいう私も靖国へは行った。そしてそこが「不戦」を誓う場所どころか、過去の戦争を美化し、新たに国家のために死ぬる人間を養成するカルト教団であることをちゃんと見てきた。その上で言ってるんだ。
左翼の論理だと、ヒトラー=東條=安倍晋三=ジョン・レノンですかね?
「問題視しているのはそちらの勝手でしょう。私はゼーンゼン問題だと思っていません」
これは普通の会話としては誤りです。天皇主権国家と国民主権国家は民主主義世界では全く異なったものです。そう捉えてこそ「普遍的な舞台で論議する資格」があるのだと僕は思います。世界では、世界で通用する「普遍的論理」でしか尊敬もされず、第一生きてもいけないはずだ。ヒットラーや東條がアーなったように。
「多数決や民主主義を無視して国民主権もなにもあったものではありません」
多数決を無視なんかしてませんし、誰も無視なんかできない。暴力革命論者ではない限りはね。僕はこう述べたでしょう? 「多数決とかの論理はそれはそれでよいのです。そういう結論は今はひとまず認めてもよいが」
問題はこういうことです。貴方でも、多数決が決めた物は全部正しいとは言わないでしょ。つまり、多数決で決まったことと政治のあるべき姿というのは「別の論議」なのです。そう考えないと、東條もヒットラーも正しくなってしまうと僕は述べたわけでした。
貴方の論議には、普遍的な視点が欠けていると思います。安倍さんと一緒で、こういう観点だと世界とケンカばかりしていないとならないことになる。
個人間討論でも同じです。「人間として普遍的論議の場、そういう筋」というものは存在するはずです。そういう物を求めず、あるいは脇に置いて、人が論議すれば「ケンカ別れ」か「平行線」で終わりだ。人間ってそんな物ではないと僕は思ってきましたが。貴方は、そういうやり方だけでよいと思われる方なのですか。
今の国家に対しても、より広く普遍的論議、思考が出来て、国家の誤りを観ようとしている人が先を見ている人だと言える。そういう人が全部正しいと言いたいのではなく、少なくともそう考えている人からしか人間の歴史的明日は生まれなかったと言いたいだけです。普遍的論議を求める人なら30~50年先を見るのは当然です。そういう勉強をしている人が、世界やその歴史を勉強するのだ。普遍的論議って、そういう勉強からしか出てこないものと思います。
最後に、話し合いとか討論とかは、ケンカではありませんよね。「平行線」で追われる人は、論議の資格がない人だと僕は思います。どんな物でも、「自分の意見」さえあればよい人、それを主張し尽くすだけの人ということになる。
ということですが、
では国際的には戦犯はいるのですか?
いますよね。
ダブルスタンダードでは?
国内と国際とでは真理がちがうのですか?
気に入らない人がいたから天皇は参拝しなかった
なんて、よく言えますね。
天皇にはそんな自由はないんですが・・・
昭和天皇が参拝なさるのをやめられたのは、端的にいうと「気に入らない人物」が合祀されているからでしょう。しかし、昭和天皇・平成天皇が靖国参拝をなさらないから、総理大臣もそれをしないというのはどうでしょうか? また、たとえば明治神宮参拝ならいいのでしょうか?
鎮魂?ちゃんちゃらおかしい。あの境内へ行ったことがあるのか?さきの戦争の肯定に基づく好戦神社で、しかも、次回もまた「お国のために」死ぬように人びとを準備すべく洗脳する機関ではないか。
皆、知っていますよ。
そのうえで言っています。
あることを切っ掛けに昭和天皇は
靖国参拝をやめました。
そのことは?ご存じですよね。
安倍ちゃんの外交センスの無さがモロに出た話には違いないが、ここんとこ靖国に行って無かったから中韓との関係がすこぶる良かったかと言えばそんなことは無いんで。
参拝しなくても旗は燃やされ写真は踏みつけられるのは変わらない。
米国も中韓マネーがファンドなんかで相当入り込んでるからアテにならない。EUも同じく。結局は淡々とやってるのが一番賢い立ち回りになるだろう。
それよりはこのどさくさに紛れて北朝鮮が何かやらかすんじゃないかとかそっち方面の方が気になるな。
さて、普天間基地移設が騒がしいですが、鳩山政権時に小沢一郎は助力・助言をしたのでしょうかね?
もれ伝え聞くところでは小沢一郎は沖縄の土地を買ったりしているようですが……(痛いところをつきました? すみませんね笑)。
中曽根康弘首相以前に総理大臣が50回も参拝していて「問題」となっていない事実は重いですよ。
というコメントは余りに靖国神社が戦後
たどってきた経緯を知らなさすぎるんじゃない?
多数決とかの論理はそれはそれでよいのです。そういう結論は今はひとまず認めてもよいが、そんなの歴史的には誤りの方が多いぐらいだ。東條英機に熱狂した日本、ヒットラーを尊崇したドイツ! よって、「多数派を目指すべきでしょう」は、論争の答とはなりえません。
そもそも貴方自身は、僕のエントリーの問題提起にどう答えるのですか。そこでは、1も2も僕は問題になんかしていません。僕の提起に答えないでは、ここでは何も答えたことにはならないでしょう。
1 戦前と戦後と国家の性格自身が全く違う。戦前は国民の国家ではないのである。国民は道具に過ぎなかった。
2 そんな国家のために死んだ人々を戦後国家のために死んだように扱いうるのか? 「我々のために死んだ」
「だから、尊い行為であって、お参りするのは良いこと」
こう言って良いのか?
さて、これにどう答えるのですか。これに答えるのが正当なディベートというものでしょう。
皮肉をいえば、菅官房長官に「えー、泣く子と地頭には勝てません。弁護士と裁判官は馬鹿ばっかりですが、日本は法治国家です。本当はしたくありませんが、衆議院で0増30減、参議院選挙2回で20増24減を機械的に行います。この調整で大分格差は解消されるでしょう。与野党の話し合いでは10年経ってもきまらないでしょうから……」とかいってほしいところです。
最初の文章は失礼だが、ここが全く駄目だと思う。誰がお参りしようが、新聞が問題にしようがしまいが、悪いものは悪い。その訳をエントリーしているのに、その内容には何もお応えがないのは?
二番目の記述も、理念的な原理原則を外している。憲法に合わない点は直して、結果として減るなら、減らすべきなのです。それと、例えばご指摘の地方の利益を議会に反映させることとは、別の問題。議員が選挙区のことだけを考えている現状もおかしいのですし。議会はもっと理念でやるもの。利益誘導政治が議員の質を落とし、日本の政治を最も悪くさせている元凶でしょう。違いますか。違うとお考えなら改めてご反論ください。
というように、理念的、原理的な問題と目前の問題とをごっちゃにする有権者も政治を悪くさせてきたわけだと、僕は思いますね。ただ、会社などでも、全体に関わる中長期的課題と、どこかの部署の当面の課題との区別を付ける訓練はごく少数の人しか積んでいないと思う。そういう日本では、前者は特に難しいのでしょう。できるだけ全体が見える事が条件になる中長期方針に関わって初めて、社会情勢とか消費者の動向、人間の理念とかが必要になるのだと考えていました。
仮に、格差是正で衆院定数「0増30減」、参院定数「10増12減」×2とかを行ったとして、それで政治が変わりますか?
余計格差が広がるのでは?
「上から動かす」ことしか考えていないのでしょう。彼等の「政治的要求」自身が国民から離反しているのでしょう。というか、国民を満足させられないと開き直っているのでしょう。「抑えつけるしかない」と。
時代が大きく転換したことを
思わせます。
東アジアに困った国が2つ誕生。
日本の国益を大きく損なうことになるでしょう。
「祖国のために命を落とすのは最高の美徳」?、この「祖国」ってなんなんですかねー? 上で僕が述べた区別なんて考えたこともないことだけは確かに分かるけど。
折角中国や韓国が(戦前の)天皇、A級戦犯と国民とを区別して、後者には敬意を払ってくれているのに、これをごちゃごちゃにして恥じない人種。馬鹿ですねー! というよりも、ここをごちゃごちゃにして、新たにやりたいことがあるのかも知れない。安倍がお爺さんの戦犯性を無実にしたいとか・・・・。
「祖国のために命を落とすのは最高の美徳」との表現は文学的な表現だった。」
僕はサッカーでは我が国を応援する。国民の国家としての国なのであって、万世一系の天皇の国ではけっしてない。ましてや、アジア・太平洋戦争を進めて何百万という多数国民を殺したに等しい大日本帝国憲法下の昭和天皇(という社会的仕組み)には、嫌悪感しかない者である。つまり、戦前の国家では、国民は『臣民』と呼ばれて、天皇の道具に過ぎなかった。国の他の側面、国土とか、歴史とかは、そのままでは国民を殺したりしないから、何の害もないものだ。
以上の所を国民がきちんと区別しないままで安倍内閣のような政治が進むと、日本の将来にロクなことがないと思うものである。例えばこのような事どもに関わって。
憲法とは、国の主人公である国民が国家を縛るもの。国家が国民を縛ったり、単なる国民のお約束などというものではけっしてない。
天皇の元首化とか、憲法を「国家が国民にお約束を押しつけるもの」とかの動きを安倍がしている時には、上記の国家観はこれから特に重要なものになっていくと考える。
今でも例えば、嘘の理由で世界の人々を無数に殺したイラク戦争。これが、国家と星条旗の名前でなされた事を忘れてはいけないと思う。
「戦前天皇は政治的実権を持ってはいなかった。形式的君主に過ぎぬ」
これは真っ赤な嘘である。こういう嘘を広める連中の声が大きいから、ちかごろこんな嘘がホントになっている感さえある。特に、軍隊の使い方、つまり開戦などについては、天皇しか決定できない仕組みさえあったのである。
陸、海軍大臣はいたが軍事行政に関わるだけで、軍隊の重大行動は大元帥たる天皇が、陸軍参謀総長と海軍軍令部総長と直接相談して決め、原案を作った。太平洋戦争開戦決定の時も、「外交交渉よりも開戦準備を優先せよ」と決めたのは天皇である。