表現の自由展に関する彼の発言をもう一度見直してみた。というのは、これがつい最近コロナに対する愛知県と名古屋市との協調を妨げている側面すらあると思い立ったからだ。
最初の彼の猛反発は、こんなふうだった。
天皇の写真を燃やしてその灰を踏みつけにする展示や慰安婦少女像の展示について、『どう考えても、日本人の心を踏みにじるものだ。即刻中止していただきたい』
これに対して、大村県知事側はこう反論した。「表現の自由に属することで、止めるのは誤りだ」。これへの河村氏の反論は、「おのおのの人権には縛りがあって、表現の自由という権利にも、『公共の福祉に反しない限り』という制限があるというのは、当然のことではないか。
さて、こうしてみると、河村氏が「公共の福祉」を掲げて、己の「表現の自由制限」を正当と主張していることが分かる。この「公共の福祉」は極めて抽象的なものであるにしても、公の「利益」に重きがある言葉のはずだ。が、この抽象性をこそ、保守などが過去からずっと問題にしてきたものであって、自民党の改憲草案にこんな文面がある。
『自民党憲法改正推進本部は平成24年4月に「日本国憲法改正草案」を発表しているが、当該草案において「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」へ変更しており、』(ウィキペディアから)
つまりこういうことだろう。河村氏は、己の感情を日本人の心と置き換えて、「公の秩序」が乱されたと述べている。
これはおかしいと、僕は思う。「日本人の心」は「象徴天皇を今回のように冒涜してはならぬ」というものと認めて、これを「公の秩序」いや「公共の福祉」の定義に当てはめるべきなのか? 違うだろう。こんなやり方をすれば「日本人の心に合わない」とされた「表現」が全部弾圧されてしまう。これは全体主義ではないのか。憲法の立憲主義精神をば、一部政治勢力の「心」でもって表現の自由を制限することによって浸食して良いとする言い分なのではないか。
河村市長は、南京虐殺問題でも誤った主張をした。宣戦布告のない中国の地において中国捕虜兵士を中心に最大20万人殺したというのは、既に歴史学的事実に近くなっている。日本軍が予期しなかったことなのだが、最初から殺す方針だった捕虜が大量になったという事実が存在したのである。そして当初方針通り、本当に、見つけた大壕に連れて行きそのあちこちに分けて密かに殺し、埋めてしまった。師団長ですら、この虐殺の自分が関わった一部しか知らぬというように秘密裏に行われたことだ。河村市長は初めおそらく「兵士殺しは当たり前、虐殺には入らぬ。民間人をそんなに殺すわけがない」と言いたかったのかも知れぬが、こんな捕虜殺しも大虐殺には違いない。それにしては彼は現在、この前言を訂正、謝罪したという話は聞かない。だからこそこの春、南京からのコロナ・マスクを受け取れなかった? 彼の立場でのこんなデマこそ、「公共の福祉」に反するものではないのか。中国人が嘘を言っているというのだから、国益を著しく害するデマでもあることだし。
① 人の政治論議対象に好き嫌いがあるのは当たり前。
② 自分の「神聖視」する対象を「踏み躙る『表現』」について、「公共の福祉に反する」と言えるのか。
③ こんな論議が正しいとしたら、ある政治論議対象を神聖視して他人にも押しつけるという意味で全体主義そのものである。
④ こういう感情的なだけの反論が通って行く世の中、国は、全体主義政治そのものである。政治家は特に、こんな態度を取ってはならないはずだ。
最後に、以下のような表現の芸術作品を展示することが、公的施設では許されなくなって良いのか。
『僕は象徴と言う天皇の政治的位置が大嫌いである。戦争責任も取らせないで長引かせただけのポストであるとも考えるし。こんな位置は燃やしてしまいたい』
テコンドーVは、マジンガーZのパクリですが、これをオリジナルと主張する人々は、表現の自由を侵害しているのです。
二つ目の理由は、
芸術の場に政治を持ち込まないです。
以上の2点から、
表現の不自由点は、自己責任で行うべきであり、政府や自治体は、距離を置くべきです。
それほど難しい話ではありません。
むしろ、簡単な話です。
日本人は政治に無関心な人が多いので、愛知知事の暴論がまかり通ってしまいます。
愛知知事が暴論を述べても、支持率が下がりません。
愛知知事は、日本人は、無知が多いと分かっているのでしょう。
しかし、それだけでは、暴論を主張する理由になりません。
やっぱり、ワイロか?
金をもらって、昭和天皇の侮辱に協力する。
国を売ると書いて、売国奴。
『芸術の場に政治を持ち込まない』
この場合の芸術とはなんですか。政治とはなんですか。ピカソのゲルニカは、芸術ですよね。そしてあそこに描かれたのは政治ではない! 丸木夫妻の原爆の図も同じ事だ。つまり、こういうことを語る場合には、芸術と政治の定義をはっきりさせないと、大変な政治的利用に繋がっていく。大抵は、政治体制の側に良いように活用されてしまう。
なお、政治発言は自由と言っても、上の文章は、大村知事への誹謗中傷、名誉毀損になりかねませんよ。僕は、こんな誹謗中傷まで述べて暴論にする貴方の方が暴論なのだと思う。
ちなみに、ここでこんな不明確な文章を書くよりも、僕の最上段コメント箇条書きに答えるのが貴方の宿題なのではないのですか? こここそが、僕らの争点なのだと考えてきましたけど。
貴方の不明確な文章の考え方こそ、政治体制側に反対する人の表現の自由を妨げるのに利用されてきたのだと、僕は考えています。例えば、不敬罪、治安維持法・・・河村市長は全体主義者であるやなしや?
「日本人はとにかく、天皇の下にまとまるべきだ」
これじゃ戦前政治と何も変わらぬし、正論を突きつける中国と上手く行くわけもない御仁なのである。購買力平価GDPがアメリカを超えた中国は、日本最大の貿易相手。河村は「総理になりたいだけで変節を重ね、とにかく時代に合わなくなった亡霊のような戦前の存在」である。