一人習いから退職後六十二才で初めて先生について十年経ったクラシックギターだが、この三年ほど前をピークにどんどん下手になってきたことが分かる。特に、右指四本の細かい動きに思いもしない凡ミスが無数に起こる。狙った弦の隣に触れてしまい異音が鳴るとか、ある指が狙ったある音量よりもとてつもなく大きすぎたりあるいは小さすぎたりなどはしょっちゅうのこと。必然、音楽を奏でる楽しさが減っていき、気分が滅入ることが多い。同世代のギター友達がギターの何もかもをすっぱりと投げ出してしまったり、教室を辞めてしまったりという、そんな胸中もよく分かるのである。可愛さ余って憎さ百倍というのか、長年集めたCD全部を敢えて手放した人がいる。それも、愛着があるものとてただ捨てられもせず、仲間にもらっていただいたとか。こういう彼らに輪を掛けて、僕の場合はさらに劣化が激しいように思う。重要な基礎全て六十二才以降に身につけたものだから、外って置けばそうなるのが当たり前。それでも、こんな体験があるのだから続けられるなーと、そんなことが最近二度ほど起こった。
結論を先に言うと、「基礎に帰った」という、単純な体験である。一つは、長年抱えてきて手を着ける勇気を出せなかった最大の欠点(左手の構え方と、そこから来る主として左小指の使い方との悪癖)に初めて挑戦し出したこと。何ヶ月かかるかも分からないから外ってあった癖に挑戦するというこんな勇気をこの年で出せたのは、ギター友達二人が厳しく指摘してくれたことがきっかけだった。この挑戦三ヶ月ほどで、思いもせぬ大きな成果を実感し始めている。もう一つは、初心者のころの基礎に返ってみたということがある。どんなギター教則本にも初めに書いてある教えに、こんなのがある。右手演奏のいろんなパターン練習が美しい音出しの基礎中の基礎だから、いつになっても毎日欠かせてはならないということだ。思えば三年ほど前までの僕は、これを忠実にやっていた。これがあったから、六十二才からの手習いでも多少は人並みになれたとさえ言える。三年ぶりほどでこれを最近復活してみたのだが、効果絶大だった。
重大な基礎に欠点があれば加齢がそれを増幅させずには置かないし、身についた基礎は残っているはずと振る舞っていれば、年寄った身体が反乱を起こすということだろう。いずれも、あらためて考えてみれば単純な理屈である。が、多くの人々がこういう単純な理屈に抗しきれないで「若くして」文化的活動をどんどん手放しているのではないか。一つのものをそのように手放すなら、他の活動も同様だろうと推察される。そして、やがて多少とも能動性が必要な人間活動が「若くして」ほとんど無くなっていく。このように振る舞うのも一つの人生とは思っても、もったいないと言いたいのである。
年を取っても、一進一退ならぬ二退一進も三退一進もある。退が激しければ小さな進でも嬉しい。また、年を取ると過去の事は忘れがちだから退は見えにくく、眼前の進はよく見える。そこに至るまでの「若い」時のリタイアーが、意外に多いという気がする。
現代社会文化では、物を所有する喜びを刺激するだけの消費者文化ばかりが横行していると語られ始めて久しい。日本では、戦争でそれまでの生活と文化が途切れたせいか、文化らしい文化に鑑賞者・消費者ばかりで生産者が少ないように思われる。文化生産者が少ない社会は、子どもたちに人間の未来を見せられない社会とも言えないだろうか。
結論を先に言うと、「基礎に帰った」という、単純な体験である。一つは、長年抱えてきて手を着ける勇気を出せなかった最大の欠点(左手の構え方と、そこから来る主として左小指の使い方との悪癖)に初めて挑戦し出したこと。何ヶ月かかるかも分からないから外ってあった癖に挑戦するというこんな勇気をこの年で出せたのは、ギター友達二人が厳しく指摘してくれたことがきっかけだった。この挑戦三ヶ月ほどで、思いもせぬ大きな成果を実感し始めている。もう一つは、初心者のころの基礎に返ってみたということがある。どんなギター教則本にも初めに書いてある教えに、こんなのがある。右手演奏のいろんなパターン練習が美しい音出しの基礎中の基礎だから、いつになっても毎日欠かせてはならないということだ。思えば三年ほど前までの僕は、これを忠実にやっていた。これがあったから、六十二才からの手習いでも多少は人並みになれたとさえ言える。三年ぶりほどでこれを最近復活してみたのだが、効果絶大だった。
重大な基礎に欠点があれば加齢がそれを増幅させずには置かないし、身についた基礎は残っているはずと振る舞っていれば、年寄った身体が反乱を起こすということだろう。いずれも、あらためて考えてみれば単純な理屈である。が、多くの人々がこういう単純な理屈に抗しきれないで「若くして」文化的活動をどんどん手放しているのではないか。一つのものをそのように手放すなら、他の活動も同様だろうと推察される。そして、やがて多少とも能動性が必要な人間活動が「若くして」ほとんど無くなっていく。このように振る舞うのも一つの人生とは思っても、もったいないと言いたいのである。
年を取っても、一進一退ならぬ二退一進も三退一進もある。退が激しければ小さな進でも嬉しい。また、年を取ると過去の事は忘れがちだから退は見えにくく、眼前の進はよく見える。そこに至るまでの「若い」時のリタイアーが、意外に多いという気がする。
現代社会文化では、物を所有する喜びを刺激するだけの消費者文化ばかりが横行していると語られ始めて久しい。日本では、戦争でそれまでの生活と文化が途切れたせいか、文化らしい文化に鑑賞者・消費者ばかりで生産者が少ないように思われる。文化生産者が少ない社会は、子どもたちに人間の未来を見せられない社会とも言えないだろうか。
「16日午前六時のニュースで、貴局解説員は次のように述べました。
“韓国に対してわが国は、何度も謝罪をしていますが、韓国は聞き入れてくれません”
日韓冷戦の原因は、執拗に韓国が謝罪を求めてきているところにあるといったニュアンスの解説でした。
昨日の衆院本会議で安倍首相は、村山談話を教科書に記載することにOKをだしていません。ここにみられるのは、謝罪拒否です」。
回答がきたらお知らせします。
さて他方、僕のこの随筆も側面は異なっても実は、そういうことの積もりでもあるんですよね。直接人々の困難を解こうとする行為が貴方のだとすれば、僕のはこういうもの。文化、芸術の生活化というと大げさだけど、どんなに貧しくっても「生活を楽しくする生活活動」というものを人はいろいろやってきましたし、今の若者にもそういう人は「終戦後遺症の日本人男子」を脱して「また」増えています。どんなにお金があっても「やることがない人」もいるという現象と対照して、考えてみて下さい。そういう人々は若者に「人生への期待感」を育てられないはずだと言いたいんです。中身がない金持ちのステイタス商品人生を、最近の物の分かった若者は笑っている。
ネットゲームなどにも熱心な子ども夫婦二組も、僕のこういう生活はそれなりの敬意を払ってくれているように感じています。
「人はパンのみにて生きるに非ず」と言いますが、もう一つこう加えたい。「人はパンのみにて(かつパンがない人にパンを与えたいという望みのみにて)生きるに非ず」。