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「歴史解釈権」について思う。           千里眼

2006年09月19日 20時23分21秒 | Weblog
 「歴史解釈権」を正しいとしている歴史学者を紹介してほしい、との私の要望に答えて、保守系さんは「ヘレン・ミアーズ」の名を挙げていた。「ヘレン・ミアーズ」は決して歴史学者ではない。「東洋学」の学者である。「東洋学」は研究方法論を持ち得ない学問である。欧米では盛んにこの学問領域の研究・調査がおこなわれたが、日本では独立した一つの学問領域として成立していない。東洋全般を、特に中国を研究対象にした学問で、その内容は地理・地誌学、考古学、歴史学、民族学、人類学など多彩な内容を含んでいる。多岐な学問分野を内包している、きわめて学際的な学問であるだけに、独自の研究方法論が成り立ちえないのだ。
 したがって、私の問いに対する回答になっていない。彼女が「歴史解釈権」という概念が正しいとしている文面は、いくら探しても見つからないのは当然のことである。

 次いで、ヘレン・ミアーズの著書「アメリカの鏡 日本」について触れたい。「自虐史観」という「レッテル」貼りをする人々からは、彼女も「自虐史観」というレッテルを貼られて当然なのだが。それともアメリカの「自虐史観」は我々の助けになるから大歓迎ということになるのであろうか。何か「歴史の皮肉」とでもいうか、滑稽というか、私は可笑しくなってしまった。しかも彼女の著書は、決してそのような内容のものではないのだ。
 
 この著書の自分に都合のいい内容のみを切り取って、彼女の真意を読み取れずに、鬼の首を取ったように喜んでいる人々の知性と理解能力の欠如を私は悲しむ。彼女の真意をつかむことのでない人々を、彼女は天国から涙して悲しく見ていることだろう。
 伊勢雅臣氏は「ミアーズが書きたかったのは、日本弁護論ではない」、「ミアーズの本を読んで心うたれるのは、『現実的』になるために史実を曇りない目で見据える客観性と、それを根底で支える人類愛である」(国際派日本人養成セミナーレジュメより)と指摘している。「史実を曇りない目で見据える」と、ミアーズは「歴史解釈権」と反対の立場に立っている。つまり解釈権を否定する立場に立っている。つまり、保守派さんの「指摘」は間違っていることになる。私は伊勢氏の指摘に同意するものである。(念のために付け加えるが、この図書を売らんがために書評やコメントを集めたなかに、皮肉なことに、この文章が紛れ込んでいたのだ。これもまた可笑しくて私は笑った)
 
「日本が、『凶暴で貪欲』であったことは明白な事実」として、日本の明治以降の対外進出と侵略戦争を『凶暴で貪欲』と彼女が述べていることを忘れてはいけない。彼女は日本の侵略行為を免罪しているのではない。『凶暴で貪欲』と指摘しているのである。
 欧米諸国が近代に入って、他民族を抑圧し、植民地化し、領土を拡大していった「帝国主義的行為」(彼女はそんな表現は使っていないが)を彼女は否定する。日本が近代化の過程のなかでこの欧米の行為を手本にして、同じような侵略行為を働いたのだと言っているのだ。彼女の「人類愛」から、また彼女の学者としての「良心」から、こうした他民族抑圧はあってはならないという思想がこの著書の根底に流れているのだ。
 「アメリカの鏡 日本」という書名に彼女の真意が込められているのだ。「日本は良いことをするから、その日本を手本にせよ」、と彼女は言いたいのか。または、「日本は悪いことをしたのだ、だからその日本を手本にしたらいけないのだ」、と彼女は言っているのだろうか。(分かり易くするために、極めて卑俗な表現をここで私は使ったのだが) 私は後者であると思う。「日本を、アメリカの鏡にしてはいけない」というのが彼女の真意なのだ。
 長くなるので、ここで一応の終わりとしたい。書き足りないことが多々あるのだが。
(ひとつは、国としての歴史解釈権の問題。もう一つはミアーズの著作の内容にかかわる問題で)
 
 「解釈」という用語は、「物事や言葉の意味を理解すること」と辞典に書かれているが、ものごとは解釈する場合、いろいろな解釈がありうる。十人十色という熟語があるが、解釈という行為はそうした性質を持っていることは、誰が考えても分かることである。子供でも分かることである。そうした曖昧さを持つ言葉を、さも学術用語のように「歴史解釈権」という造語を作って後生大事に使っていることが、私にはまったく理解できないのである。「解釈権」の立場にたったら、歴史事実も歪められ勝手な解釈が横行することになる。ミアーズの言うとおり、歴史を見る場合には、「史実を曇りない目で見据える客観性」が必要なのだ。

 最後に、保守系さんへ感謝の気持ちを申し伝えたいと思う。学者としての「良心」をかけて書かれた、深い思索に基づいたこのような優れた著作を紹介していただいたことに。ただ、彼女の著作には、一点だけ、私は不満に思うことはあるが。

追記 1週間ほど名古屋を留守にしますので、コメントを頂いても、すぐにはお答えできないことをあらかじめお断りしておきます。
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8 コメント

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「落石」さんへ (へそ曲がり)
2006-09-21 09:05:35
「人を殺した」という事実に対して“殺していない”という解釈が出来るのでしょうか?またそういう主張をすることは、その人の「権利」なのでしょうか?

“自民党総裁選はなかった”と主張するのも、「解釈権」を使えば正しいことになります。

「歴史事実」を認めようとしないことを「解釈権」で言い通すことがまかり通ったら、この社会はどうなるかということにもなるかと思います。

 
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ありがとうございます (落石)
2006-09-21 08:07:52


解釈権と、どう解釈しているのか?という辺りが、

私の頭のなかで混然としていました。



解釈する権利は、万人にあるわけですね。

どう解釈するかも、何通りもあり、

その間の論争ということでしょうか。





返信する
「落石」さんへ (へそ曲がり)
2006-09-20 20:46:07
 疑問への答えになるのかどうか、全く自信がありません。

 

 先ほどの「江崎道朗」氏(前のコメントでは「道郎」としましたが、誤りです)の論稿は突然出てきたものではなく、その前に関連する主張がありました。長すぎると思ってカットしたのですが、かえって分かりにくくさせてしまったのかと思いました。そこで、それを転載します。 

  

“ポスト冷戦はイデオロギー論争の時代ではない。アメリカのリペラル派を代表する知識人アーサー・シュレージンガー(ハーバート大学元教授)は「いまや、民族的、人種的抗争が、現代の爆発的な議論を呼ぶ係争点として、イデオロギー面での抗争に取って変わるであろう」と、1992年に出した『アメリカの分裂』の中で指摘している。

 では、「民族的人種的抗争」のメインテーマは何か。「歴史観」である。

 シュレージンガー元教授は、「武器としての歴史」という章を立てて、「歴史観」の重要性をこう語る。

 「記憶を失った個人が、どこにいたかどこへ行くのかも分からずに、まごついて呆然とするのと同様に、自らの過去についての概念を持たぬ国民は、自分たちの現在を、そして将来をも処理することもできなくなるだろう」。だからこそ民族的人種的抗争にあっては、過去を解釈するものこそ未来を勝ち取るのだ」。

 

 この後に、先ほどの「江崎」氏の主張が続くのです。



 アーサー・シュレージンガー氏については、私もよく知りません。インターネットで氏の経歴や著書の『アメリカの分裂』を調べたのですが、内容については詳しく出ていません。

 書評についても殆どなく、2つの異なったものが出ていました。  



著書の紹介

 人種のるつぼといわれ,民族的多様性を誇りにしてきた超大国がその内部から分裂しようとしている.ケネディのブレーンであった著名な歴史学者が,この未曾有の危機に瀕したアメリカの再生を願いつつ世に問うた警世の書。



書評

1 現代アメリカ社会における危険性を鋭くついた一冊。「多文化主義」が高らかに唱えられているアメリカにおいて、著者はそれがアメリカを「分裂」させると主張する。多文化主義における各自の民族崇拝が生み出す分離主義的傾向は、アメリカの歴史を歪曲して、アメリカの統合を阻むというのが著者の論法である。この本はある程度突っ込んだ内容なので、最低限のアメリカ社会に対する知識を持っていないと、理解に支障が出るかもしれない。また、この本はあくまで「文化的多元主義」を擁護して、「多文化主義」を批判する立場にあるので、賛否両論の視点から、「多文化主義」の主張も触れておいたほうが良いと思う。クレヴクールやトックビル、ザングウィル、ロナルド・タカキなどの本と比較しながら読むと学術的な理解が熟成されるだろう。高い評価である理由としては、現代アメリカ社会における多文化論争に対して、あまりにも現実的で鋭い視点から理論を展開しているからである。



2 落日のリベラル ― アメリカ政治史の泰斗シュレジンガーJrの本書での攻撃対象は、「多文化主義」である。彼自身が反共リベラルとして自負するニューディール・リベラルの理念は、「多数による統合」であった。「アメリカニズム」的な統合を破壊するもの、それはシュレジンガーにとってかつては「共産主義」であり、現在は多文化主義というわけだ。だが、今のアメリカで多文化主義を攻撃するのはたやすい。もちろんその非政治性や相対主義、ポストモダン的消費文化への抵抗力の弱さは指弾されてしかたがないだろう。しかし、現在アメリカのリベラリズムを衰退させているのは、多文化主義ではなく、新自由主義である。つまるところ普遍主義同士の競合関係こそが、現在のアメリカンイデオロギーの焦点なのだ。老シュレジンガーはもはやそれに想いいたらないのだろうか。



 なお、「江崎」氏がここでどうしてシュレージンガー氏の主張を引用したのか、『アメリカの分裂』のどこからか、何ページに書かれているのか、また、この前後がどういう主張になっているかがさっぱり分かりません。歴史についてなのかそれとも文化についてなのかも判りません。



 ご指摘の2つの定義づけについては私の主張ではないので、「偽造論者」に聞いて頂くより方法はありません。

 ただ「江崎道朗」氏の論稿から見ると次のことが言えるのではないでしょうか。「保守系」さんのこれまでの主張も含めて考えてみたいと思います。

 

 日本は中国に対して悪いことはやってはいない。少しはあったかも知れないが、たいしたことではない。もう十分に謝罪した。「南京事件」はでっち上げだし、「日中戦争」は中国から仕掛けたものだ。にもかかわらず、それを認めず、勝手に“日本のせいだ”と「解釈」して、自国民に「反日教育」を押し付けて「洗脳」している。

 こんなことを許していたら21世紀の日本は駄目になってしまう。

 そうならないためには、日本の行為は「正しかった」と「解釈」して、国民全体の共通理解にしなければならない。

 どちらの「解釈」が正しいか、これは「歴史観」の戦いである。

 ポスト冷戦を生き抜くためにはこれに勝利しなければならない。

 

 こんな風に言っているように見受けられます。この2つの主張は、【彼らにとっては】矛盾していないと思われます。私には疑問ですが・・・・。



 答えになっていないかも知れません。お詫びします。



 
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 (落石)
2006-09-20 15:42:30
歴史は当時の人々の熱い想いからしか解釈し得ない。単なる事実の羅列ではない。



日本にとってポスト冷戦は、中国などとの民族的人種的抗争を意味し、その勝敗は経済成長の優劣と共に、歴史解釈権をどちらが握ったかで決まる。



このふたつの間には、矛盾がありませんか?



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追記 (千里眼)
2006-09-20 14:39:46
 前のコメントでは不十分でしたので、追加します。ヘレン・ミアーズの著書「アメリカの鏡 日本」は、マッカーサーが発禁処分にしたということを歌い文句に、彼らのバイブルのように尊重されている書籍です。書評や寄せられているコメントを見ますと、どうも雑誌「正論」の編集長が盛んに勧めているようです。ところが、ミアーズが「アメリカに日本を裁く資格があるのか」と触れている、その一点だけで、もてはやされているのです。したがって、この著作の真意を明快に示すことは、どうしても避けて通ることのできないことがらでした。ここまで触れれば、この討議の本質が理解していただけるものと思います。なお、私は「『歴史解釈論』のいきつく先は、歴史の偽造」と題して、彼らの史料の扱い方、歴史事実の取り上げ方などを、ほぼ5つのタイプに分類して、しかも反論不可能な形で、彼らの文章そのものを取り上げて分析する準備をしていました。これはきわめて神経の疲れる作業でした。その私の狙いは、前のへそ曲がりさんが代弁していただけています。

 なお、前の私のコメントに誤植があったことをお詫びします。
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落石さんへ (千里眼)
2006-09-20 13:46:20
 名古屋にまだ居ましたので、コメントします。

 最初に、へそ曲がりさんに助けていただいたことを感謝します。「歴史解釈権」という用語は、小堀圭一郎氏が造語して以来、靖国史観(レッテル貼りはきらいですが、分かり易いので)や自虐史観と称して異なる意見を否定・批判する人々の歴史観を示す言葉として、彼ら自らが使っている用語です。個々の問題について討議するよりも、この用語を論破することが、彼らの見解を前面否定することになるという判断から、取り上げてきたということなのです。
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「歴史解釈権」論争 (へそ曲がり)
2006-09-20 12:20:03
「歴史解釈権」という言葉は、8月28日の私の投稿「戦後日本へのアメリカの罪?」の中での「保守系」さんのコメント「遊就館問題ですか・・。」に突然飛び出してきた言葉です。

 この日、「ネット虫」さんからはこんな紹介を受けました。

“東京大学名誉教授「小堀桂一郎先生」の主張されている考え方です。・・・「歴史は当時の人々の熱い想いからしか解釈し得ない。単なる事実の羅列ではない。」と言う主張です”、と。

 調べて下さいとも言われました。

 私も調べました。「小堀桂一郎」氏は“歴史学者ではない”こともすぐにわかりました。

 また、「正論」の8月15日のコラムには次のような小堀氏の主張が出されていることもわかりました。“国史の一章としての大東亜戦争についての歴史解釈権は日本国民の手にある。アメリカ史の一部としての太平洋戦争開戦の経緯の解釈権はアメリカ人の手にある。双方の国民が当然の権利を行使しての解釈の結果が相容れないのは是亦当然である。一致するくらゐならそもそも戦争になどならなくても済んだ”、と。

「保守系」氏が“私は、パクリました”と認めた、あの主張です。

 

 ここから「文化系」・「千里眼」・「保守系」・「へそ曲がり」の4人の論争が始まったわけです。



 当初の私の意見は次のようになっています。

“氏の主張は、「歴史は【思い込み】だけで語れば良い」ということになります。「事実の検証」など、氏によればどうでもいいことのようです。好き勝手な「解釈」で歴史を論じ、それは「権利」であるなんて言われたら、「歴史学」は存在しなくなることでしょう”、と。

 またこんなことも言いました。“いったい歴史は「解釈」するものなのか、またそんな「権利」が存在するのだろうか?これが正しいのなら「歴史の事実」に対して好き勝手なことを言って置けばよいということになる。しかも、それは権利として保障されなければならないことにもなる。

“「三内丸山遺跡」は縄文だろうと「弥生」だろうと、どちらでも構わない。それはオレの「権利」だ”と主張したらどうなるか?科学は破滅してしまう。

 真っ赤に熟れたトマトの色を「赤」と解釈するのも「黄」と解釈するのも自由であり、どう主張するのかも「権利」だと言ってもよいことになる。まあ平気で「白」を「黒」と言ってのける人だから、こういう「解釈」をするのだろう”、と。

 最近の私の言葉です。「鍋」を「薬缶」と解釈出来るのか、と。

 

 この考えはいまでも変わっていません。



 そのおかしさを系統立てて徹底的に論破したのが「千里眼」さんの意見だったということです。

 

 ついでに、「正論9月号」で「日本会議専任研究員、江崎道郎氏」がこんなことを言っています。長くなりますが転載します。

 どうして彼らが「歴史解釈権」なるものを持ち出して来たのか、その狙いがよく判ります。

 

“日本にとってポスト冷戦は、中国などとの民族的人種的抗争を意味し、その勝敗は経済成長の優劣と共に、歴史解釈権をどちらが握ったかで決まる。だからこそ中国共産党政府は、自国民に対して徹底した歴史教育を施す一方で、我が国に対してなりふり構わず、靖国参拝の中止を要求してきているのである。

 現に中国共産党政府に「歴史解釈権」を握られて以来、日本は中国のGNPの実に3倍ものパワーを持ちながら、ODAという形で中国の軍事的台頭を支援させられ、いまや我が国のリーダーの条件さえ中国政府によって決められつつあるのではないか。

 我が国の与野党幹部たちもマスコミの大半も、自国の歴史解釈権をいとも簡単に中国共産党政府に譲り渡し、結果的に自分たちの「未来」を奪われてしまっている現実に気付いていない。歴史で譲っても経済繁栄を維持すれば勝利できるという冷戦時代の思考から抜け出せないのである。

 しかし、いくら経済で勝利しても歴史観の戦いで敗北したら、ポスト冷戦を生き残っていくことはできない。そのことを恐らく本能的に理解しているからこそ世論は、小泉首相の靖国参拝を支持してきたに違いない”。(P123~P124)



 飛躍し過ぎたような「論理?」には唖然としてしまいます。

 どこがおかしいのか、「千里眼」さんの意見を基に分析してみて下さい。

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歴史解釈権? (落石)
2006-09-20 08:53:18
おふたりの論争を読んでも、どうも

何を言っているのか?

最初の権利がよく分からないので、今ひとつ

消化不良でした。

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