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我々の感性はマスコミにどれだけやられているか?  文科系

2007年08月03日 12時07分58秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
こうしてブログを書いている人間は、もちろん何か問題と思う対象を書くのだが、「問題を発見する自分」というものも時に振り返ってみたい。人間にとって「問題」を発見することは容易だが、「問題を発見する自分」を覗くことは少ないからである。「政治に問題を感ずる自分」への意識が不十分なとき、その自分の言葉は不十分なものとなるとも考える。以下は当然僕自身も含んで書いているつもりだ。

僕は以前、こういうことをここに書いた。団塊世代以前の男性は、仕事と社会性以外には目が行かないことが多かったと。そして、その子や孫はそういう彼らと違って、人生にもっと「楽しみ」を求めていると。考えてみて欲しい。我々の父母と子であった我々が作っていた家庭は、戦後の貧しさということもあったのだろうが、家族旅行とか会食、今で言う娯楽としての「ショッピング」などは、普通の家庭では先ずなかった。我々はそのように育ったのだ。ところが我々の世代が「主体的な楽しみ、文化」を教えられなかったその子たちは、マスコミ文化、宣伝消費の文化に感性をすくい取られてしまったかの状況がある。
ヒットラーも東条も、我々の父母に対してラジオや新聞がなかったらあれだけのことはとうてい出来なかったと思うのだが、テレビと巨大な全国的日刊紙を前にした現代日本国民自身は(若者の新聞離れは急で、新聞は「親父の専売特許」だとも言われているが、我が娘を見ているとそうとばかりも言えない)、その真の主体性、主体的文化というものがものすごく問われていると思うのだ。
「現代人は百%マスコミにやられている。つまり管理されきっている」と語った哲学者、ヘルベルト・マルクーゼの例もある。彼の国、アメリカ合衆国を見るとそんな気がしてくる時もあるのだが。

現代人の「文化の基礎となる感性」にとって、マスコミの影響は凄い。歴史的には新聞やラジオに始まって、テレビ。これらのものが生きている人間を、その文化をいかに「引き回してきた」か。
現代マスコミの特徴とされている点を見てみよう。まず①珍奇性。「犬が人間を噛んでもニュースにはならないが  」というやつだ。②受け身性または没主体性。「直ぐテレビ」、「それも、だらだら」で、文化の受容者を作るが、生産者は作りにくく、よって主体的文化感性、鑑識眼が育たないということだ。③上記両者を一体とした、低俗性、自己らしい自己の空虚性。珍奇なもの、「新しい」もの、流行に流されて「自分がない」と来れば、低俗な「面白さ?」に引き回されて当然ではないか。④③に見た自己の空虚性に対して、「多数」、「メジャー」、世論調査、「ブランド」などの風潮が入り込んでいく。「変わり者はネクラかオタクだろう」という感性の流行とも言えよう。こんな社会では深刻な本音などなかなか語れはしないから、余計に人間性の幅の狭さを生むとも言えまいか。
以上はちなみに、幼い時ほど真に受けて育つ。また再度強調するが、この四つは深く感覚の問題であるので、こういう自覚が皆無だということが難物でもある。それだけ深く主体性がやられていると言っても良いのではないか。
そして思う。上のことが子、孫のこんな感性的特徴に大きく繋がっている点はなかったかと。
結構知的なのも含めて「オタクの多発」、性のゆがみ(スプラッター、極端なロリコン・モエなどを含む)、「『新』、若さは善で、『旧』、老いは悪という風潮」、お笑い芸人の全盛、歴史的文化の断絶、その時限りのポピュリズム政治、などなど、などなどだ。大問題になっているいじめにも、他人や自分の欠点を売り物にしてあざ笑ったり、どついたりする「お笑い芸人文化風潮」が最も重大な影響を及ぼしているとも思う。
お笑い芸人と言えば、こんな話がちょっと前にあったと記憶しているが、今や隔世の感があるではないか。女優大竹しのぶがサンマと結婚したときのタケシの談話である。「お笑い芸人の地位は芸人の中でも最も低かった。それが大女優と結婚するようになるとは、世の中変わったもんだ」。こうタケシが述べたのが昨日のことのようだが、それからまたさらに、世の中は変わったものだ。ものすごく目まぐるしい時代であって、これだけでも、「マスコミにも接しつつかつ健康な主体性を保つ」ことがどれだけ難しくなったかが分かろうというものである。
付け加えておくが、このたけしの感性の中に、「マスコミ・メジャー文化主義」が根強く存在するというのは有名な話である。世界的な映画賞を取ろうが取るまいが、彼の感性はある種の雑多な「定型」の連続であって、ポピュリズムの極まりという以外にないと、僕は思う。

こうして文化らしい主体的な文化(的感性・喜び)が育てられなかった子や孫は他方で、親の人生観を強制されてきたのだと思う。それに乗るにせよ、外れるにせよ、また例外はいつでもいるものだが、大なり小なりということだ。成績主義、「能力」主義である。
さてこうして、団塊以上の父母は子にまともな文化が、そういう喜びが教えられなかった。かといって豊かな戦後の子、孫に「団塊世代のように働けること」も教えられなかった。中途半端なのである。そして何よりも悪いのは、全国的競争で単線的に育った働ける者、力のある者がそうでない者を無意識に馬鹿にしているという問題である。そういう人物たちが、政治家とか企業幹部とか、当然マスコミの幹部にもなりつつあるからだ。大変な時代になったと思う。民主主義の危機と言っても良いのではないか。

こういう時代は指導者がかなり勝手なことが出来るという特徴を持つはずだ。もちろんあからさまなファシズムには即待ったもかかる「民主主義」、「情報公開」の時代だから、指導者といえども失敗したら即アウト。ブッシュ、大蔵省不祥事当事者、破廉恥罪大学教授、日興證券、富士屋などなどを見れば分かる。でも視聴者、有権者に主体性がないのだから、同じことが繰り返されるだけだろう。そこが問題だ。
こんな時代は一体、どこで正されていくのか。こういう時代を無意識にだろうが作ってしまったマスコミは、世論調査が正義で、その方向へ進むようなことを言う。そんなのは「視聴率」で正義や真理や道徳を決めるのと、どこが違うというのか。これはまさに「マスコミ的感性と世論調査との悪循環」というようなものであって、本当に馬鹿馬鹿しい限りである。

なお、一言付言したい。現代マスコミのマルクス主義流解釈についてだ。マルクス主義では「支配階級は社会の思想手段を握ることによって、社会の思想を握る」と語る。この論理を現代マスコミ観にそのまま貫徹させれば、商業マスコミなど批判の対象でしかないということになる。が、僕はこの論には半ば以上反対である。一般的には「土台を上部構造に直結させるのは機械論だ」と述べたいし、こういう機械論ではNHK、特にそのBS放送の最近の変化や、今回の参院選におけるマスコミ主流論調(政治論調はテレビのそれも含めて、新聞が作っている)などが説明できないからである。NHK経営委員会人事を与党が握るというのも、政権交代を前提とすれば、悪いこととは言えない。
一言で言えば僕は、マスコミ機関にも土台から相対的に独立した側面があると言いたい。
ただし、民放のスポンサーとか、彼らが要求する視聴率とかは、大きな問題を含むはずだとは思う。


以上、雑多な書き下し文のようになってしまったが、真意をくみ取って下さり、論議を呼びかけたいと思う。
コメント (2)
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9条の原点は? 楽石

2007年08月03日 08時43分39秒 | Weblog

憲法9条は連合国に対する詫び証文と安倍さんはおっしゃっています。
でも、どうして9条のような考えが生れてきたのか?
には、触れません。
そこでちょっと、9条の生みの親を紹介します。

国際紛争解決のために戦争に訴えることを非ずとし、
かつ、その相互関係において、国家の政策の手段としても
戦争を放棄することをその人民の名において厳粛に宣言する。

これは1928年に締結された条約です。
日本も「その人民の名において」という部分については
承服せずとしながら批准しています。

さて保守系さん、これは、どういう条約でしょう?

  
コメント
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