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九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

随筆 「国語(科)は学問ではない!」?  文科系

2022年04月04日 11時17分22秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

  ブログ友の昨日のエントリーに、文科省が最近出した「論理国語と文学国語」と言う話題がテーマとして出されていた。これは教育と言う以上に物を書く人間にとっても極めて重要な問題であって、しかもとても難しいテーマなのである。このことについて書いた拙稿を再掲する。そして、明日これに追加の文章、論考などを書きたい。


【 随筆 「国語(科)は学問ではない!」?  文科系 2015年01月29日

 子ども、青年期などにおいて、標記のことを唱える人は多い。僕自身も中学2年だったかの国語の時間に、若い女の先生にそんな質問をして、1時間の授業を潰してしまった覚えがある。この事件の詳細は覚えていないが、数人の級友と一緒に発した質問だったので、そうなったようだ。

 では、よくあるようにこう言い逃れるやり方は正しいのかどうか。国語で書かれた内容の方が学問か否かは置いておくとしても、国語という言語とその使用法は学問としてきわめて重要なものである。こういう語学に限定した国語(科)の定義は誰もが認めるはずだが、この「書かれた内容」を横に置いた半分の定義だけでは、国語(科)の意味、重要述語の抑えとしては3分の1の価値もないと、これが僕のこの随筆の趣旨だ。

 さて、少なくとも20世紀以降の人文科学は、以下のことを明らかにした。
 言語能力、特に抽象的言語能力が不足した子どもは、学力一般が劣るのである。思考力一般と言語能力とがほぼ同じものと言っても良いほどに。これが言いすぎであるとしても、少なくともこうは言えるというように。両者の一方が欠ければ、他方もそんなに発達はできないと。このことはまた、以下のことをも示しているのだと思う。
 言語能力が文字通りの言語能力という狭い範囲に留められるものではないということを。次いで、このことに、20世紀の発達心理学などから発見された次の事実もおおいに関わっていく。
 この言語能力・思考力一般という意味での言語能力が劣った青年、成人には、社会性も欠けるという事実である。もっと言うならば、こんなことが言えるようだ。言語能力と思考力と社会性(さしあたっては、他人の言動が見え、分かり、共感するということなどなど)は、人間においては同じ一つのことの別の側面とさえ言えるのではないかと。

 さて、以上のことは少なくとも現代学問のほぼ全てが認めるだろう。それでもなお、こういう問題は残るのだ。思考とか社会性とか、もっと拡げて人間の内面一般が、全て科学的に手に負えるものかどうかという問題である。手に負えないとしたら、こうなる。欧米のある種の現代哲学者、科学者たちのように、こう生きるしかなくなる。公的に論じ合える問題と、論じられない言わば信仰や、善や美や、それらを扱った随筆世界(の内容)やのような領域の問題とを、区別して生きることに。「その問題は、科学的には『問題』と言えるようなものではない」とは、そういう欧米知識人が非常によく使う言葉だ。こうして例えばつまり、科学と「心」とを厳密に分けて生活することになるのであろう。科学と信仰とを区別して生きるというように。

「国語科は学問ではない」という子どもが目の前に現われたら、今の僕なら以上のことをしっかり語ってあげたい。きちんと答えないと「必ず、発達が歪む」と考えているからである。最近賢い女の子二人が、相次いで残忍な殺人事件を起こしたが、以上書いてきた問題が本質的に関わってくると解説する専門家も多いのである。


 最後に、付け加えることがある。以上のようなこと全てを40年高校国語教師をやってきた連れあいに話してみた。その間に愛知県の最難関校(の進路指導係)を含めていわゆる受験校三つを渡り歩いてきたお人である。どんな返事が返ってきたか。
『今は、そんな質問をする子はいない。国語が、受験の主要3科目に入っているからだ』
 いや、驚いたのなんの。

 が、こんな現状も大問題であると、又別の問題性を感じたものだ。こんなに大事な学問を受験手段中心で扱っている。道理で、文科省が大学の人文、社会系の学問分野を減らそうとしている訳だ。国語を思考能力の範疇だけで扱って、社会性、人間の内面一般との関係で見ていないからこんなことができるのだろう。怖ろしくなった。超格差社会と相まって、賢くても「残忍な」子がどんどん増えるのではないか。なお、国語科を軽視して道徳科を重視しても、こういう悲劇は一向に減らないはずだ。安倍首相には特に、そう言いたい。人の心こそ実は、究極の思考力、真理の最大問題なのだと僕は強調したい。道徳を決まり(の集積)か安っぽい「善悪」のように扱うのでなければ、国語科、人文・社会系学問を軽視はできないはずなのである。】

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今一度、事実と解釈  文科系

2022年03月19日 17時14分40秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 この16日に『TBS報道番組で「史学の初歩的誤り」』をエントリーしたが、これへの反応は少なかった。日本人が苦手な問題だからでもあるのだろうと考えたところだ。僕の言い分をもう一度再掲してみると、
『「歴史的事実よりも解釈が重要だなどと、とんでもないことを語った」と言って、ある人物を貶めることなど到底できないことなのである。どんな人も事実を語っているつもりで、じつはその自分流解釈を語っているのだから。ただし、その解釈は事実、現実から外れず、別のそれらによって容易には崩されぬという意味において精緻な解釈でなければならないということだろう』
  そして、この解釈の難しさについてこう付け加えた。
『ところで、この解釈という事がまた、変わっていく。重大な新資料が出てくると換わるのは当然としても、解釈者自身らの時代も移り変わるところから歴史事実の束に臨む「問題意識」自身が変わるからである。近現代史における解釈変化の一例として、こんなことを著者はあげる。
 明治維新の基点である近代日本の始まりをどこに観るか自身が、変わったと。1950年代までの基点は1840年代の天保の改革の失政だったと観られていて、1960年にはペリー来航(1853年)がその基点に替わったというのである。歴史学会自身において、そのように通説が変わったと。』
 
 こうして、こういう解釈というものの難しさを知っている人ならば、メデジンスキーが述べたこの言葉もそれこそ解釈がいろいろ出てくるのであって、この言葉を取り上げるだけで鬼の首でも取ったように批判するのはおかしい。ここで解釈と言っても、そもそも事実の解釈なのであって、けっして事実から外れてもよしとメデジンスキーが語ったと実証しているわけではないのである。
「事実はそれ自体大きな意味を持たない。事実は概念の枠組みの中にだけ存在する。すべては事実ではなく解釈から始まる」 
 
 難しい裁判を例に取ってみよう。裁判は先ず事実経過の確定、確認をするが、難しいのは諸証拠の解釈ということになる。そして、そういう事実経過解釈が確定できても、判決を出す犯意軽重の解釈(善悪の度合い)はもっと難しい。これも事実から解釈していくわけだが事実、事物から「心の解釈」をしていくことになる。
 このすべてに対して、「検察のシナリオにある解釈が最も重要だと語っているから誤りだ」と、上のメデジンスキー批判はその程度の批判しか提起できていないと言いうる。最近あった犯罪の事実確認でさえこれだけ難しいのに、歴史の事実確認に対してならどれだけ解釈が大事になってくることか。

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随筆 音楽の習い方一例  文科系

2022年03月18日 16時51分47秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 停年で完全リタイアー後の二〇〇三年、六二歳からそれまで拙すぎる一人習いであったクラシック・ギターの教室通いを始めた。易しい読譜弾きは辛うじてできたが、教室通いの初めに思うところあって「暗譜主義」に徹しようと決めて、今日まで一九年、現在なお教室に通い、発表会にも出続けている。

 新しい曲はとにかく先ず暗譜して、それから弾き込みにかかる。その後長く弾き込んで一応完成して気に入ったものは暗譜曲群に加え、習得中の曲の他に暗譜群を月に数回りずつ弾き回して、これらの暗譜を維持していく。新たに好きな曲が生まれたら、暗譜群からどれかを落として加えるなどの作業も重ね、現在の暗譜群は大小二五曲ほどになっている。教室入門の時に自分で作り上げた暗譜主義の狙いを書いてみよう。

  譜を見ながら弾く場合には曲想などを改良していく余裕など次第になくなっていくはずの老人は下手になるのも速いだろうと予想した。そういう読譜弾きに比べて暗譜が維持されていれば曲に想いを込める余裕もより長く持てるはずで、音楽の楽しさが増すだけでなく、その楽しさもより長く維持できるはずだと考えてきた。そしてこういう楽器生活二〇年、事実初めに目論んだ通りで、暗譜群曲なら今でも余裕を持って弾くことができて、今でも日々年々曲の部分改良などが可能なのだ。そればかりか、八一歳になろうとする僕が、時間をかける苦労は多くなったが今まだなんとか暗譜曲を作れるのも、こういう暗譜の仕方に習熟してきたからだと考えている。多分、暗譜を努力し続けてきて、音、音声に関わる脳も若いのだろう。こんな若さも、年寄りの冷や水習いにはうってつけのやり方だと考えてきたその副産物なのだ。まー読譜でたくさんの曲を「弾ける」よりも、永年暗譜を維持発展させてきた少数精鋭曲を日々あれこれ弾き回して、その上最近では年に一~二曲の新曲を暗譜してきたと捉えていただけば良い。ただしこの二年ほどはもう暗譜群に入れた曲はない。とても易しい曲の「半分暗譜の読譜弾き」というやり方で、先生との二重奏を楽しんだり、暗譜群の中の発表会では弾けていない難曲に何度目かの挑戦をしたりしている。

  さて、こういう拙い経験でこんな曲が弾けるというと、ギターを知っている人は驚くはずだ。ソルの「モーツアルト魔笛の変奏曲」、バリオスの「大聖堂全三楽章」、同「郷愁のショーロ」などだ。ただし、この前二曲は私的なホームコンサートでは弾いたことがあっても、発表会では弾けていない。先生の前で弾くと「発表会も大丈夫です」と言われても、スポットが当たった舞台では失敗するからである。ちなみに、三番目の曲はとにかく好きなので五年ほど前の発表会で弾いてみたが、酷い出来だった。が、とにかく、暗譜主義だと停年後の年寄りの冷や水でも結構難しい曲も弾けるようになるということだ。このやり方は、三味線、琴、ピアノにも盲目の名人がいるという事実からヒントを得たもので、僕として大正解だと思っている。

 なお、僕がランナーであることがどれだけギターレッスンの武器になったかという事実も付け加えておきたい。有酸素運動で身体、筋肉・血管が若い分、今でも三時間ぶっ続け練習などと無理が利き、身体も痛めないのである。七〇歳を超えると皆が身体を痛める人が多いという不自然なギターのあの姿勢や手腕遣いも、ランに比べたら身体中の疲労物質を回収する酸素消費量など問題にならぬ少なさということだろう。ギターの二時間ぐらいではどこも疲労しないというランナーであり続けている間は、ギター教室通いは続けられるはずだ。

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TBS報道番組で「史学の初歩的誤り」 文科系

2022年03月16日 13時33分48秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 サッカーと気になる映画以外はテレビをめったに見ない僕が珍しくBS・TBSの20時から「報道1930」とかのウクライナ報道番組を見た。この番組のMCが、歴史学をちょっと囓っていれば絶対にやらないはずのとんでもない発言を鬼の首でも取ったように堂々と語っていて驚いた。

 戦争をめぐる両国停戦交渉団のロシア側代表トップは、メディンスキーという作家上がりの大統領補佐官。この人物の「いい加減さ」を示す証拠として、番組MCがこんなことを語っている。
「この人物の著作にこんな記述があった。『歴史は事実よりも解釈の方が重要なのだ』などと、とんでもないことを書いている」

 MCにこう語らせるというのは、この番組制作の上層部もこのシナリオを認めてきたということだろう。が、歴史学における事実と解釈というのは永遠の難問なのであって、この難問を考えたこともない人こそナイーブに「解釈偏重なんてとんでもない」と語れるもの。自分が歴史を語る時には常に事実だけを語っているつもりなのだ。まともな歴史家なら、そんな人はまずいないはずである。

 拙稿で恐縮だが、ここにこんな文章を書いたことがある。2020年7月12日のエントリー『書評「近現代日本史と歴史学」』からの抜粋である。

『 明治維新一つとっても、そのなかの例えば開国一つを採ってみても、これらを説明していくのに不可欠な重要な出来事一つずつを採ってみても、まず、当時の「無数の出来事の束」の中からこれらを重要として選び出した選択・解釈やその基準があるということだ。そういう解釈や基準は、日本史全体を動かしてきた要因などにも関わる過去の歴史学(者)らの諸学説などを踏まえれば踏まえるほど、精緻なもの、学問として水準の高いものになってくる。歴史を解釈する方法論が豊かになるほど、歴史の叙述が豊かで、精緻なものになるという事だ。 
 ところで、この解釈という事がまた、変わっていく。重大な新資料が出てくると換わるのは当然としても、解釈者自身らの時代も移り変わるところから歴史事実の束に臨む「問題意識」自身が変わるからである。近現代史における解釈変化の一例として、こんなことを著者はあげる。
 明治維新の基点である近代日本の始まりをどこに観るか自身が、変わったと。1950年代までの基点は1840年代の天保の改革の失政だったと観られていて、1960年にはペリー来航(1853年)がその基点に替わったというのである。歴史学会自身において、そのように通説が変わったと。』  

 「歴史的事実よりも解釈が重要だなどと、とんでもないことを語った」と言って、ある人物を貶めることなど到底できないことなのである。どんな人も事実を語っているつもりで、じつはその自分流解釈を語っているのだから。ただし、その解釈は事実、現実から外れず、別のそれらによって容易には崩されぬという意味において精緻な解釈でなければならないということだろう。これは何も歴史学だけの問題ではなくって、人間の思考に関わる主観と客観という哲学の難問でもあり続けてきたということも付け加えておきたい。

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 書評 『それでも、日本人は「戦争」選んだ』(加藤陽子)  文科系

2022年03月09日 15時28分06秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 東京大学大学院で日本近現代史を専攻とする加藤陽子教授のこの本を、ざっと走り読みした。元は2009年に朝日出版社から出たものだが、僕が読んだのは2017年の新潮文庫本である。
 この本のでき方がとても興味深くて、神奈川県の私立栄光学園歴史研究部の中一から高二までの学生さん20名ほどへの集中講義録を製本化したものなのだ。2007年の年末から正月にかけて5日間の講義、質疑応答などの報告書だが、参考文献、解説など総て含めると498ページという大作である。目次はこうなっている。序章 日本近現代史を考える 1章 日清戦争、2章 日露戦争、3章 第一次世界大戦、4章 満州事変と日中戦争、5章 太平洋戦争、と。

 いろんな紹介の仕方があるが、第4章のある一点に絞って抜粋という形を中心としてみたい。以下に紹介する中国人論客のような人物が戦前日本国家の要職にあったら、あのような戦争はなかったのではないかという思いを込めて。この思いは、加藤陽子氏が学生らに伝えたかった歴史学の最大問題、「歴史は科学か」「歴史とは現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」(英国の歴史家、E・H・カーのことば)という思考と不可分のものであると確信している。

 以下の舞台は、満州事変の後、日中戦争直前の1935年。社会思想専門の北京大学教授・胡適が唱えた「日本切腹 中国介錯論」を加藤陽子教授はこう紹介する。なお、胡適氏はこの後38年には、蒋介石によって駐米国大使に任じられている。

『 胡適は「アメリカとソビエトをこの問題に巻き込むには、中国が日本との戦争をまずは正面から引き受けて、二、三年間、負け続けることだ」といいます。このような考え方を蒋介石や汪兆銘の前で断言できる人はスゴイと思いませんか。・・・具体的にはこういいます。
 中国は絶大な犠牲を決心しなければならない。この絶大な犠牲の限界を考えるにあたり次の三つを覚悟しなければならない。第一に、中国沿岸の港湾や長江の下流地域がすべて占領される。そのためには、敵国は海軍を大動員しなければならない。第二に、河北、山東、チャハル、綏遠、山西、河南といった諸省は陥落し、占領される。そのためには、敵国は陸軍を大動員しなければならない。第三に、長江が封鎖され、財政が崩壊し、天津、上海も占領される。そのためには、日本は欧米と直接に衝突しなければいけない。我々はこのような困難な状況下におかれても、一切顧みないで苦戦を堅持していれば、二、三年以内に次の結果は期待できるだろう。[中略] 満州に駐在した日本軍が西方や南方に移動しなければならなくなり、ソ連はつけ込む機会が来たと判断する。世界中の人が中国に同情する。英米および香港、フィリピンが切迫した脅威を感じ、極東における居留民と利益を守ろうと、英米は軍艦を派遣せざるをえなくなる。太平洋の海戦がそれによって迫ってくる。・・・・・』

『 胡適の場合、三年はやられる、しかし、そうでもしなければアメリカとソビエトは極東に介入してこない、との暗い覚悟を明らかにしている。1935年の時点での予測ですよ。なのに45年までの実際の歴史の流れを正確に言い当てている文章だと思います。それでは、胡適の論の最後の部分を読んでおきましょう。
 以上のような状況に至ってからはじめて太平洋での世界戦争の実現を促進できる。したがって我々は、三、四年の間は他国参戦なしの単独の苦戦を覚悟しなければならない。日本の武士は切腹を自殺の方法とするが、その実行には介錯人が必要である。今日、日本は全民族切腹の道を歩いている。上記の戦略は「日本切腹、中国介錯」というこの八文字にまとめられよう。』

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ある書評 「運転免許は返納してはいけない」  文科系

2022年02月05日 05時43分33秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 この文章は、ある本の内容紹介である。そして、標記の言葉は、読み終わったばかりのこれ「70歳が老化の分かれ道」(詩想社 精神科医・和田秀樹著)第2章の中の一節の表題である。ここには、「免許を返納してはいけない」だけでなく、老人社会を騒がせて来た「返納の理由」もなんの根拠もない偽物であると、そんな内容が書いてあった。そのことを以下、本文抜粋だけで示してみよう。

『(筑波大学などの研究チームが2019年に公表した調査結果で)愛知県の65歳以上の男女2800人を追跡調査しました。・・・2006~2007年時点で要介護認定を受けておらず、運転をしている人に10年8月の時点で運転を続けているかあらためて聞き、認知機能を含めた健康状態を調べ、さらに16年11月まで追跡して、運転継続と要介護認定との関係を分析したのです。・・・その結果、10年時点で運転をやめていた人は、運転を続けた人に比べて、16年には要介護となるリスクが2.09倍にもなったのです』

『そもそも、実際に高齢者が事故を起こす確率は高くないのです。・・・もし、交通事故を減らそうと考えるのなら、圧倒的に多く事故を起こしている若年ドライバーの運転になんらかの手を打つほうが効果的です』
『高齢者専門の精神科医の立場から言わせていただくと、認知症が原因で、ブレーキとアクセルを間違えるなどということは、ほぼあり得ません。・・・車の運転ができるような人であれば、軽度の認知症でも、ブレーキとアクセルの区別がつかなくなるということは確率的にゼロに近いはずです』

 踏み間違いの原因はむしろ、『うっかりしたり、慌てたからなのです』。また『ほとんどが、薬による意識障害が原因ではないかと私は考えています』

 こうして、結論。
『データをもとに合理的に考えるなら、高齢者から免許を取り上げるなどということに、正当性は全くありません。お上に従う気質が染み付いている日本社会では、このようなことを行政が推進しても騒ぎが起こりませんが、人権意識が確立されている欧米社会では、高齢者に対する差別と言われかねないでしょう』

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書評 AERA最新号から「若々しさの秘訣」③  文科系

2022年01月11日 00時02分39秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

  今回は、401回目に書いたこの部分を要約する。以下の冒頭はその記事の名称。その後が、その記事中にこの順番であった中見出しである。
【 『若見えするには毛細血管を守れ』
「見た目と毛細血管年齢」「ゴースト血管のリスク」「大敵は加齢と高血糖」「下肢の筋肉を鍛える」「美肌にはチョコとナッツ」「(高カカオチョコのポリフェノールは)ワインのおよそ16倍」「体重平均約3キロ減」 】

 書かれている毛細血管を守り、「改善できる」方法はこうだ。走ったりして下肢を鍛え、人間細胞、血管細胞を老化させる活性酸素対策として高カカオチョコを1日30~40グラムか、高カカオアーモンドチョコ8粒を摂ること。が、その原理を知らない毛細血管防御法知識は、応用が利かない数学解法と同じ。以下は、その原理である。

 毛細血管とは、動脈と静脈の間にある網目状の細い血管であって、血管総延長の9割を占めるもの。身体のどこかでこれが詰まりがちとか壊れかけになると、そこに血液が流れにくいことになる。詰まりかけたり、壊れかけた毛細血管をゴースト血管と呼んでいるのである。するとどうなるか。酸素、栄養、ホルモンの運搬、老廃物回収・排出などができず、毛細血管も含めたその部分の細胞が死滅さえする。白血球が届かないから、免疫も弱くなるし、毛細血管が弱った部分では体温低下もおこる。さらには、脳へ行く血液には毛細血管でできた脳関門があって、そこが詰まるとアルツハイマーを発症させる。

 年齢よりも10歳も15歳も若く見える人が居るものだが、それは毛細血管が全体的に若い人。そのためにもやはり、昨日に書いたように『若々しさの秘訣は血と筋肉と骨にある』にプラスして、ポリフェノールなどのファイトケミカル摂取というのが結論のようだ。

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書評 AERA最新号から「若々しさの秘訣」②  文科系

2022年01月10日 10時51分14秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

  今回は、一昨日に書いたこの部分を要約する。
【 『若々しさの秘訣は血と筋肉と骨にある』
「筋肉量多いほど若い」「究極のトレーニング」「30代で肺年齢90歳」「『座る』より『立つ』」「骨の新陳代謝を促す」「『老化』の謎に迫る研究」 】

  筋肉量、肺年齢、骨の新陳代謝の3つを若くする最も手軽な方法なるものが書いてあるわけだ。

・筋肉量増強では、タバタトレーニングという4分間トレーニングを勧めている。たとえば「バーピージャンプなどちょっときつい運動を20秒やって、10秒休む」を1日に6~8セット、週2~3回で効果も高いのだそうだ。バーピージャンプとは、こういうものだ。
「①直立・②膝を曲げて座り込んで前に両手をつく・③両腕を伸ばしつつ曲がった脚を後ろに伸ばして腕立て伏せ準備の姿勢になる・④また②の姿勢に戻す・⑤④の姿勢からジャンプ」

・肺年齢の若さでは、運動して肺を使うことが要諦なのだが、「30分に一度は立つこと」が推奨されている。肺を壊さないためなのだそうだ。

・骨の新陳代謝で重視されるのは、骨の細胞から分泌されるオステオカルシンという骨ホルモンなのだそうだ。脳、筋力増強、全身代謝機能、男性ホルモン、免疫力などに関わるホルモンと言われ、こんな方法で鍛えられるという。「直立・両腕を伸ばして「前へ習え」姿勢とともに両踵を上げストンと落とす・直立」この1回を2秒でやって、1日50回100秒やろうとあった。

 ということすべてを考えてみたら、ランニングにはこのすべてが入っていると分かるのである。ちょっときつい運動だし、肺は大いに使うし、ミッドフット、フォアフットなどの走法では特に踵をストンと落とす。後もう一度この要約を行います。今度は前々回に見たこの部分です。

【 『若見えするには毛細血管を守れ』
「見た目と毛細血管年齢」「ゴースト血管のリスク」「大敵は加齢と高血糖」「下肢の筋肉を鍛える」「美肌にはチョコとナッツ」「(高カカオチョコのポリフェノールは)ワインのおよそ16倍」「体重平均約3キロ減」】

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八十路ランナーの手記(401)書評 AERA最新号から「若々しさの秘訣」①   文科系

2022年01月08日 22時03分50秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 本日発売された「AERA」1月17日号の新聞広告に、ランニングを通して「身体オタク」でもある僕にとって耳寄りの記事があったので、即買ってきた。キャッチコピーに当たる大見出しは3つ。記事も各3ページびっしりの3つ合計9ページという、冒頭の特集である。
『「気づけば老化」は止められる』
『若々しさの秘訣は血と筋肉と骨にある』
『若見えするには毛細血管を守れ』
 これらの詳細要約は、明日以降に書くとして、今日は取り敢えず後2記事の小見出しを順に紹介して予告編としておきたい。

『若々しさの秘訣は血と筋肉と骨にある』
「筋肉量多いほど若い」「究極のトレーニング」「30代で肺年齢90歳」「『座る』より『立つ』」「骨の新陳代謝を促す」「『老化』の謎に迫る研究」

『若見えするには毛細血管を守れ』
「見た目と毛細血管年齢」「ゴースト血管のリスク」「大敵は加齢と高血糖」「下肢の筋肉を鍛える」「美肌にはチョコとナッツ」「(高カカオチョコのポリフェノールは)ワインのおよそ16倍」「体重平均約3キロ減」

 本日の最後になるが、この特集のキモにもなっている体内年齢に関わって、ニュージーランドで長年かけて追跡研究され2015年に発表されたある研究成果の結論部分文章をそのまま紹介しておこう。以下はこの特集全体の「書き出し部分」にも当たる、いわば問題提起の位置に置かれたものだ。いわく『「働き盛り世代」こそ体内年齢に差が出る』

『体内年齢の差について、こんな報告がある。ニュージーランドで実施され、2015年に発表された「ダニーデン研究」では、同じ年齢の男女約千人を対象に、心臓・肝臓・腎臓の機能、血圧やコレステロールの状況など18の項目について、26歳から38歳までの12年間、追跡調査した。すると、38歳時点の体内年齢は28歳から61歳まで、なんと33歳もの開きがあったのだ』

(この記事紹介②に続く)

 本日ジムのマシンを14キロ走って、1月合計は43キロジャストになった。14キロを合計107分ほどとほぼ8キロ時で走ったのだが、帰宅時の疲労感が強かった。4日以来の中3日置きだったから脈拍が高かった事が原因だろう。このスピードなら130ちょっとのはずが、140近かったのである。明後日に用事があって走れないから明日も走りたいのだが、はて?

 

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僕が政治論以外も書くわけ  文科系

2021年12月04日 20時54分18秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 

 表記のことを、改めてまた載せたい。この文章は、今までもここに何回か定期的なように載せてきたもの。随筆、サッカー評論などなど一見9条とは遠く、無関係なようなことを僕はなぜここ「9条バトル」に書いてきたか。


 僕がまだ若い頃から、こんなことが当時の大学で当たり前であった左翼の世界の常識のように広く語られていた。「外では『民主的な夫』、家での実質は関白亭主。そんなのがごろごろ」。そういう男たちの政治論に接する機会があると、正直どこか斜めに構えてこれを聞いていたものだ。どんな偉い左翼人士に対しても。レーニンの著作にたびたび出てくるこういった内容の言葉も、そんなわけでなぜか身に染みて受け取れたものだった。
「どんな有力な反動政治家の気の利いた名演説や、そういう反動政治方針よりも、恐るべきものは人々の生活習慣である」
 こういう僕の身についた感覚から僕の左翼隣人、いや人間一般を観る目も、いつしかこうなっていた。その人の言葉を聞いていてもそれをそのままには信じず、実は、言葉をも参考にしつつその人の実生活がどうかといつも観察していた。誤解されては困るが、これは人間不信というのではなくって、自分をも含んだ以下のような人間認識と言ってよい。人は一般に自分自身を知っているわけではなくって、自分の行為と言葉が知らずに自分にとって重大な矛盾をはらんでいることなどはいっぱいあるものだ、と。こういう人間観は実は、哲学をちょっとでもまじめに学んだことがある者の宿命でもあろう。哲学史では、自覚が最も難しくって大切なことだと語ってきたのだから。ソクラテスの「汝自身を知れ」、近代以降でもデカルトの「私は、思う(疑う)。そういう私も含めてすべてを疑う私こそ、まず第一に存在すると言えるものだ」などは、みなこれと同じことを述べているものだ。

 さて、だとしたら政治論やこれに関わる思想開陳だけをやっていても何か広く本質的なことを語っているなんてことはないだろう。そんなのはリアリティーに欠けて、およそナンセンスなだけの政治論ということもあるし、「非現実的話」「非現実的世界」もはなはだしいことさえもあるわけである。それでこうなる。生活も語ってほしい。その人の最も生活らしい生活と言える、好きなこと、文化活動なんかも知りたい。どういう人がその論を語っているかということもなければ、説得力不十分なのではないか、などなどと。もちろん、何を書いてもそれが文章である限りは嘘も書けるのだけれど、その人の実際や自覚のにおいのしない政治論だけの話よりはまだはるかにましだろうし、随筆なんかでもリアリティーのない文章は結構馬脚が顕れているものだと、などなど、そういうことである。
 
 やがて、こんな風にも考えるようになった。幸せな活動が自分自身に実質希薄な人が人を幸せにするなんて?とか、人の困難を除くことだけが幸せと語っているに等しい人の言葉なんて?とか。そういう人を見ると今の僕は、まずこう言いたくなる。人の困難を除くよりもまず、自分、人生にはこれだけ楽しいこともあると子孫に実際に示して見せてみろよ、と。

 なお、以上は政治論だけをやっているのだと、人生の一断面の話だけしているという自覚がある論じ方ならばそれはそれでよく、五月蠅いことは言わない。だが、当時の左翼政治論壇では、こんなことさえ語られたのである。「歴史進歩の方向に沿って進むのが、人間のあるべき道である」と。つまり、政治と哲学が結びついていたのだ。それどころか、戦前から政治が文学や哲学や政治学、そういう学者たちの上位に君臨していたと言える現象のなんと多かったことか。
 そんなわけで僕は、当時では当たり前であった大学自治会には近づいたことがなかった。そして、左翼になってからもこの「政治優位哲学」には常に距離を置いていたものだった。これはなぜか僕の宿痾のようなものになっていた。

 なお、こういう「公的な場所」に「私的な文章」を載せるなんて?という感覚も日本には非常に多いはずだ。こういう「公私の峻別」がまた、日本の公的なもののリアリティーをなくしてはいなかったか。公的発言に私的な事を入れると、まるで何か邪な意図があるに違いないとでも言うような。逆に日本ではもっともっとこんな事が必要なのだろう。政治をもっと私的な事に引きつけて、随筆風に語ること。正真正銘の公私混同はいけないが、私の実際に裏付けられないような公(の言葉)は日本という国においてはそのままでは、こういったものと同等扱いされることも多いはずだ。自分の子供をエリートにするためだけに高給をもらっているに等しい文科省官僚の公的発言、「貴男が男女平等を語っているの?」と連れ合いに冷笑される亭主。

 ややこしい内容を、舌足らずに書いたなと、自分でも隔靴掻痒。最近のここをお読み頂いている皆様にはどうか、意のある所をお酌み取り頂きたい。なお僕の文章はブログも同人誌随筆も、ほぼすべて連れ合いや同居に等しい娘にもしょっちゅう読んでもらっている。例えば、ハーちゃん随筆などは、彼らとの対話、共同生活の場所にもなっている。
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書評 『人新世の「資本論」』、その概要  文科系

2021年11月12日 08時22分01秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 

 このベストセラー本の内容紹介を3回にわたってやって来たが、最後に標記の通り、全体の概要を粗い箇条書きにしておきたい。

①今までのマルクス解釈は生産力至上主義であった。いわゆる生産力が生産関係を換え、この経済転換が上部構造を変えていくという命題を絶対視して、資本主義生産関係の様々な政経的諸悪現象などを指摘、批判する政党が政権も取ることができて、まともな生産関係も生みだすことができるというように。こういう考え方からは、(現に生産力が発展していた)西欧中心主義や、政治主義という特徴も出てくることになる。

②人類による地球破壊、地球環境問題、これに対するグリーンニューディール政策への期待などにも、世界的な需要拡大という形で生産力至上主義が顕れている。左翼やリベラルの間にさえ、気候ケインズ主義があるのではないか。資本主義のままで地球破壊が止められるというのは、幻想である。いまでも、地球荒廃のしわ寄せが南部に行き、先進国には見えにくくなっているだけだ。

③晩期マルクスは、資本論2、3巻の研究・構想途中で亡くなったが、世界中の農村共同体などの研究を通じて、生産力至上主義から脱皮しつつあった。その考え方によれば、今の「人新世」世界を止められるという意味で求められている方向は、脱成長コミュニズム(コモン、社会的共有財を、資本所有に抗してそれらしく確立し直していくこと)である。これには、五つの柱がある。①使用価値経済への転換、②労働時間の短縮、③画一的な分業の廃止、④生産過程の民主化、⑤エッセンシャルワークの重視。具体的なこれの形は、今世界に広がり、結びつきつつある地産地消の生産消費共同体とその世界的結合、およびそれが作る政治である。

④この典型例は、バルセロナ市。リーマンショックのあおりをまともに受けて失業率25%というスペインの苦境から、労働者協同組合を中心にしてこんな形で復興している。生協、共済、有機農産品グループなど無数の協同組合がこれと結びついて政党を作り、その政党が2016年に市長選挙に勝利した。そして同時に、「人新世」の被害をまともに受けている地球南部(アフリカ、南米など)の77諸都市と世界的連携を取りあっている。これらの諸都市は特に、グローバル企業によって民営化されてしまった水道事業を公営化する運動などに知恵を寄せ合っている。他にも、1993年から中南米に打ち立てられて来た国際農民組織、ヴィア・カンペシーナは全世界約2億人と関わりを持っている。これらの運動は、食糧主権と気候正義を柱としているが、南ア食糧主権運動もその典型の一つだ。飢餓率26%である上に、ポルトガル一国と同じ量のCO2を出すあるエネルギー資源企業を持った国だから、食料輸出が問題になっているのである。

 

(なお、三回に分けた「各章概要」というより詳しい要約が、当ブログにあります。2月21、22日、および3月1日に)

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「最強の野菜スープ」が好評   文科系

2021年10月29日 06時37分24秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

      野菜スープのアレンジ効用  S・Yさんの作品です

 同人の野菜スープについての資料(原稿)を見て、さっそく真似て作ってみた。
 今までに冬の料理の定番として、似たようなものが食卓に並ぶことはあったが、大鍋でキャベツ、大根、人参、玉葱を味付け無しで煮込んだのは初めてである。
 その大量の野菜スープを冷ましてから大きなタッパーに移して冷蔵庫へ入れる。そして食事時、必要に応じて小鍋に取り分ける。その時々で固形コンソメや顆粒の鶏がらスープで味付け、また和風だしで八丁味噌を入れたり、だし醤油などで雑煮にも。中身も厚切りベーコン、ジャガイモの角切り、コーン、粗挽きソーセージ、鶏肉団子など変化をつけるのが楽しい。時には麺を入れたりして家族にも評判がいい。なにより簡単にたくさんの野菜と美味しいものが食べられるのが一番だ。冷蔵庫で三日ほどは保存がきく。

 このところ周囲に伴侶を亡くした一人暮らしの人が増えた。サークル仲間やご近所、友だちにも多い。そんな年代になったのだとしみじみと感じる。
 友だちなどは「独りは寂しいのと気楽なのが半々ね」「人生の残り少ない時間を、自分で自由に使えるのは嬉しいわ」「気持ちの上で足かせが取れた感じよ」と、彼女らは意外とサバサバとしている。経済的に安定して、不安がないのもあるのだろうが。
 ただ共通して困っているのは、一人分の食事、少ない量の調理法だという。
 そこで私は覚えたての野菜スープの作り方を伝えた。もちろん大いに喜んでもらえた。

 

 というこのスープを紹介した元の作品も、ここに改めて再掲します。

  「最強の野菜スープ」 文科系の作品です    

「この子は野菜を馬のように食べますから、よろしくお願いします」。結婚式前に母が今の連れ合いに改まったように姿勢を正してお願いしていたこの言葉をいまだに覚えているのはなぜなのか。このごろはこれを思い出すことさらに多く、八十路過ぎた感傷も絡んでかしみじみ感じられるのが〈母のこの言葉、何と有り難いものだったことか!〉。八十過ぎてもランナーを続けられ、活動年齢が延びているその原動力がスポーツ好きと並んで間違いなくここにあるようだ。最近このことを何倍も感じ、識り直した。

「野菜スープを昨晩作ってみました。簡単で味付けもコンソメだけで十分ですね。普段は毎日朝食時にファンケルの冷凍青汁を解凍して飲んでいますが、沢山の種類の野菜の栄養を摂るにはこの野菜スープは絶好ですね。両親も美味しいと言って喜んで食べていました。両親へ出すメニューが一つ増えたので助かります。また作り置きしておけば色々アレンジできますね。ありがとうございます。感謝です。」
 嬉しいコメントが返ってきた。僕のある日のブログ記事「最強の野菜スープ」に付けられたものである。三年越しのブログ友。神奈川に住み、十歳程年下の僕と同じランナー、Gさんの日記ブログには、九十歳を超えたご両親の介護日誌も入っている。即、応答した。
「Gさん、この優しい味はいわゆるダシなどの旨味の一種で、日本人も特に好きなもの。フランス料理の野菜と肉で作るミネストローネと同類の味なのも、なんか面白い。ご両親の『喜んで食べていました』も嬉しかった。大根やカボチャは甘さが出るし、トマトは酸味が加わる。タマネギやセロリはその独特の味を加えるし、ね。『作り置きして、アレンジ』の良いのがあったら教えてください」

「最強の野菜スープ」、これはこの六月に手に取ったある本の題名。著者、熊本大学名誉教授・前田浩は抗がん剤でノーベル賞級と世界に知られた権威であって、この本はスポーツマンにとっては格別に大事な大事な活性酸素対策の書である。「はじめに」に書かれているこの書の要点を示すスローガン風の文章と、野菜スープの作り方とを紹介してみよう。
「抗がん剤の研究者だからこそ、がん予防にも力を入れたい」
「野菜スープは猛毒の活性酸素を消去する物質の宝庫」
「野菜に含まれる各種の抗酸化物質が連携して害を防ぐ」
「野菜スープはがん予防に確実につながる」
 こういうスープの作り方だが、前田先生が常備している野菜は、キャベツ、タマネギ、ニンジン、かぼちゃで、これに各季節の緑黄色野菜を適宜加える。例えばそれら五百gほどをざく切り、一口大切りなどにして、重さの三倍(千五百ml)ほどの水を加えて火にかける。沸騰する直前に弱火にして、三十分煮込んで出来上がり。なお、ニンジン、大根などは皮をむかず、セロリやキャベツ、ブロッコリーなどの外側の色濃い葉なども、特に抗酸化物質が多い部分だから、よく洗って全部使う。調味料は入れなくても、好きなものを入れても良いが、僕は固形のコンソメスープの素を水五百mlに一つほど入れ、塩適宜をその日その人の好みに合わせて加える。特にこの液体スープ自身が生野菜の何十倍などという各種抗酸化物質の宝庫なのだそうだ。

 ここで、これらの背景理論を紹介してみよう。人間は運動するが、その時大気から取り入れる酸素とともに活性酸素を吸収してしまう。この活性酸素が人生最凶の細胞老化物質であって、これを中和しないと体中の細胞老化が進み、癌もできる。こういう活性酸素を中和してくれる抗酸化物質こそ、緑黄色野菜などが育むファイトケミカル。これでもって細胞老化、癌も防げるという理屈なのだ。ポリフェノールやカロテノイドを代表とするこれは、普通に野菜を食べるだけなら野菜の固い細胞壁、細胞膜に包まれたまま多くが便として放出されるが、煮込んで細胞膜が破れるとスープに溶け込んでくるのだ。だからこのスープが、細胞老化対策の宝物になるのだ、と。血管細胞の老化を防げば、免疫系強化などにも、いわゆる血色とか若い皮膚とか美容にもなるのだし、老人斑を薄くしたり、白内障や抗癌延命にも効いたという数々の実験結果も書かれていた。スポーツマンは特に、多量の空気と同時に取り込む活性酸素を中和させねばならないということだ。
 
 切り餅二つをチーンしてどんぶりのこれに入れれば立派な食事になる。生ソーセージや生協の豪牛「ヒレ肉の切れ端」をフライパンで焦げ目が付くまで炒めて入れると、香ばしくて美味い酒の肴だ。わがお連れ合いも「これを飲むようになって、よく寝られるようになった」と言いつつ、作り置いたのをどんどん活用してくれるから、上記分量が一日でなくなっていく。スポーツ習慣も加わって、「活動年齢百歳まで」になるかも知れない。

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書評、「報道現場」望月衣塑子  文科系

2021年10月17日 13時48分37秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 東京新聞記者の彼女のこの書の全7章は、この通り。①会見に出席できなくなった。②取材手法を問い直す。③日本学術会議問題と軍事研究。④フェイクとファクトの境界線。⑤ジェンダーという視点。⑥ウィシュマさんの死が私たちに問いかけるもの。⑦風穴を開ける人たち。

 上記においては、③と⑥に特に力が入っていると感じた。③は、最近の思ったより長いこの攻防史を追っているし、⑥はエネルギッシュに足で稼いだ記事で、彼女らしい正義感が清々しかった。なお、この10月に出たばかりの本だから、標記にあること以外にも最近社会で問題になったことが色色入っている。黒川検事長問題、伊藤詩織さんのこと、④に関わって橋本徹氏とのやり取りなどなど。

 それぞれの話が独立した物だから、以下に、記者として近ごろの政治で最も重要だと扱われていて、かつ僕にとって興味深かった「安倍政権とマスコミ」と言える部分をそのまま抜粋してみることにした。「記者と政治の関係」という彼女の本領、④の一部である。

『先日、元首相の小泉純一郎氏にインタビューする機会を得た。小泉氏に政治とメディアについて尋ねると、読売であっても朝日であっても「等距離外交がメディア対策の基本」と言っていた。小泉氏は、メディアは基本的に批判する側に立つもの、だから総理になって特定のメディアと懇意にしたり、逆に拒否したりしてはならないと認識していた。
 かつ、小泉氏はそこでメディアを敵に回すのではなく、朝夕ぶら下がり会見を行い、その様子がテレビに映ることで支持率を高めていった。ある種の才覚であり、希有な例だろう。
 小泉氏だけではなく、歴代の首相は、批判することがメディアの役割と割り切り、一定の距離を置いていたという。元朝日新聞の政治部記者、鮫島浩さんからこんな話をうかがった。
「私が見てきた自民党政権の政治家たちというのは、メディアに対する許容力があった。良くも悪くも批判を受けて立ちましょうという感じでした。今の石破さんのような感じです。いろいろ批判されても無視することはなく、まず批判に耳を傾けていました」
 一方で安倍氏は、自身を批判する勢力を敵とみなし、たとえば朝日新聞のことは国会で何度も名指しで取り上げて「ファクトチェックしてください」などと発言した。マス・メディアに対する不信感、左翼やリベラルなメディアに歴史を修正され、自虐史観を煽られてきたと思う人たちから、安倍氏の物言いは、なぜか一定の支持を得ていた。
 一部の熱狂的な支持層に乗り、メディアとの等距離外交もすっ飛ばした。朝日新聞の南彰記者の著書『政治部不信』(朝日新聞、20年)によると、在任中の単独インタビューの数は、産経新聞(夕刊フジ含む)32回に対し、朝日新聞は3回だという。
 かつてはそういったことを政治家側もしなかったから、メディアもすり寄ることはなかった。安倍氏に気に入られたいというメディアはどんどん近づいていき、安倍氏を批判するメディアを、なぜか産経新聞が批判するという構図になった。産経はネットにいち早く流し、世間では私も含め、「反日認定」「北朝鮮スパイ」などと認定されてしまう。異様な空間がネット上だけではなく、雑誌や新聞といった言論の世界でも広がってしまった。
 しかし今、SNSやネット空間を見ていると、かつてのように極端な言説を叫ぶ人は引き続きいるのだが、菅氏の長男である菅正剛氏の接待問題やオリンピックの開催についても、やっぱりおかしいものはおかしいという声が主流になっていると感じている。だいぶ正常化したのではないだろうか。
 それは、安倍氏が辞任する流れにもつながったのかもしれない。突然の休校要請やアベノマスクなど、首をかしげる政策が次々と打ち出されて、一方で日々多くの方が感染症で命を落としていく。危機管理を掲げていたのに実際はこうなのか、という批判が噴出していた。安倍氏を応援していた支持者の中にも解雇されたり、店を閉鎖せざるを得なくなった方もいるだろう。そういう怒りもあったのかもしれない。
 政権が近づいてきただけではなく、メディア側が政権に気に入られたいと忖度していった。それがメディアの萎縮を生んだ。ビジネスという点で言えば、安倍氏の発信を好意的に扱うことによって一部の支持層に読まれる。ビジネスとしてもかなり回った。』 

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今朝の朝日「政治家のことば」が面白かった!  文科系

2021年09月22日 13時32分07秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 今朝の朝日新聞12面「声」「オピニオン&フォーラム」欄のお題は「政治家のことば」。投稿内容みなが、まー鋭くて、面白かったこと。この新聞を取っていない人が多いこの地方の読者に紹介してみる。

 先ず筆頭が、『「仮定の話」答えるのがリーダー』と来た。この結びが言い分すべてを表していて、お見事。
『持てる限りの仮定力を発揮して備えておけば、災害の被害を少しは少なくできるはず。政治家の皆様にも仮定力を養い、研ぎ澄ませて下さることを切望してやみません』

『「誤解」するほど無能ではない』
『政治家は往々にして、「誤解を招いた」「誤解を与えた」と陳謝して発言を撤回するが、失礼だ。国民は発言の「真意」を正しく理解して批判しているのであって、誤解するほど無能ではない』
 
『「丁寧な説明」空しい決まり文句』
『もはや「丁寧な説明」はただの「ごり押し」に過ぎない。「丁寧」というまやかしの言葉で国を統治できると国民は見下されている』

『おわび「思っている」だけ?』
『最近、ちょっと待てよと思うようになった。これはおわびしたいと「思っている」だけであって、「おわびします」と謝罪しているわけではないんじゃないかと』

 これら全部鋭いなーと感心したのだけれど、これらの前後にこの欄の編集者らも、こんな事例を付け加えている。筆頭は当然『ご飯論法』で、次に来るのがこれ。『募ってはいるが募集はしていない』。加えて『「国民の命と健康を守る」と繰り返しつつ、緊急事態宣言下で五輪を決行した人』とあった。かくて『安心安全な五輪』も珍語になるのだし、『陰で「自宅療養」という名の自宅放置が進みました』が、この欄の見事な締めになっていた。

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『「新しい世界経済」の教科書』目次紹介の③  文科系

2021年09月14日 09時20分58秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

『「新しい世界経済」の教科書』目次紹介の③  
「第2部 地に墜ちた資本主義をこう変える」の後半

 一昨日紹介を始めたスティグリッツのこの本『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』目次の最大5項目は、次の通り。
「はじめに 今こそ『新しい世界経済』へ大転換する時」
「序章 不平等な経済システムをくつがえす」
「第1部 世界経済を危機に陥れた経済学の間違い」
「第2部 地に墜ちた資本主義をこう変える」
「おわりに アメリカ型グローバリズムを許すな」
 今日は、「第2部 地に墜ちた資本主義をこう変える」の後半、第5章29項目を目次にある通りに転載する。ちなみに、この本の章建ては通しナンバーになっていて、第2部の第1、2章が4、5章なのである。なお、この第2部は当然、第1部に呼応するように書かれているのであって、その第1部の全3章名称はこうなっていると、もう一度書いておく。

〝自由な市場〟が何を引き起こしたか  最富裕層にのみ奉仕する経済  なぜ賃金は低いままなのか

第5章 中間層を成長させる

中間層への投資
完全雇用を目標にする
金融政策は万能ではない
公共投資を復活させる
大規模なインフラ再構築を
公共輸送へのアクセスを広げる
労働者に権限を与える
交渉権を強める
政府の影響力を行使する
労働基準違反への罰則を強める
最低賃金を引き上げる
残業手当の対象となる所得の最低水準を上げる
女性と非白人にチャンスを
世界一ひどい収監率を下げる
移民労働者を保護する
有給病気休暇を法律化する
育児・介護休暇を法律化する
保育対策の経済効果
平等な賃金を実現する
女性が安心した出産を
家計の負担を軽減するためにできること
幼児期教育に投資する
公的融資を増やし、学資ローンを再構築する
医療を手ごろな価格にし、あらゆる人に提供する
郵便貯蓄銀行を通じた銀行サービスの利用を広げる
住宅金融システムを立ち直らせる
退職保障を向上させる
民主主義の不平等をただす
平等と繁栄が両立する経済

 この本の紹介につき、今回はこれで終わりです。後は内容について追々触れていくと思います。何度も言いますが、アメリカよりもずっと早く経済空洞化が起こり、不安定労働者ばかりが増えて貧しくなった国なのに、いまだに「安倍路線の継承」「サナエノミクス」などと言っている日本が情けなさすぎる思いです。

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