海側生活

「今さら」ではなく「今から」

純愛とは

2018年08月19日 | 海側生活

(初秋の富士山)
「あの小説は純愛ですね」と、前回の映画『マディソン郡の橋』を鑑賞した自分の感想文を見て、わざわざ別のメールで意見を述べた知人がいる。

恋愛感情を考えまとめるのは苦手だ、書きながら汗もかいている。時間もほかの三倍ほどかかってしまっている。前回もそうだったが---。

純愛という文字を見て咄嗟に違うと思った。自分は、あのストリーを大人の恋愛と情事という捉え方しかしていなかったから。
しかし自分が違うと思った根拠を思い起こしてみた。純愛と言う言葉に関し、純は若さに繋がり、十代や二十代の初々しい愛と言う概念があった。年齢を重ねてからの純愛となると、家庭を壊し、社会の秩序に抵抗し、培ってきたキャリアや信用などを放り出しても愛する人と一緒に暮らす一途な情熱を思い浮かべていた。

確かに、少年少女の無垢な愛があるとすれば、その純粋さは無知や未経験からくるものであり、愛情の深さとはあまり関係がない。少しばかり大人になり、人生設計を考え、自己保存の欲求に目覚めた後は、恋愛が巣作りと結びつき、生活に重なってゆく。男は健康な美人で子供を立派に育ててくれそうな女を選ぼうとするし、女は自分の将来を買うつもりで男を選ぶのは、ごく自然の成り行きなのだ。打算的と言えなくもないし、決して純粋ではないけれど、これは生存していく上での知恵だし本能だとも思う。結婚を前提とした恋愛であれば当然だ。だから恋愛を人生の設計図に絡ますことのない中年以降こそ、純愛が成り立つのかもしれない。

確かに中年になっても、若者顔負けの決断と行動力で、家庭を壊して新しい恋に人生をささげる男女はいる。しかし恋愛に生活の影が被さって来ると、人は愛だけを喰って生きていくわけにはいかず、夢の褥で眠る訳にもいかない。愛以外の社会的や経済的な煩雑にも関わらなければならず、純愛とは呼べない状況が生まれてくる。
こんな純愛が身軽な割に一方で悲しいのは、純愛の存在を証明するものがどこにも何もないと言う点だ。秘めたる恋が発覚し、妻や夫や子供などの罪なき第三者が傷つく事でしか、当人以外の者に、その恋愛を主張できないのだから。

中には親しい友人に打ち明けたり、『マディソン郡の橋』のフランチェスカのように、死んだ後、息子や娘に告白するという方法もあるが、これはやはり純愛道に反し邪道だと思う。

どうせなら、当人たち以外には誰にも知られないまま、死と共に永遠に無くなるのが純愛であって欲しいような気がするのだが---。