海側生活

「今さら」ではなく「今から」

最後の恋

2018年08月10日 | 海側生活

    (江の島・東浜灯台)
大人の恋は忙しい。
立秋前の酷暑が続いたある夜に、無造作に撮り溜めたBS映画番組の録画の中から『マディソン郡の橋』を見た。封切られた時に見たから二度目の鑑賞になる。

以前に見た時はこんな印象は残らなかったが、大人というか中年の男女の場合、恋愛と情事を区別するのはとても難しい気がする。肉体の関わりを持たない恋愛というのは、中年には不自然なことで、性と感情がピタリと一致しているのが中年の恋というものだろう。
恋をすれば相手の肉体までも望むし、この点女性は特にそれが強い。「あの人への気持ちは自分でもよくは分からないけど、会えば抱かれたいと思う---」と困った顔で告白した五十代の女性を思い出す。
『マディソン郡の橋』のフランチェスカとキンケイドは出会って僅かの間に肉体の関係を持った。この早さ、躊躇いの無さは、若い男女であれば恋でなく、情事とみなされも仕方がないだろう。二十代の男女が出会って僅かの間に肉体関係を結べば道徳の乱れやいい加減さが感じられてしまうが、フランチェスカとキンケイドの年齢が、こうした汚れを拭い去り、恋愛の激しさを印象付けているのだろう。しかし中年の恋愛は情事とよく似ているし、もしかしたら同じものかもしれない。
二人はたった四日間だけ、火のように愛し合い別れるが、どうしてこんなに慌ただしく求め合い、忙しく諦めるのだろう。この気ぜわしさ、荒々しいまでの接近と別れが、この映画を面白く強いものにしている。きっと中年の恋だから見る者を納得させたに違いない。

中年には人生の残りが少ないという焦りがある。人生とは命ではなく、男としてまた女としての命の事で、これが最後の恋、最後の相手との思いが、心や体を波立たせ相手に走らせるのだ。
のんびりと手続きを踏んでいる余裕などないのだ。
二人が中年でなかったら、この映画は行きずりに肉体を求め合った、つまらない一作になっていたに違いない。人生の終着点のような鐘の音が聞こえてきたおかげで、見応えのある恋愛映画だった。

ともかく中年の恋は熱く忙しい。