海側生活

「今さら」ではなく「今から」

伝説も創った義経

2017年05月05日 | 鎌倉散策

「さんさ踊り」/腰越・鎌倉
「義経まつり」に初めて足を運んだ、先月の中旬の晴れた日。鎌倉・腰越での言わずと知れた源義経の慰霊法要だ。

既に過去58年も続いているそうだ。会場は、平家を壇ノ浦で滅亡させ鎌倉に凱旋しようとした義経が異母兄・頼朝の不興を解くために、止め置かれた腰越の満福寺。異心は無く許しを請う、世に言う「腰越状」を認めたお寺だ。腰越状の全文は『吾妻鏡』に収録され何度も読んでいるが、弁慶筆と伝えるものが寺内にある。
尚、満福寺の寺紋は笹竜胆で、源氏ゆかりの寺であるということを示している。本堂内には鎌倉彫の技法を取り入れた漆画で表と裏側の三十二面の襖絵がある。物語で有名な義経、静御前、弁慶にまつわる名場面が彩も鮮やかに描かれ、一枚ずつ観ていくうちに、忘れかけていた幼い時の記憶が蘇ってくる。

義経は幼名を牛若丸と呼ばれた。
まだ乳飲み子だった時、平治の乱で父と死別する。その後、僧として生きよと諭され預けられた鞍馬山での修業、弁慶との出会い、平家との一ノ谷、屋島、壇ノ浦などの合戦での大活躍。そして兄・頼朝が居る鎌倉への凱旋。しかし頼朝は鎌倉入りを許さなかった。
義経が頼朝の怒りを買った原因は、『吾妻鏡』によると、まだ官位を与えることが出来る地位にない頼朝の存在を根本から揺るがすものだった。 また義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失したことは頼朝の戦後構想を破壊するものであったとされている。
懸命の「腰越状」は功を奏さず、そして京都に引き返した後も、兄が差し向けた追っ手からの平泉までの苦難の逃避行地での愛妾・静との別れ、弁慶との主従の絆などエピソードの数々が思い出される。これらは後に創作された物語とは言え、幼心に強烈な印象が刷り込まれている。 

山伏姿に身をやつした義経が平泉への途中だった頃、吉野で捕えられた静は、鎌倉に送られ、そこで義経の子を出産した。しかし男子だったため殺害された。当時の武家社会での習いとは言え、現代に生きている者にとって、やりきれない気持ちだけが残ってしまう。
奥州の藤原秀衡を頼った義経だったが、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に籠り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であったと言う。

頼朝は義経や藤原氏の怨念を鎮めるために鎌倉に中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して永福寺(ようふくじ)を建立した。焼失して無くなったが、跡地の発掘調査もほぼ終わった。これから行政は復元するのか?出来るのか?

静の記念碑や墓と言われている所は、北海道から福岡まで十数か所にも及ぶ。
弁慶の墓と言い伝えられている塚が神奈川県/藤沢や平塚にある。又「弁慶まつり」が出身地とされる和歌山県田辺市で毎年行われている。
義経は、後に悲劇の武将の薄幸のイ メージを形成され、ついには「判官贔屓」という特有の心理まで醸成された。また平泉/衣川では死んでいない、北海道から大陸に渡りジンギスカンに身を変えたと言う創作物まで登場した。

「義経まつり」では、江ノ電と並行している大通りを、当時の武士装束を付けた甲冑隊ほか、地元の小・中・高校の吹奏部が賑やかに行進した。中でも目を引いたのは「さんさ踊り」だ。
岩手県・平泉から参加した高校生グループが、響き渡る太鼓の音に合わせ軽快な掛け声にのせにこやかに舞っていた。

頼朝は歴史を創った、義経は伝説を創った。


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1 コメント

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Unknown (宮本靖夫)
2017-05-09 10:28:48

鎌倉の愛憎覆ふ新樹光

いつの時代も権力者には、絶対にぶれない信念とその裏づけとなる強烈な欲求がなければならない。正に頼朝はそれを持っていた。その功罪は後の歴史家に委ねるとして命がけで貫き通すエネルギーがなければならないのだろう。自然はそれら全てを包み込む
包容力がある。
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