(イワガラミ/東慶寺)
豊臣家最後の姫・天秀尼(てんしゅうに)は日本の女性史の中でも、あまりその名を知られていない女性の一人だろう。
彼女の父は豊臣秀頼で祖父は豊臣秀吉だ。祖母は淀君(茶々)で曾祖母は織田信長の妹・お市だ。しかしお市や淀君が有名なのに比べて、彼女の存在は殆ど知られていない。それどころか豊臣秀頼に子供がいたのかと不思議な顔をする人が多いくらいだ。
彼女は記録からしても紛れもなく秀頼の娘である。但し母は正室の千姫(父は徳川二代将軍・秀忠、母は淀君の妹・お江)ではない。千姫と秀忠との間には一人の子供も生まれなかった。彼女の母は秀頼の側室だが、その名前などはハッキリしない。又彼女の幼名でさえ文献には全く出てこない。
彼女は歴史の中で長く忘れられていた。日本で最も有名な家系に属し、歴史上の大事件の中で数奇な運命を辿っている。その個人生活もドラマチックだが、自身の生涯が終わった後も、尚、女性史の上で大きな意味を持ち続ける存在となった。
もし彼女が千姫を母として生まれたのならば、例え女児であろうと天下を上げての大騒ぎをしたに違いない。あいにく彼女は側室腹だった。誰からも注目されず、ヒッソリと生きねばならぬ宿命は、早くも誕生のその時点から、彼女に付きまとい始めていたのかもしれない。
大阪冬の陣での大阪城落城の時、彼女は六歳だった。この時、父・秀頼と祖母・淀君は落城の炎の中でその生涯を終える。
落城の火から逃れた彼女たちは捉われた。結果として兄は斬首され、彼女は千姫が養女にすることで助命され、家康の意向にて七歳で剃髪し尼寺・東慶寺に入った。やがて、二十世住職に就く。
三十七歳の生涯を終えるまでの東慶寺での生活ぶりは記録が乏しいと言う。
お市や淀君に比べれば、現世から隔離されたその生涯は華やかさに欠けた味気ないものに映る。しかし祖母や曾祖母がやらなかったことを一つだけ行った。お市は実家の織田家のために生きた。淀君は我が子・秀頼の出世に全てを賭けた。ひたすらな生き方には共感させるものもあるが、しかしそれらは全て自分の子や、身内に対する利己的な献身である。
しかし肉親を持つことを許されない生涯を強いられた天秀尼は、後に幕府公認の駆け込み寺として女人救済の実を結んだ。縁切り寺法は離婚を望み東慶寺に駆け込んだ延べ2000人の女性の思いを成就させたと言う。
お墓がある東慶寺には今、「忠実」の花言葉を持つイワガラミが本堂の裏側の湿った日陰の石垣の全体に無数の、しかもひっそりと白い花を咲かせ始めた。株は一本だと言う。