海側生活

「今さら」ではなく「今から」

奇縁か?必然か?

2015年10月14日 | 鎌倉散策

                        (大巧寺/鎌倉)
必然だったのか?

鎌倉の街の東方面を歩いた。今は行事らしい行事も無く、紅葉を愛でるには一か月以上もまだ早い。人影もまばらで修学旅行の学生も見かけない。紫外線も強くなく、柔らかい陽射しが体の中まで入って来るのが心地良い。
銀杏の黄葉が進み、楓も枝先から紅葉が始まった。歩道には落葉がサラッサラッと早くも冬支度を始めたようだ。
途中、西御門の源頼朝の墓所に立ち寄った。ここに立つと、いつも鎌倉の原点に舞い戻った気がする。同時に日本の中世から現代に至る社会構造の変化の源に触れるような思いだ。

ほぼ毎週見るNHKの「花燃ゆ」では、幕末の京都を舞台にした、朝廷を巡る複雑な政争の展開もアッサリと描かれてしまった。早くも主人公は群馬県に行ってしまった。
禁門の変(1864年)では、長州藩が京都での復権を目指して会津藩の排除に挑んだ武力衝突で京都御所付近が最大の戦闘地となった。
幕府側の薩摩藩と長州藩は敵味方となり多数の戦死者を出した。長州藩は大敗し戦死者は265名、幕府軍は会津藩や薩摩藩など97名と記録に残る。結末は、長州藩は御所に向けて発砲した罪で朝敵となり、この事が第一次長州征伐へと繋がる。この頃京都は人口50万人、洛中は三日三晩燃え続け、2万8000戸が焼失したと伝えられている。

薩摩藩の始まりは島津忠久で、「大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局は源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とする説が、『吾妻鏡』には記述がないが、島津氏作成の史料である『島津国史』や『島津氏正統系図』などに記されて居るという。少なくとも現在の島津家自体はこの頼朝落胤説を「公式」な出自としている。
現在でも頼朝祭(頼朝の命日・4/13)では列席者の最初に玉串を奉納している。

長州藩の始まりは、鎌倉幕府・頼朝の側近の大江廣元・政所初代別当の四男・大江季光を祖とする一族。

1600年の天下分け目の戦い・関ヶ原の戦では両藩とも敗れた西側に味方した。
西軍に不信を抱いていた薩摩藩・島津義弘は、犠牲者を出しながらも戦わず敵中突破を敢行し海路逃走し鹿児島へたどり着いた。島津家は減地されることなく本領安堵を得ることができた。しかしあくまでも外様藩だった。江戸時代になってからは徳川家と三度も婚姻関係を結んだ。一方幕府から木曽川などの治水工事を命じられ薩摩藩関係者に多数の死者が出た「宝暦治水事件」などがあった。これが後の倒幕運動に繋がったのか。

西軍の総大将に就任した毛利藩・毛利輝元であるが、結果として元々あった毛利領現在の山口県、広島県、島根県(120万石)から山口県だけ(36万石)まで一気に減らされた毛利家は、その後江戸時代を通じ徳川家に対する遺恨を抱き続け、その恨みは260年後の幕末に「倒幕運動」となって爆発することになったのか。

禁門の変の後、政治的・軍事的同盟である『薩長同盟』が結ばれた。仲介役として大きな役割を果たしたのが土佐藩浪士の坂本龍馬と中岡慎太郎だった。
明治維新はなるべくしてなったのかな、奇縁を感じる。

今、源頼朝の墓のある大倉山の、やや東側の高台に大江廣元・季光と毛利忠久の墓が三基並び佇んでいる。

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1 コメント

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Unknown (宮本靖夫)
2015-10-19 15:47:40
   そぞろ寒意識の底の深き縁
本人も知らない力によって、方向付けられているということがあります。それを因縁とか、必然などと呼んでいますが、歴史にはそんなことを感じさせることが結構多いですね。もしかしたら
人間の意識もその辺にあるのかもしれません。
だとすれば、俺が俺がという態度もみっともないですし、おかげおかげの方がいいですね。
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