(常立寺/藤沢・江の島)
還暦を過ぎて久しく時が流れた。
何と凄いトシヨリになったものだ!まるで海図の無い海に入ったようだ。見知らぬ森に迷い込んだようでもある。何しろこれまで、こんな凄いトシを経験したことがないので、毎日に戸惑うばかりである。
若かった頃、他愛無い憧れや、身を灼くような煩悩や、いらざる妬みに苦しんだ。そして密かに思っていた。いずれトシを重ねれば欲望は薄れていく。憧れも煩悩も妬みも薄れ、トシとともに消えていく、それが老いの効用だと。
しかし凄いトシヨリになってみて解ったが、欲望はちっとも薄れない。薄らいだフリするのが上手になっただけだ。今も尚、他愛ないことに憧れ、身を灼くような煩悩に苦しみ、いらざる妬みを抱いている。
トシをとり、経験を重ねると利口になると思っていたが違っていた。経験が教えるのはせいぜい用心深くなることぐらいだ。自分を含め同年輩を観察していて分かったが、トシを取ると学ばない。すでに所有している知識をアレンジするだけである。トシを取ると学ばないのは、トシを取ると指図したがり、そのくせ当の自分は指図されるのを好まないのと正確に対になっている。
地球の引力を知るのは、飛び上がって落下する時である。健康の有り難さは病気にならないと分からない。となると若さは老いた身になって初めて判明する。中でも老化が分かるのは記憶力の部分だ。
「トシヨリとは」いつも持ち歩く手帳に、そんな見出しのページがあり、凄いトシヨリになって気付いた事を書き入れている。順に番号を振っているが、今の数字は28とある。それは「トシヨリになれば、経験がその人間を知恵者にする、ところがその頃、モウロクもまた彼に追いつく」とある。
番号が50になったら、トシヨリブックにまとめる積りだが、そう言えば17に「トシヨリは何であれ整理してまとめたがる」とあった。
体力が急激に落ちてきたことを自覚すると自分も歳をとったなーと感じますが、普段はそう意識することはありません。でも、最近は知らないことを恥じたり、引け目を感じることがなくなりました。見栄をはったり、虚勢をはることもなくなりました。人間ができてきたのではありません。見栄や虚勢を張って疲れるよりも、そんなことも知らないのかと馬鹿にされているほうが体が楽だからです。というわけでこんな俳句になりました。