海側生活

「今さら」ではなく「今から」

一本の鉛筆

2012年02月22日 | 思い出した

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横須賀線の下り電車で空いている席に座ろうとしたら、そこに一本の鉛筆が転がっていた
手にとると、半分近く使われた鉛筆だった。

落とし主が現れるかも知れないと考え、膝に置いた手に持ったままにしていた。掌に抱え指先で、その六角形の鉛筆を転がすうちに、先が随分丸っこくて、持ち難くて書き難くないだろうかと思った。

シャープペンや鉛筆削り機なんて便利なものなど無かった小学生だった頃、鉛筆削りが苦手だった。
鉛筆の先端2cm程度を先が細くなるように削りたい、芯の先も削り尖らせたいと考えても、小刀の微妙な力の掛け方が上手くいかなかった。木を削る時、芯まで小刀が食い込み、使うとすぐポキッと芯が折れてしまうような削り方しか出来なかった。また芯の削り方によって、書いた一つの字が縦の線と横の線が、太くなったり細くなったりと線の幅が違い、何ともおかしなカタチの字をしていた。

鉛筆入れには消しゴムや小刀の他、長い鉛筆や随分と使い短くなった鉛筆など様々で、芯が折れていて、家に帰ったら削らなければならない鉛筆も、いつも何本かはあった。
また新しく買って貰った長い鉛筆には、削らない側の端部の一面の塗装を薄く削ぎ、露出させた木地面に氏名などを書く事が楽しみでもあった。

寒い日には火鉢の側に座り、母親が良く削ってくれた。
キレイに削られる鉛筆の先を見詰めながら、小刀を手にした母親の指先に幾つもの荒れた筋を眼にした。何故だかこの瞬間、親の言う事は良く聞こうと思った。
そして新しくなった鉛筆を手にして宿題の教科書を広げた時、削られて短くなった分だけ賢くなったような気がした。

駅に着くまでの間、落とし主は現れなかった。
この夜、机に向かった際、改めて半分近く使われた鉛筆をジッと観た。

鉛筆の削り屑が炭火に落ちたのか、どこか遠くから懐かしい香りが漂って来た様な気がした。