海側生活

「今さら」ではなく「今から」

サヨナラ国立

2013年12月06日 | 思い出した

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                         (国立競技場)

会場に着いたのは、キックオフの二時間も前だったのに、どの入口も四列の人の波が300メートルぐらい並んでいる。

周りの神宮外苑の街路樹も赤や黄に染まり、去りゆく秋を楽しんでいるみたいだ。目指す入口近くには、競技場内の狭いスペースで吹奏部が音合わせを行っている。懐かしい校歌や応援歌が耳に届く。

紫紺とエンジのジャージが文字通りぶつかり合う。この競技場では最後の試合になる伝統の一戦だ。
2020年の東京オリンピックに備え、建て替えも決まっている。数々の名勝負を生んだ競技場には、様々な世代の思い出がある。

卵型ですり鉢状の観客席に声援が渦巻く。「メイジ!」「ワセダ!」。少年からオジサンやオバサンまでが大声を張り上げる。ここにも引き継がれる伝統がある。
47000人の大歓声は、遠く過ぎ去った切なかった感情を、ふと思い出させてしまった。上京して間がない頃、ホームシックで遣り切れなくて、また寂しさを紛らわせたくて、幾度となく、ここの大観衆の中に身を置いた日々が頭をよぎった

やがてノーサイド。
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肩を落として 土をはらった
ゆるやかな冬の日の黄昏に
彼はもう二度と嗅ぐことのない風 深く吸った
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“さよなら国立セレモニー”と題し、両校の応援団によるエール交換の後、ユーミンの独唱の『ノーサイド』が響き渡った。大写しのスクリーを眺めると涙を拭っている選手もいる。

新しくなる国立競技場には、どんなドラマが待っているのだろう。

七年後の東京オリンピック時に、もしも観客席に座れたら、自分は何を感じ、何を思うだろう。


記憶の繋がり

2013年04月16日 | 思い出した

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                     海蔵寺(鎌倉)の前庭にて

昔聞いた歌が流れてきたり、ある匂いが突然鼻先をかすめた時、人は一瞬、自分を持ち去られたように放心するものだ。

家に居て何かをしている時、また昼夜を問わず街を歩いている時であれ、手や身体を休める事はないものの、心は瞬間別の色に塗り替えられてしまう。

心が染められるのは記憶や過去の力による。
だから、そうした一瞬は歳を重ねるほど多くなるのかも知れない。ここ漁港の通りでも、お年寄りが何をするでもなく、遠くを見る眼差しでボンヤリと腰を下ろしている。きっと、心の中を鮮やかな過去に占められているに違いない。

ところがこうした過去も、時間の経過か気候に依るのか、或いは自分の健康状態に依ってなのか自ずから選択され淘汰されるらしい。
最近は、石原裕次郎の歌を耳にすると、きまって新宿西口の小便横丁(今は思い出横丁と言う)が眼に浮かぶ。裸電球の下に、串刺しの焼き鳥の濛々とした煙、酒や下水などの匂いが入り混じった独特の臭いと喧騒。
彼の歌は銀座や港をテーマにした歌が多いが、何故だか小便横丁が頭の中をかすめる。

木蓮の匂いに触れると、それが直ちに郷里の風景と学校の側の小川に直結する。卒業をまじかに控え、今後進路も生活をする土地も違ってくる、お下げ髪のガールフレンドとの別れの時が迫っていた。その時は花の名前も知らなかったが、小川の側には白く大きな花が咲いていた。

「石原裕次郎」や「木蓮」には、他にも様々な過去が絡みついている筈なのに、いつからか、また何故、小便横丁やお下げ髪に直結するのか分らない。

こうして自分には様々な組み合わせの形が出来上がっている。
朝顔にはラジオ体操、バラには母親の笑顔、鶏には弟の恐怖に怯える顔、納豆にはゲロなど。

不思議だ。歳を重ねるにつれて成長時代と郷里の思い出が心に浮かび上がってくる。
人間は皆、そうなのであろうか。


寒の荒行

2013年02月18日 | 思い出した

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                         (長勝寺/鎌倉)

髭面の精悍な風貌は、行者の風格が漂っている。

寒風が吹きすさぶ参道を団扇太鼓に導かれた行者姿の修行僧が水行場に向かってきた。大声で経文を唱えている。信者は合掌し見守っている。気温は5度。
昨日までの100日間、千葉の山中の道場で「寒の荒行」を積んで来た僧達が無事に終了し、最後の水行で満了を示す成満祭だ。今朝、鎌倉に着いたばかりだと言う。

聞けば修行中は髪や髭も剃らず、爪さえも切る事が許されない。起床は三時半、朝晩に粥を食し、一日七回の冷水をかぶる日々を送る荒行に耐え、この日を迎えた。そして僧達が出身の寺に帰る帰山の日でもあると言う。

それにしてもカメラマンが多い。腕章を着けた報道関係者も多い。水行場の周りに三重四重に陣取り、その時を待っている。皆が雨合羽を身に着けている。信者は遠巻きに見守っている。

僧達は、白衣を脱ぎ捨て褌一枚になった。経文の唱えも一段と高くなった。続いて水貯場から手桶で冷水を両手で汲み上げ、頭から繰り返しかぶる。一挙一動が皆同じだ。激しく水飛沫があがる。周囲にも飛び散っている。

国家の安泰と世界平和を祈念する。2月11日、長勝寺/鎌倉での行事。

寒風の冷たさも忘れるほどの緊張感を気持ちの中に残したまま、山門を後にした。
   
ビジネスの世界でも、自分がこれまで接してきた成功者には、その足跡を辿ってみると、経営者としてまた人間的な成長を遂げる前には雌伏の時代がある。非常に辛く厳しい経験をしている。その経験が成長のバネになったと感じさせられた人も多い。

特に自分が勤めていた会社の創業者S,Yさんは、滅多に言葉に表す事は無かったが、使命感を持ち、達成意欲の強い方だった。
実に多くの事を教わった。現在もお元気だ。
今でも、ふとした折にあの当時の“刷り込み”が顔をもたげる。


甘い誘惑

2012年08月06日 | 思い出した

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                         (報国寺/鎌倉)

今日まで長い間、男として生きてきたが、思い起こせば、異性からのまたビジネス面でも「甘い」誘惑には負けそうになったこともあるが、スイーツの「甘さ」の誘惑に負ける事はなかった。

最近はHbA1cや血糖値がやや高い数値を表し、主治医からも栄養指導を受けている。「甘い」ものは、口にしないようにはしているが、それなのに何がキッカケだったのか、最近はその誘惑に負けることが多い。

友人が遊びに来た時の手土産が菓子だったりすると、困ったなと瞬間戸惑いながらも、ココロは喜び、口に運ぶ事を想像しニンマリとしている。

今日も午前中から汗が滲み出てくる。わざわざカキ氷を食べに出かけた。

その海の側の葉山の店は60年以上も続いている氷屋だと言う。看板も無いから、歩いて行っても通り過ぎてしまいそうな小さな店だ。エアコンも無い外気に接した小さな部屋の長椅子に座って順番を待つ。オジイちゃんとオバアちゃん2人で切り盛りしている。二人とも腰が曲がり、立ち仕事が辛そうだ。壁に背中をもたれ掛けながらユックリと注文をこなしている。少し耳も遠そうだ。

氷そのものが美味い、水道水の薬品の匂いや冷蔵庫の独特の臭さも無い。
シロップに練乳、それに小豆が器の底と氷の上にコンモリと乗っけてあれば言う事なし。器に高く盛られた氷を落とさないように上から少しずつソッとスプーンで掬う。

半分も食べないうちに、コメカミ辺りがジーンとしてくる、やがてその奥の頭の中がズキーンと痛くなる。そのズキーンが治まるまで間を置かないと次の氷を口に運ぶ事が出来ない。痛くなったら残せば良いものを、食べ残すことが出来ない。
『食べ物は残すな』との躾が子供の頃から、この身には刷り込まれているせいか。ズキーンが治まる間、ふと親の言葉が蘇った。今思えばただの貧乏性なのかも知れない---。

長椅子の隣で黙々と食べていた少年達の日焼けした額からは、光っていた汗も、すっかり引いてしまっていた。

こんな「甘さ」の誘惑なら毎日でも負けたい。


七夕の願い

2012年07月07日 | 思い出した

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                                                    (七夕飾り/鎌倉八幡宮)

『ヒロシのお嫁さんになれますように』
『ショウ君が、私の事に気付いてくれますように』
可憐でいじらしい言葉が書かれた絵馬が八幡宮の棚には、提げる空きスペースが無いくらい二重、三重にも結び付けられている。
上を見上げると大きな七夕飾りの吹流しがサラサラと揺らいでいる。

眺めているうちに、「七夕」をどうして「たなばた」と読むのかと、親に教わった遠い思い出が蘇る。
『古くから「七夕」は「棚機(たなばた)」や「棚幡(たなばた)」と書いていた。七夕とはお盆行事の一つで、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方だったから、7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と読むようになったそうだ』と。

またその頃、七夕の日は学校に行く前に、親に起こして貰い、寝ぼけ眼のまま姉弟と連れ立って、サトイモの葉に溜まった夜露を集めに行った。陽が登る前に集めないと夜露は蒸発してしまう。それを硯に移して墨をすり、その墨で短冊に願い事を書き、裏山から取ってきた竹笹に結んだ記憶も蘇る。

あの頃自分は短冊に何と書いたのだろう、天の川の星に何を願ったのだろう。また親は、自分をどこに向かわせようとしていたのだろう。
時代が移っても親の願いはもどかしい。

七夕飾りを見上げながら、何を願おうかと考えた。自分はこれまで五年間もの長い間、方々の神社でお願いばかりをしてきた。そして聞き届けて貰い今日が有ると考えている。これからの自分の事は、もうあるがままで良い。
そしてあえて願った。人並みに孫と言うものをこの手に抱いてみたいと。

先日の息子との会話。
「お前の彼女に会いたいな」
「ほっといて頂戴---」と、ケラケラと笑っていた。

当分、願いは果たされそうに無いか。


一本の鉛筆

2012年02月22日 | 思い出した

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横須賀線の下り電車で空いている席に座ろうとしたら、そこに一本の鉛筆が転がっていた
手にとると、半分近く使われた鉛筆だった。

落とし主が現れるかも知れないと考え、膝に置いた手に持ったままにしていた。掌に抱え指先で、その六角形の鉛筆を転がすうちに、先が随分丸っこくて、持ち難くて書き難くないだろうかと思った。

シャープペンや鉛筆削り機なんて便利なものなど無かった小学生だった頃、鉛筆削りが苦手だった。
鉛筆の先端2cm程度を先が細くなるように削りたい、芯の先も削り尖らせたいと考えても、小刀の微妙な力の掛け方が上手くいかなかった。木を削る時、芯まで小刀が食い込み、使うとすぐポキッと芯が折れてしまうような削り方しか出来なかった。また芯の削り方によって、書いた一つの字が縦の線と横の線が、太くなったり細くなったりと線の幅が違い、何ともおかしなカタチの字をしていた。

鉛筆入れには消しゴムや小刀の他、長い鉛筆や随分と使い短くなった鉛筆など様々で、芯が折れていて、家に帰ったら削らなければならない鉛筆も、いつも何本かはあった。
また新しく買って貰った長い鉛筆には、削らない側の端部の一面の塗装を薄く削ぎ、露出させた木地面に氏名などを書く事が楽しみでもあった。

寒い日には火鉢の側に座り、母親が良く削ってくれた。
キレイに削られる鉛筆の先を見詰めながら、小刀を手にした母親の指先に幾つもの荒れた筋を眼にした。何故だかこの瞬間、親の言う事は良く聞こうと思った。
そして新しくなった鉛筆を手にして宿題の教科書を広げた時、削られて短くなった分だけ賢くなったような気がした。

駅に着くまでの間、落とし主は現れなかった。
この夜、机に向かった際、改めて半分近く使われた鉛筆をジッと観た。

鉛筆の削り屑が炭火に落ちたのか、どこか遠くから懐かしい香りが漂って来た様な気がした。


落葉に思い出を

2010年12月07日 | 思い出した

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夜来の雨も上がり、小春日和に誘われ名残の紅葉を観に出掛けた。
獅子舞谷は、鎌倉では珍しく深い山間にある。

木の葉が一年の最後の輝きを見せる、それは色彩豊かに彩られた独特の景色。
ブナ林に入ると、辺りは一面黄色の世界、懐かしげなセピア色に染まる。
周りには人影は無い、音も無い。時折、聞こえるのは百舌の乾いた高い鳴き声と、枝から離れた乾いた葉が落ちながら、他の葉に触れる微かな音だけだ。

さらに歩を進めると、ふいに息を呑むほど美しい光景に出会った。
谷一面に絵の具箱をひっくり返したような色とりどりの景色が眼の前に広がった。
一色一色に自分だけの名前を付けたくなる。落ち葉のそれぞれの独特な色に 「自分の思い出」を付けてみた。
一枚の葉の中には様々な色がある。「赤」と話し言葉では曖昧な呼び方をするが、朱色(しゅいろ)、紅(くれない)、朱華色(はねずいろ)、洗朱(あらいしゅ)、茜色(あかねいろ)、緋赤(ひあか)、洋紅色(ようこうしょく)、臙脂色(えんじいろ)、紅梅色(こうばいいろ)等と和の世界にはあるそうだ。

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全体に物憂げな風情を感じる臙脂色の葉には「人の名」を、鮮やかさに思わず眼を見張る緋赤の葉には「思い出」を付け始めた。色あいの違う落ち葉を手にする度に「人の名」や「思い出」が次から次へと、まるで落ち葉に文字が書かれているかのように浮かび上がってくる。

それらの人との出会いや出来事は、ずいぶん前の事で、自分は封印している積りだった。

やがて、名前を付けるのを止めた。
一つの思い出が次の思い出を呼び起こし、更に色あいの違う葉を見つけるのが難しくなった。

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思えば、それらの出会いや経験は、全てが私の人生道場だった。今日の全ての土台になっている。

うかうかしているうちに今年も又、急ぎ足で過ぎていくのだろう。


“ありがとう”の意味 

2010年11月29日 | 思い出した

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鎌倉には花でその名前が知られている神社や寺が多い。しかしバラの名所は殆ど無い。

鎌倉・長谷に鎌倉文学館がある。かって旧加賀藩・前田家の別亭だった。その庭にバラ園がある。
秋のバラは春のバラみたいに咲き揃うことは無いが、本来バラは寒い地域の植物だから、春のバラよりも香りが良く、色も鮮やかで自分は秋のバラが好きだ。
色とりどり186種もあるが、鎌倉生まれのバラは15種あり、中でも棘が無く鮮明な黄色の「鎌倉」、鎌倉文学館が舞台の三島由紀夫の小説に因んだ真っ白な「春の雪」、八幡宮の神事から名付けた深赤色の「流鏑馬」、静御前から採った淡いピンク色の「静の舞」等、観て堪能できる。

「春の雪」を眺めているうちに、最後の入院になった母を病院に見舞った折、ベッド横の小さなサイドテーブルに枯れかかった白いバラの花が飾ってあった記憶が蘇った。
昼の眠りに就いた母の顔と、視野に残っているバラの白が重なった。バラや百合は母が最も好きな花だった。母は花なら何でも好んだが、白い花がとりわけ好きだった。たった一つを選ぶとしたらバラを選ぶと言っていた。実家の庭にはいつもバラが咲いていた記憶が蘇った。

人間は死すべきものとしての宿命があるからこそ、生きることが切なく美しいのであって、永遠に死なない命なぞ与えられたら悲劇だと思う。花だって枯れ、萎れるからこそ愛しいのであって、いつまでも枯れない花などこの世のものではない。

病室を後にする際に母は自分に“ありがとう”って言った、小さな声だった。

今でも考える、あの“ありがとう”の言葉は何を指していたのだろうと。単に見舞いに来たことに対するお礼の言葉だったのか。

それとも違う別の意味があったのかと。


閉じたままのリンドウ

2010年10月29日 | 思い出した

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竜胆(りんどう)の花は、日光を受けると開き、夜は閉じるそうだ。雨や曇りの日は閉じたまま小さく萎んでいる。   

鎌倉・東慶寺に観に出掛けた。
昨日東京にも木枯らし一番が吹いた翌日とあってか、日差しもあるが空気が冷たい。境内は人影もほとんど無い。
竜胆は元来、山野に自生する花だそうだ。ここの竜胆は真っ直ぐ上に伸びる見慣れた園芸用の花では無く、低く地を這うように蔓が伸びている。まさに野草の趣がある。中には釣り鐘型のきれいな紫色で、茎の先に上向きに咲かせているのもある。

様々な角度からカメラを向けシャッターを押しているうちに、自分の脳裏に何かがチラつき始めた。
これは何なのか、形となって何かと結びつかない。自分には良くある現象だ。やがて思い出した。

数年前、思わぬ病気による手術・退院後、思うところがありビジネスも中締めを決心して都心の事務所も閉めた。
この事務所も今日が最後と感慨に耽りながら、部屋の電気を消そうとした。
その時、「お疲れ様でした」と入り口のドアーが開き、一人の女性が俯きながら花束を差し出した、竜胆だった。
彼女は、同じビル内にある他の会社の社員だった。野生的な雰囲気を持つ女性で、いつも濡れているような眼を持った人だった。人は朗らかな性格だと言っていたけど、どうしてだか自分の前では多くを喋らない人だった。
事務所を閉める事は誰にも話していないのにと思いながら受け取った。
セロハンと赤いリボンでラッピングされた花束だった。灰色の壁とロッカーや机に囲まれたオフィスの中でただ一点の紫色だった。
受け取りながら内心「どこででも売っている花束だな」と思った。
自分の気持ちを見透かしたように「私の真心は、やたらとあちこちでは売ってはいません」と、強い調子の言葉が追っかけて来た。

以前、自分は彼女とどんな事を話したのか忘れてしまったが、その時「亡くなったお父さんからも度々言われました---」との、彼女の部分的な言葉だけを思い出した。

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ここ数日曇り空が続いているが、彼女の気持ちは今日の竜胆みたいに閉じたままだろうか。

上向きに花を咲かせて欲しいと願う、女性として。


思い出の香り

2010年06月22日 | 思い出した

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“時代をたどる日本の心”と言うチラシの文字がふと心に留まり、コンサートに出掛けた。
特に童謡、唱歌を聴くうちに自分の子供の頃や青春時代の様々な記憶が歌と共に甦ってきた。
甦ってくるのは、何故だか辛かった思い出は少なく、楽しかった思い出が次から次へと胸に舞い戻る。

思い出に浸っている最中に、ある唱歌の中の♪白い花が---♪と言う言葉を耳にした時、遠い思い出を呼び覚まされた。懐かしい思い出の香りが滝のように降ってきた。

青春時代の「会いたい人に会えない」もどかしさを思い出してしまった。
もう思い出す事など無いと、自分の胸のタンスの奥深く、しかもその小さな引き出しは、自分でも二度と引き出すことのできないほど奥に、何処にしまったのか自分でも判らないほど奥にしまった筈だった。しかし一つの歌を、一つの言葉を耳にした途端、この小さな引き出しに手が掛かってしまった。まるで、つい先日の出来事のように、遥か時を越えて、あの時の会いたかった人の笑顔や仕草までが浮かんできてしまった。

「愛」と言う言葉は知っていても、その意味すら解っていなかったあの頃、今思えば淡い「憧れ」だった、しかも片思いの。
そしてあの時は、ただ「さよなら」としか言えなかった。

今、改めて思う。
やはり、人は苦さを知って、初めて甘さを知るものなのか。

今、願う。
この「海側生活」と言う甘さがもっと続く事を。