近いのに、なかなか行く機会のない聖地へ行ってきた。潟上市郷土文化保存伝習館という名前が付いている。農聖と呼ばれた石川理紀之助の功績をたたえる記念館だ。
理紀之助は70年の生涯を終えたのが1915年。つまり今年でちょうど100年。昨年が没後100年だったのだが、記念行事ができなかったという。おそらく国文祭やらで日程が取れなかったのだろう。だから今年それを計画している。
彼について知っていることは、種苗交換会を始めた人だということ。奈良家の出身で、山田村に婿に行ったこと。飢饉に備えて、村のために米を備蓄していたこと。100年前の米が、今も倉庫に眠っていること。金足農業高校の石碑に「寝ていて人を起こすことなかれ」と書いてあること。九州のどこかに、今でも石川理紀之助を慕う人々がいること。くらいかな。
西風の吹き抜けが大変良い場所で、実際こっちより冷たく感じた。
100年前のと今の、もみ殻の比較。多少黒っぽいと感じるくらい。
同じく中身。昔の米は細かい。でも食べられそう。実際、毎年「検定」なる試験があって、地元の小学生も参加する。その日、供されるのが100年前の米。普通に食べられるそうだ。
伝習館の3階から裏庭へ出る。そこに各種建物がある。ひときわ高い樅ノ木は理紀之助が小さい頃、自分の背丈ほどしかなかった木。だから樹齢200年。白いのは文庫蔵。後に三井財閥が感銘を受け建ててくれたもの。そのため蔵書が1万冊残っている。裏山の木は、実が成る広葉樹が多い。飢饉の時に飢えをしのぐためだ。立派な栃の木があった。
一度火災に遭って、理紀之助がその後造ったトタン製の文庫。
備荒倉(びこうそう)と呼ぶ、石川家の備蓄倉庫。米・あわ・ひえが満杯入っているそうだ。
山田村の莫大な借金を、7年で返す計画を立て、4年で返済した。裕福な実家の援助を仰いだという噂のため、最も地理的条件の悪い「草木谷」に3年住み、実証してみせた。
この先は沢、という最奥の場所。ここが伝習館から1.2kmと表示のある「草木谷」の田。
片側雪の残る、小さな棚田があった。ここでは今、酒米を育てて、純米吟醸酒を造っている。舗装路に出て、車輪を見てビックリした。ホイールもタイヤも泥だらけ。一目散に帰って来て洗った。