阪神淡路大震災でテレビが伝える悲惨な状況を見た時、じっとしていられなかった。もう少し近ければ、駆けつけていたかも知れない。まだ若かったから。でも4年前はまず、自分の家、そこに一人でいる要介護の父、そして職場の心配を先にしなければならなかった。
大きな周期で地球が動いた。おそらく2~3m行ったり来たりを繰り返した。しかし一向に収まる気配がないどころか、ますますひどく揺れた。テレビで震源地が分かった。そこで、老人のようにおぼつかない足取りで非常設備のマイクを握った。今、授業中の生徒と職員に状況を知らせなければ。
避難訓練では、放送するのが私の担当だったので、責任感で身体が動いた。何としゃべったかは忘れた。「震源地は三陸沖」と言った途端、非常設備は沈黙した。電気が止まったのだ。その時はバックアップのバッテリーの事は頭に無かった。赤い非常ボタンを押せば、復活していたはずだ。だがひとまず、最低限の情報は伝えた。
父親の無事を確認しに行って、再び学校に戻った。とても被災地に助けに行ける状況ではなかった。行ったとしても、足手まといになることは分かっていた。シロウトの自分には、人に迷惑を掛けずに誰かを助けるなんてことは、できるわけがない。行ったとしても、帰るためのガソリンを調達できなかっただろう。まず目の前の生徒を全員無事に家に帰すことが、校長と職員の仕事となった。
その後は、暗い中を学校で過ごした。事務室を本部にして、丸ストーブを集めた。家から太いローソクを持ってきた。母が死んで間もないので、仏壇のロウソクに不自由しなかった。懐中電灯はたくさんあったが、役に立つものはロクになかった。ラジカセは腐るほどある。毎年入試のヒアリング用に準備するからだ。
そんな中で、定年最後の年度が始まったばかりの4月の朝、父が突然死んだ。ガン宣告はされていたが、検査のはずの入院が最後になった。家族が呼ばれた時、父はすでに冷たかった。何時間、放っておかれたのだろう。
介護を理由に、家から2番目に近い学校に最後まで置いてもらった。そのかわり出世はしなかった。もっとも、教育委員会からにらまれているオレに管理職の道はなかったのだろう。かなり曲りなりに、親のそばに居られたことは、今ではタイミングのいい決断だったと言える。葬式の日、喪主挨拶で震災のことを引き合いに出し、それぞれの悲しい物語のある2万人に比べれば、80年を過ぎて順序どおりいった我が家は、贅沢は言えないみたいなことを言って、またもや妹を困らせた。