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黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

退院しました!

2025-04-10 | 日記

長い入院生活からやっと家に帰って来ました。

  50日にも

 「間質性肺疾患」・・・

 まだ酸素吸入器付けていますので入院生活の様子

少し気持ちが落ち着いてからアップいたします。

 しばらく日常生活に慣れてから・・・?

 

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再会!「田中一村様」

2025-01-09 | 日記

 昨日の続き~

 今回の特別展の大きな収穫は、一村記念館以外の「美術館」

 「個人蔵」の作品を見ることができたことでした。

     

 

 「軍鶏図」 昭和20年代 千葉市美術館蔵

 千葉市内の軍鶏師・田辺義郎宅に通って軍鶏の写生を集中して学んだ頃

 には習作的なものから落款のある作品まで多数の軍鶏図が残された。

 中でも本図は唯一、題画賛として【荘子】の「木鶏」の故事が記されて

 おり、軍鶏の姿に投影したものはなにか、思想的背景をうかがうことが

 できる。

  「朱實紫實」  株式会社ジャパンヘルスサミット蔵 昭和25年代

   

  「花菖蒲」   株式会社ジャパンヘルスサミット蔵

   

  「梨花春禽」  株式会社ジャパンヘルスサミット蔵

   

  

  

   左図 「枯木にきつつき」(冬) 右図「柿にかけす」(秋)

     昭和20年代 個人蔵       昭和20年代  個人蔵

      作品名に加えて(秋)(冬)と朱書きがある。

       四季の掛物とされたものらしい。

       江戸琳派風の構図に絞られたモチーフの色彩が印象的で、

      背地の淡いぼかしのニュアンスも美しい。

 

   「秋色虎鵣」  昭和20年代   人蔵  

     

 

   「白い花」   昭和30年代 栃木県立美術館蔵

 

  昭和22年、第19回 青龍展で初入選した二曲屏風(白い花)は自身と周囲の

  人々にとっても記念的な、当時の一村の代名詞的な図であったとみえ、20年代を

  通じて何点も制作されてきた。

  この頃の他の作例と同様、一段と繊細で洗練された描写が見られる。

 

 今日は正月9日 ちょっと過ぎましたが~

  ちょうど季節感のある1枚を見つけました。

 「七草」に因んでの作品が。

 「春の七草図」  昭和30年 個人蔵

 

  正月7日に行われる恒例行事「七草会」に用いるために

  一村に作画依頼が。

    輪郭線なく透き通るような彩色や墨の調子が美しい。

  因みに  七草は

 「セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ」

  これぞ七草。 昔、覚えさせられましたよね~。

 

  「亀寿老人」  昭和30年  個人蔵

      

    やわらぎの郷に滞在時に、一村の身辺の世話をした鍋島家のため、

 依頼され現地で描いた図。富岡鉄斎による長寿を寿ぐ詩画を写している。

 寿老人も蓑亀も、瞳が大きく微笑んでおり、親しみやすい表情となっている。

 

 昭和30年、九州、四国、紀州への旅をし、訪れた場所をのちに構成して

 色紙や小画面の絵画に描いた。 四国の足摺岬や室戸岬を。

 構図を工夫し、画面全面への厚く明るい彩色があるいずれも充実した作品で、

 千葉に帰ってから自分で撮った写真も参考にしながらじっくりと描き、世話に

 なった人々に贈られた。

   2023年のブログにも作品は掲載していますが、新しい作品を。

 

     「新緑 北日向」 昭和30年 千葉市美術館

  

  

  写真 (高千穂峡) 一村が撮影したもの

          

 

  「由布巌朝靄」 昭和30年   田中一村記念美術館蔵

      

 

  「室戸奇巌」 昭和30年  千葉市美術館蔵

     

 奇岩の間を海面に変え、波頭の白さや高い水平線と水面の青が強調されている。

 

  「足摺狂涛」  昭和30年  田中一村記念館

     

   「室戸ハ奇石畳々 足摺ハ断崖択   太平洋ノ 怒涛へ脚下ヲ噛ム」

 

  「平潮」   昭和30年  田中一村記念館蔵

    

     「鳴門ヨリ淡路島へ渡ラントス 船ヲ待ッ 朝風ノ印象」

 

    同じような「題材」でありながら縦横倍の作品

      この景色をどのように捉えたかったのか…他にも「色紙」

    で描いたもの、「岩戸村」をスケッチしたものとの関係。

    謎がまだ解けていない~ 。そんな 珍しい作品です。 

  

     「山村六月~北日向にて」        

          昭和30年 個人蔵         

   

 

    「山村六月」 昭和30年 田中一村記念美術館

      

  

  最終章

  縁もゆかりもない新天地。

  人生の最後となるかも知れない大きな賭けを打って出る。

  半世紀を超える画業の集大成を奄美で遂に実現することになるのだった。

 

  奄美へ来島間もない頃、トカラ列島の宝島にも足を伸ばした。

  広い空に浮かぶ雲、女神山を背景に、天然記念物のトカラ馬と背に乗る

  サギ、足元の草花を表す小さな点々など、丁寧に細かく描かれている。

 

         宝島」 昭和34年 千葉市美術館

    

 

   奄美へ来てすぐに、最南の与論島まで「視察した」ことなどが

   便りに長い絵入りで残っている。その色紙絵の1枚。 

 

    「日暮れて道遠し」 昭和33~34年 千葉市立美術館蔵

    

 

  「大熊風景」  昭和44年 個人蔵

  

 一村が紬工場の務めをやめ絵に専念していた時期に描かれた。

 染色工として働いていたその工場がある奄美市名瀬大熊町の、山を背後

 に抱く町の通りや家並が、個々に特定できるというほど詳細に描かれた実景図。

 

 いよいよ最後です。

 一村といえば、奄美の「アダン」のシリーズ。

  パパイヤ、ソテツ、ゴム、アカショウビン、クロトン そして魚の数々。

 2023年のブログには精一杯掲載しました。

  まだまだ 載せたいのですが・・・・もういいでしょう!

  華やかに 「クロトン」と「ポインセチア」

  で締めたいと思います。

   

   

 

  そして もう最後の、最後に この1枚も。 再び。

 

    「不喰芋と蘇鉄」(クワズイモとソテツ)

      

   「アダンの海辺」

   ポスター、チラシ、美術館前、美術館内

    特別展会場の各所に この代表作が

    

        

    こうして時間が過ぎた後も・・・

  まだ私の中の興奮は治まっていません!

  タイトルにあるように「魂の画家」

   一村は 今も 奄美の地に息づいている。

  彼の存在は 未来永劫 奄美の人々の手で受け継がれ

  そして、見る者の感動もどの時代の人々にも

   「魂の」凄さを堪能させることでしょう。

 

     

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再会!「田中一村」様

2025-01-08 | 日記

2025年が明けて 1月。

2023年1月28日~NO.5まで「田中一村」についてブログアップしました。

 「孤高の画家 田中一村」

 「 私の手元に 1冊の古書 NHK出版(2001年出版)

      この本を眺めて~いつになく興奮していた…。」

 

   あれから、すぐにでも「奄美に行こう!」と計画を~

 

天の見方がやって来る! 朗報です。

 2024年9月19日~12月1日 東京都美術館で

「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」が。

    秋を楽しみに、いざ、東京へ。 (昨年のことです)

10月 この企画展を含めて「東京美術館巡り」に行ってきました。

 会場での写真撮影は出来ませんでしたので…残念!

 

是非、 2023.1.28から5回に分けて ブログアップしていますので

    ご覧いただければ幸いです。

 また今回は、各地の美術館から、個人像からも出展されて

その総数はいままでかってないほどの規模でした。

         

           (当日のチラシより)

    一部、追加で 今回のブログに掲載します

 

   (但し、この写真も、企画展版カタログからの写真です) 

 

  2023年のブログ見て頂きましたか?

 それでは これから 幼少時代から、千葉、九州旅行などの新しい作品を

 ご紹介します。

 「個人像」これは 大変貴重なもので、今回の企画展での特別出品なので

 もうこれから目にすることはできません。

 また、他の美術館よりの作品も、借りてきたものなので今後はその美術館に

 直接訪ねていかねば見ることはできません。

 

  幼少時代 

 

  満年齢6~7歳は数え8歳

 一村の作品としては最も早い年の1点である。

 筆跡はまだたどたどしいが、すでに「米邨」の画号で描いている。

 彫刻家であった父(稲邨が号を与えたのだという)

        「紅葉にるりかけす/雀」栃木県立美術館蔵

        

         「菊図」 個人蔵

        

       この絵も8歳の時の筆です。

     「米邨」の印も捺されている。その下の部分の紙の欠損は、父が

     筆を入れたことが気に入らず破り取ったのだという。

     誇り高き画家一村の伝説的エピソードの始まりである。

         「つゆ草にコオロギ」  千葉美術館蔵

            

     12歳の作。市立芝中学校に入学した年

      客の前でも揮毫したという「神童」だった。

    「蘭竹図/「富貴図」衝立   個人蔵の作品。

  

 重厚な衝立の金地組本大画面いっぱいに片面は

 水墨のみの「蘭竹図」、片面には「富貴図」と題し極彩色で大湖石の

 前後に牡丹を密に描く。 蘭竹の群生の脇には霊芝や若竹が、牡丹も

 枝を湾曲させながら空間を埋め尽くす感覚は、一村の資質の発奮とみえる。

 画面の隅々に各種の蝶や蜂も描き込んでいる。  (昭和4年 21歳の頃)

     「山水図」上段 「浅き春」 下段    千葉美術館蔵

          

   

「雁来紅」と題された作品。  個人蔵

   雁来紅(雁が渡って来る頃に葉が紅色になる葉鶏頭の別名)

     

   輪郭線を用いず画的に描いた葉と、葉脈などの極細線を駆使し、

   1本の葉鶏頭の微妙な色合いの変化や立ち姿の存在感を。

  

   「観世音菩薩」 個人蔵

           

   「蓮上観音像」左(個人蔵) 右(株式会社ジャパンヘルスサミット)

       

「百済観音」の名で親しまれる法隆寺の国宝・観音菩薩立像をモデルにしたのであろう。

 一村は、百済観音の写真の切り抜きをもっており、蓮池の写真の資料も貼っていた。

 これを組み合あわせ試行錯誤し本図像をつくり出したようだ。

  「翡翠図(かわせみ)」 個人蔵 昭和10年代 

         

   「桐葉に尾長」 個人蔵  昭和10年代

         

     「立葵に蜘蛛」 個人蔵 1940年代半ば

     

 

本図は、銀色に蒔き付けた色紙にクローズアップした濃彩の立葵、大きな蜘蛛、白銀色 

 の非常に細い蜘蛛の巣の糸が全面に引かれて輝き、それらの繊細な心配りに打たれる

 色紙絵の名品。

 

  「四ッ手網」  昭和22年頃  栃木県立美術館蔵

   

  「一村」誕生の意欲作。

太平洋上に注ぐ夷隅川河口付近に木製長橋が架かる景は絵葉書とされたような名勝で、

画面手前全面に大きく四っ手網を配慮し、網を透かしてその橋の遠景を見せる手法を

浮世絵版画などの古典で馴染みの構図に学び活用している。

 

           だいぶ目が疲れてきたのでは?

 

       今日はこの辺で・・・また明日 続きを    (@^^)/~~~

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特別展 はにわ

2025-01-07 | 日記

昨年の秋、東京国立博物館で開催された「特別店 はにわ」を

見てきました。

 今春、九州国立博物館で( 1.21~5.11)まで開催されます。

私の住んで居る福岡県苅田町には、多くの「古墳」がありすぐそばには

「御所山古墳」と「番塚古墳」「石塚山古墳」「恩塚古墳」があり

以前より古墳には関心があったので、昨年、「東京美術館めぐり」

計画した際にそのチャンスがありたっぷり楽しんできました。

 遅くなりましたが、新年に当たり、この「東京美術館めぐり」の模様を

アップしていこうと…。

 まず この「はにわ」について

「埴輪」って何? なんですが…その前に「古墳」の説明を少し。

 古墳は、一般的に3世紀中ごろから7世紀の「古墳時代」と呼ばれる時期に

 土地を盛り上げて築いたお墓。 つまり墳丘をもつお墓を「古墳」と

 呼びます。古墳は、各地域を治める大王や豪族のものから家族のもの

まで、時期とともに形も様々変化していきました。

 「古墳といえば」の前方後円墳はもちろんのこと、四角いものもあれば、

丸いものもあります。いずれも亡骸を埋葬し土で盛り上げた古墳、

つまりお墓ということになります。

 古墳と形 こんなに種類がありますよ。

 

 近くの「御所山古墳」の写真です。(前方後円墳)です。

        

 古墳は全国には16万基以上あるといわれ、前方後円墳の割合は、およそ

 3.3%ほど…意外と少ないようです。 

 古墳の話を続けると、長くなりますのでまた機会があったら。

 とにかく、皆さんに「埴輪」って 面白いので是非、九州に住んで居て

 近くでこんな素晴らしい企画展が行われ機会に足を「九州国立博物館」へ

 向けて頂きたいと思います。

 

 埴輪って なに?

 埴輪とは、王の墓である古墳に立て並べられた素焼きの造形です。

 今から1750年ほど前に溯ります。

 古墳時代350年間時代や地域ごとに個性豊かな埴輪が造られ、王を取り巻く

 人々の当時の生活を今に伝えています。

 「埴輪」は、古墳の上や周囲に並べられた巣焼物で、死者の魂を守ったり

 沈めたりするものと考えられています。

 古墳や埴輪が作られたのは、まだ文字が広まるより昔のことですが

 調べてみると、楽器を弾いていたり、農具を持っていたり、服装も髪型など

 昔の人の生活の様子を知ることが出来ます。

 なかでも、国宝「埴輪、挂甲の武人」は最高傑作といえる作品です。

 これは今回の特別展の「目玉」でもありますから「トクと御覧下さい」

  

            

 他にその仲間たちが並んでいます。

 同じ工房で作成された可能性も指摘されているほど、兄弟のようによく似た

 埴輪が4体あります。そのうちの1体は、現在アメリカのシアトル美術館が

 所蔵しており、日本で見られる機会は限られています。

 頭から足まで完全武装しており、古墳時代の武人の様子を眼前に

 見せてくれます。

             国宝          シアトル美術館

    ☟             ☟

   

こんなに楽しいい「埴輪」も 「躍る人々」

     

( 楽しいですね~ これ男女ですかね )(見ぶり手振りも板についてる)

 

「笠をかぶり鍬をかつぐ農夫」「琴を弾く人」「琴を弾く男子像」

          

  畑仕事? 凄いよ!  琴? もうすでに楽器があった

     生活の中に「楽しむ」余裕? かな この時代に

 

 女性の姿も多い…

 「島田髷をした女」  すてきな髪形 お洒落の極み~ 

     (子供に乳を飲ませていますよ)

      生活そのものを描写しています

 「子を背負う女」   「正座の女」    「盃を捧げる女子」

       

 これって、昔も今も            乾杯! 何かの宴会の音頭?

 「膝まずく男女」 

  この家に、偉い方が訪問したのかな?

   夫婦? きちんと礼を正してご挨拶なんでしょうか

    それとも、「ハハッ~」王様の御成り…。

     

  可愛いい動物たちも沢山顔を見せてくれます!

   

                    犬         鶏

     馬        鹿       猿        牛

     

こんなものもありました 「家形埴輪」

 古墳時代って、凄いね、現在の工房でも難題の造形をきちんと造ってる?

  

                           切妻造家

          

              高層建築? 

  「舟形埴輪」

 古墳時代は、船は波濤を超えた交流に用いられるだけでなく、死者の魂の

 乗り物と考えられていました。

        

  「埴輪棺」

これこそ 古墳の主人公が丁寧に納められた棺でしょう。

もちろん、地位やその人の歴史の証なのでいろいろな形があったようです。

  「これは 等身大の棺? 凄く大きく 豪勢な造形ですよね」

   

  まだまだ お見せしたほどの画像はありますが・・・・この辺で。

   是非ぜひ、時間をなんとか見つけ出して、九州国立博物館へ!

      5月11日までです。 時間はありますから。

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脱皮するぞ!

2025-01-06 | 日記

開けましおめでとうございます。

 長らくご無沙汰していました「ブログ」新年を迎え

 改めて挑戦することにしました。

 指先もなんとか普段の生活に支障がない程度に回復。

 齢83歳を迎え 気持ち切り替えて画面登場することにしました。

  さて、早速ですが「年賀状」のこと。

 今日までに約50通到着。ほぼ出した分返って来ました。

 この3年間で一生懸命「減らすことに」

 本当はやりたくない「今年限りでご遠慮します」を

 時間的にお付き合いの少ない方から出していき…

  多い時は約200通を 心を鬼にして?

 年賀のあいさつを失礼させてもらい、今年でこの数字に。

 私ごとですが、転勤が多く赴任先も、北海道、東京、広島、島根

 九州(小倉、大分、博多)と財産捨てての股旅人生でした。

 まぁ、言い訳がましく言うと、財産は「お付き合いした友人」

 思い、今日まで続けてきましたが、同輩や先輩諸氏も「先に旅立ち」

 また、遠くの為、1年1度の「年賀」のみで段々、返信も

 「1行コメント」から、それもなくなり「印刷」だけの両面。

 そんなところから、年齢のことも考え、思い切りました。

 今年の干支は巳。

 いろいろな面で、今迄の自分から「脱皮」して

 「83歳なり? の自分をみつめる!」

 そんなスタートにして生きたいと。(どう理解する?)

 賀状の1行に。

 「目出度さも ちう位也 おらが春」 小林一茶。

 いろいろまだやりたいことあれども?

 「ちる花や すでに己も 下り坂」

 心して、 身の丈に合う 時間を過ごすことに

 本年も どうぞよろしく

   お付き合いお願い申し上げます。

              (*^^)v 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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もう少しで指が動くように

2024-08-28 | 日記

 長い間ブログを休んでいました。

 早く 早くと思いながら~指の関節が思うようにならず

 不精の日々です。

 日々 リハビリして もう少しです。

 気持ちは毎日 投稿している?

 完全に記事が書けるようにと頑張ってキイを打つ自分です。

 もう少しでなんとか・・・それまで 

 いちばん楽しみにしているのは 私なんですから。

 

 

 

 

 

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「棟方を追いかける~」第13話

2024-05-10 | 日記

棟方の「 ~ 海道棟方板画」の発想は、松尾芭蕉の奥の細道

その芭蕉が「奥の細道」への旅は 芭蕉46歳

       

元禄2年(1689)3月27日~9月6日までの長旅

門人曾良を伴い、江戸を発ち奥羽・北陸の各地をめぐるものでした。

 「月日は百代の過客にし行かふ年も又旅人也 船の上に生涯を

  うかべ馬の口とらえて老をむかふる物は日々にして……」

 棟方は70歳からの旅たちだった~。

 

 貴重な資料が見つかってます。

  芭蕉が描いた絵巻物がこれなんです。

 「野ざらし紀行」の際、芭蕉自らが筆をとって描いた・・・。

 なかなかシンプルなタッチですが面白い~

  

  

                  (福田美術館蔵)

 

  12話で「中尊寺」をアップしました 「奥海道棟方板画」から

   「奥海道棟方板画ー奥入瀬十和田の柵 」

     

 

         <一宿標の柵ー岩手登米>

    

 

   名句をひとつ 「古池や 蛙とびこむ 水の音」

     

           <東京 深川 芭蕉庵跡>

 

     

  それでは、各地への旅の「棟方板画」もそうとうな数なので

   各「海道シリーズ」から 私なりに選んでアップします。

 

 「西海道棟方板画」より

          <福岡 若戸大橋>

     

          <宮崎 磐戸神楽>

     

          <熊本 大阿蘇山>

     

      

          <長崎 大江天主堂>

     

 

  <南海海道棟方板画>

             徳島 阿波おどり

     

 

              愛媛  石鎚山

     

  

  <羽海道棟方板画>

            山形  羽黒山

     

            新潟   荒海

     

            秋田   象潟

     

 

  まだまだ多くの作品を紹介したいところですが。。。

  またの機会に。

 

  そうそう、 棟方といえば、「女人」の板画ですよね。

  最後に、こんな素敵な「女人」をご覧ください。

    まずは やっぱりこの美人から

             <門世の柵>

     

 

     < 鍵板画柵「大首の柵」>

     

     < 懸世運(けよう)の柵 >

     

     < 円窓石向妃図 >

     

     < 弘仁の柵 >

    

     < 緋薔薇頌 (背髪の柵)>

    

     < バラライカの女の柵        

       

 

   昭和49年 71歳

 10月 個展と講演のため4度目の渡米。

    旅先で倒れ 帰国後 入院

 

 11月 改組第6回 日展に 「捨身飼虎の柵」を出品。

    

    昭和50年 72歳

 病床にて 達磨図を多く描く。

   

 

   

   

 

      9月13日 肝臓がんのため自宅で死去。

 

   

  

       我は、ゴッホになる   棟方志功

           

  大きい、大きい向日葵花、それも、真中にあの雌雄もない、花びらで囲われている

様な、カドミュームイエロー唯一彩に描きつくされてた、向日葵花が、満一杯、枯れて

いても咲き盛っていても、きっとその景色があることばかり想っていました。

 ゴッホとテオドールの墓は、同じ凸字型の、新聞紙を全開きを横にしたぐらいの

大きさでした。 白い石の面に明朝字体の英書で(オランダ綴り)、黒く凹字に刻された

行儀のよいつつましい墓が、左右に並んでありました。

       

 そこにはオカメツタというのですか、そんなツタがところかまわなく、ハビコッていま

した。ウラガナシイ気漂いがありました。

 一寸前に置かれた花束がありました。オランダギクか、赤、紫、白の色々花でした。

 

  ゴッホが、仲よかった弟と、こうして、静かに寝ている有様は、不思議な程に、

 わたくしにも安心させられた様な、うれしい、ひっそりさでした。

 思いがけない、沁み沁みさでした。

 今度ヨーロッパに来て、システィンの天井絵を見て、ここに来たという事だけで

 わたくしは、ナントモ知れない深い借金を、返し済んだ様な気がしました。

     

     

 ・・・一番好きな絵描きの仕事と、寝ている所に佇ったのですから、体心が、

 ナンダカ胸から、肩から軽くなった様な塩梅でした。ーヨカッタ、ヨカッタと

 側にいるチヤコや、巴里爾に話したのか、誰に話したのかワカラナイままに、

 そう、独り言でした。

 チヤの黛で、ヴィンセント・ヴァン。ゴッホ。 また テオドール・ヴァン・

 ゴッホでしたか、それを拓さして頂いて参りました。

 

   ・・・・この棟方の 思い出話はまだまだ続くのですが~

  とても長文、最後まで載せることが出来ません。 あしからず。

 

  「棟方志功」の「板に咲く」15話から「棟方を追いかける~」13話 まで

    実に、ながながと綴ってきましたが、これでお終いです。

 

  「一人の画家」の一生・・・

  しかし、これほど魅了した対象はそれほどはいません!

  ブログをしながらも、新しい発見があり、これからの私の人生にも

  役立つものをいただきました。

 

  この20年  毎年、6月に上京して、近辺の(関東、信州)の

  「美術館巡り」をして

  美術の歴史や画家について勉強しているのですが、この歳(82歳)

  もうそんなに先もない? だから、是非、この棟方の里

  青森 棟方志功記念館へ 足を延ばしに来たいと思案中です。

 

   先の、志功の「思い出」と同じように、志功が「ゴッホ」に。

 私も「志功」の想いでを叶えられるように・・・現地へ・

 

         ご愛読ありがとうゴザイマシタ!

  

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「棟方を追いかける~」第12話

2024-05-09 | 日記

昭和45年 67歳

 この年は高度経済成長のシンボルとして万国博覧会が開催

 日本列島は北から南まで大阪へ民族の移動?が行われた。

  歌手の三波春夫の「こんにちは、こんにちわ~」の一節は

 出始めのテレビから絶えることなく流れていました。

    思い出すでしょう・・・この「太陽の塔」

      

 

  その年の11月 

  棟方志功は文化勲章受章。文化功労者に顕彰される。

         

 

  還暦を過ぎてから急速に数を増した自板像だが、同時に棟方は

望郷の想いをしばしば板画に表現するようになった。

小学校の秋、目の前に揺れる沢瀉(おもだか)の花に心を奪われ

「このような美しいものを表現する人間になりたい」と心に決めた

 思い出を、棟方は歌に詠み、多くの作品に織り込んだ。

 これもその1点。 赤く塗りつぶされ眼は見えない印。

 実際は左眼は失明していた。

   

  昭和46年 68歳

 陸奥新報社創刊25周年を祝して描いた「志功ねぷた」

 弘前ねぷたまつりで運行される。

   

     < ねぷたを紙に直接描く 棟方 >

  この時の「ねぷた」

     <天之宇受女之美古登の図>

   

          <天の磐戸>

  

 

  昭和47年 69歳

  妻(チヤ)と詩人草野心平とともに棟方が深く帰依する仏教興隆の地

  インドを訪れた。 

  インドの旅から帰って後、ヒンドウー教の寺院の彫刻から想を得て

  型破りなこの作品を制作した。

             <彪濃の柵>

   

           

            <大印度の花の柵>

        

 

   昭和48年 70歳

   4月 「奥の細道」を辿り取材、「奥海道棟方板画」を制作。

現代版の「東海道五十三次」版画の制作を依頼された志功は、

を皮切りに10余年をかけて、九州、四国、東北、北陸を巡る

海道シリーズに取り組んだ。

 

 <奥海道棟方板画>では、芭蕉(おくの細道)を辿るという構想が

立てられ、志功は4月22日から11日観の日程で東北各地を歴訪している。

     <奥海道棟方板画 人肌雨の柵ー(5月 岩手)

   

 本作の取材地は岩手県平泉の中尊寺、

    

 

 芭蕉の「五月雨を降り残してや光堂」の句を添え、秘仏とされる

 一字金輪佛頂尊を、その上半身を画面いっぱいに拡大して表している。

 「人肌の大日如来」とも呼ばれるこの仏像は、その名のとおり

    

  まるで生きているかのような白い肌が特徴である。

 その肌合いとともに志功は本作において、実際の顔立ちを忠実に

写し取っている。丸くふくよかな顔におちょぼ口。半円を描く眉に

切れ長の吊り目。興味深いことに、それは、志功が描く女性像の特徴

にも極めてよく似ているのである。

 

      奥海道棟方板画 他 次回にアップ

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「棟方を追いかける~」第11話

2024-05-06 | 日記

このGWは、長男の帰省で「大食い」の世話で追いかけられ

 ゆっくりもできず明日には帰る「やれ、やれ」の心境です。

 

整理する時間もないので今日は、「倭絵」についてアップします。

 志功の仕事の中心は何と言っても「板画(はんが)」です。

志功は「板から生まれた板による画」という意味で「版画」を

「板画」と称し、その躍動感に溢れる作品を多くの人々を魅了し

続けています。

 しかし、忘れてならないもう一方の仕事として、「倭画」

挙げられます。

肉筆画である「倭画」(棟方による命名)で、柳宗悦

「倭絵」と称している)は、間接的な表現方法である「板画」

よりも、直接的または、奔放に表現できるものとして、

 棟方が大いに楽しみにするものである。

 墨画、油彩、書など幅広い造形活動を展開し、これら

 創作行為をまとめて「芸業」と呼んだ。

 

 時代を無視して作品を選んでみました。

 それぞれに絵の意味があるのですが、詳細は割愛します。 

    <華厳松> 6曲 襖

   <稲電、牡丹、芍薬図>

 

        

 

     

 

        

           <座華堂野点図> 志功のこと

        

             <金太郎、桃太郎屏風>

    

            <胡須母寿花頌>   

        

            <御雛祭御祝福図>

         

 

        

               <みみずく図>     

        

        

          <フジヤのオンチャのネプタ図>

     

         <ねぷた 大好きな志功さん 祭りの中へ>

   

               <青森ねぷた図>

      

           <青森頌 春夏秋冬の図>

      

  

               <竹明妙図>   

              

            

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「棟方を追いかける~」第10話

2024-05-05 | 日記

昭和35年 棟方志功 57歳

もともと視力が弱い棟方だったが、この年の年末には眼病が悪化して

 左眼を失明しているが仕事が絶えることはなかった

 毎年の「日展」に出品するほか「板から生まれる画」を追求し続けた。

             (制作中の棟方)

     

 10月 青森県庁知事室に「鷺畷の柵」を納める。

 初めての海外旅行で、アメリカを訪れピカソの「ゲルニカ」などの名画を見た。

            ピカソ <ゲルニカ>

  

 その帰国後間もない時期に制作された板画である。

 かって「善知鳥村」(うとうむら)と呼ばれたという故郷青森の原風景を題材

 としたこの作品は自然形態を見事に「白」と「黒」のみ再構成した画面の中に

 一つの世界観を構築している。 

   飛び立つ白鳥や水鳥、菖蒲に蓮、白黒反転させつつ組み合わせて画面を構成している。

 バランスの取れた「白」「黒」の対比はまさに木版でしか創り上げることが出来ない

 装飾の「美」である。この作品は、幅2.5mを超える大きなものです。

 彼の才能とエネルギーには敬服するばかりです。

 

 

昭和36年 58歳

 1月  青森県庁舎玄関上に大阪壁画「花矢の柵」を納める。

       

 新築された青森県庁の壁画として制作した作品。日本の文化の

 流れがこれまで南から北に向かっていたのに対し、この矢をアイヌが祭りの

 最初に四方に美しい花矢を捧げる儀式から想を取り、日本の北から南へ吹き返す

 ことを願って作ったたという。

 馬には四神(玄武、青竜、朱雀、白虎)を示す文様が描かれ、三本足の赤い鳥がいる

 太陽と兎がいる月が加えられる。

 画面の騎上の女性は鼓と笛(東西)木製の花矢(南北)を持ち青森の発展を祈る。

 右上の太陽と左下の月は「宇宙の回転をこの中におさめる」意味である。

             <花矢の柵>

 

 「故郷の土に生まれ、その土にかえるわたくしは、青森の泣きも笑いも

  切なさも憂いも、みんな大好きなモノです。 

  ナントモ言えない、言い切れない、湧然没然があるのです。

  ーーーまたそれだからこその「青森」です。」

                          私の履歴書より

 

  昭和38年 60歳

  「東海道棟方板画」に着手。

  完成まで1年を要す。

駿河銀行から現代の東海道五十三次版画の制作を依頼された棟方は

7回の取材旅行を重ねた末、東京から大阪までを61点、(表題、柵外

開扉、閉扉を加えて65点)にまとめた「東海道棟方板画」を翌年4月末

に完成させた。棟方は単に目の前の風景を写すだけではなく、そこに

生きる万物の生命感を「板画にする」作業に徹し、縦(彩色)と横

(黒白)の画面を交互に置いて構図的な効果も考慮している。

 

     とても作品の数が多いので、適当に選んでアップしました・・・

  <開扉>

      

 

    <大磯 徳永晨雪(とくながしんせつ)

      

 

     <袋井 裂戸堀(きれとぼり)

      

     <豊橋 招城天守(まねきしろてんしゅ)

      

 

     <桑名 鳥居波(とりいなみ)

      

 

     <京都 雪見台(ゆきみだい)

      

 

     <大阪 街心雑踏(がいしんざっとう)

      

 

   昭和39年 4月 

  「東海道棟方板画」が完成。

 10月 朝日新聞社より「東海道棟方板画」を刊行。

  自伝【板極道】を中央公論社より刊行。

      

 昭和40年 62歳

  ㋁~㋄ 2度目の渡米。

 昭和41年 63歳

  6月 草野心平との共著、詩画集「富士山」を刊行。

        *この項、アップ済み

  7月 脳血栓で倒れる。 秋ごろより製作再開。

 

 昭和42年 64歳

 10月~翌年1月 個展開催の為三度目の渡米、その後各地を巡回。

 昭和43年 65歳

          <門世の柵>

      

別名「なでしこ妃の柵」画面に彫り込まれた撫子は棟方の愛する花のひとつである。

数多い女人像の中でも想いの深い作品。

門世とは、画面の四隅に置いた東西南北の文字が世界への門だという棟方の造語である。

 

           <飛神の柵>

  

  「御志羅(おしら)の柵」と題して日展に出品。のちに表題を改めた。

  東北地方には、祭りの日、巫女たちが、桑の木で作った男女一対の

  素朴な偶像(おしらさま)を両手に持って舞わせながら、祭文を唱えて

  五穀豊穣を祈る民間信仰がある。

  「飛神の柵」は神の使徒である神馬と姫君とが、艱難辛苦の果てに共に

  天高く舞い上がって神となり、さらに蚕に変身して人間に幸福をもたらす、

  という巫女の祭文を表したもの。

  棟方は画面に男女二神を遊ばせて、貧しい郷土の人々への豊穣の祈りを

  込めている。

 

 昭和44年 66歳

 ㋁  青森名誉市民(第1号)の称号を贈られる。

 8月  万国博覧会出展するに日本民藝館のための板壁画

     「大世界の柵・乾坤」が完成する。

 

大世界の柵・坤(こん)ー人類より神々へ

昭和38年 原題を「乾坤頌ー人類より神々へ」といい、

向かって右半面には「栄光の柵」、左半面には「慈航の柵」という副題がつけられている。

  倉敷国際ホテルの壁画を依頼され制作したもの。

  上下2段の板壁画として現在もホテルロビー壁面におさめられている。

 

 大世界の柵・乾(けん)ー神々より人類へ

 大阪万国博覧会のため棟方は「乾坤頌」の板木の裏面を使って同寸の板壁画を制作、

 「大世界の柵・乾ー神々人類へ」と改題乾坤合わせて全長27mの巨大な板壁画「大世界の柵」

 2図を完成させた。

  「森羅万象をいままでの仕事いっさいをこめて表現した」と棟方は語っている。

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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。