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黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

「棟方を追いかける~」第12話

2024-05-09 | 日記

昭和45年 67歳

 この年は高度経済成長のシンボルとして万国博覧会が開催

 日本列島は北から南まで大阪へ民族の移動?が行われた。

  歌手の三波春夫の「こんにちは、こんにちわ~」の一節は

 出始めのテレビから絶えることなく流れていました。

    思い出すでしょう・・・この「太陽の塔」

      

 

  その年の11月 

  棟方志功は文化勲章受章。文化功労者に顕彰される。

         

 

  還暦を過ぎてから急速に数を増した自板像だが、同時に棟方は

望郷の想いをしばしば板画に表現するようになった。

小学校の秋、目の前に揺れる沢瀉(おもだか)の花に心を奪われ

「このような美しいものを表現する人間になりたい」と心に決めた

 思い出を、棟方は歌に詠み、多くの作品に織り込んだ。

 これもその1点。 赤く塗りつぶされ眼は見えない印。

 実際は左眼は失明していた。

   

  昭和46年 68歳

 陸奥新報社創刊25周年を祝して描いた「志功ねぷた」

 弘前ねぷたまつりで運行される。

   

     < ねぷたを紙に直接描く 棟方 >

  この時の「ねぷた」

     <天之宇受女之美古登の図>

   

          <天の磐戸>

  

 

  昭和47年 69歳

  妻(チヤ)と詩人草野心平とともに棟方が深く帰依する仏教興隆の地

  インドを訪れた。 

  インドの旅から帰って後、ヒンドウー教の寺院の彫刻から想を得て

  型破りなこの作品を制作した。

             <彪濃の柵>

   

           

            <大印度の花の柵>

        

 

   昭和48年 70歳

   4月 「奥の細道」を辿り取材、「奥海道棟方板画」を制作。

現代版の「東海道五十三次」版画の制作を依頼された志功は、

を皮切りに10余年をかけて、九州、四国、東北、北陸を巡る

海道シリーズに取り組んだ。

 

 <奥海道棟方板画>では、芭蕉(おくの細道)を辿るという構想が

立てられ、志功は4月22日から11日観の日程で東北各地を歴訪している。

     <奥海道棟方板画 人肌雨の柵ー(5月 岩手)

   

 本作の取材地は岩手県平泉の中尊寺、

    

 

 芭蕉の「五月雨を降り残してや光堂」の句を添え、秘仏とされる

 一字金輪佛頂尊を、その上半身を画面いっぱいに拡大して表している。

 「人肌の大日如来」とも呼ばれるこの仏像は、その名のとおり

    

  まるで生きているかのような白い肌が特徴である。

 その肌合いとともに志功は本作において、実際の顔立ちを忠実に

写し取っている。丸くふくよかな顔におちょぼ口。半円を描く眉に

切れ長の吊り目。興味深いことに、それは、志功が描く女性像の特徴

にも極めてよく似ているのである。

 

      奥海道棟方板画 他 次回にアップ

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「棟方を追いかける~」第11話

2024-05-06 | 日記

このGWは、長男の帰省で「大食い」の世話で追いかけられ

 ゆっくりもできず明日には帰る「やれ、やれ」の心境です。

 

整理する時間もないので今日は、「倭絵」についてアップします。

 志功の仕事の中心は何と言っても「板画(はんが)」です。

志功は「板から生まれた板による画」という意味で「版画」を

「板画」と称し、その躍動感に溢れる作品を多くの人々を魅了し

続けています。

 しかし、忘れてならないもう一方の仕事として、「倭画」

挙げられます。

肉筆画である「倭画」(棟方による命名)で、柳宗悦

「倭絵」と称している)は、間接的な表現方法である「板画」

よりも、直接的または、奔放に表現できるものとして、

 棟方が大いに楽しみにするものである。

 墨画、油彩、書など幅広い造形活動を展開し、これら

 創作行為をまとめて「芸業」と呼んだ。

 

 時代を無視して作品を選んでみました。

 それぞれに絵の意味があるのですが、詳細は割愛します。 

    <華厳松> 6曲 襖

   <稲電、牡丹、芍薬図>

 

        

 

     

 

        

           <座華堂野点図> 志功のこと

        

             <金太郎、桃太郎屏風>

    

            <胡須母寿花頌>   

        

            <御雛祭御祝福図>

         

 

        

               <みみずく図>     

        

        

          <フジヤのオンチャのネプタ図>

     

         <ねぷた 大好きな志功さん 祭りの中へ>

   

               <青森ねぷた図>

      

           <青森頌 春夏秋冬の図>

      

  

               <竹明妙図>   

              

            

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「棟方を追いかける~」第10話

2024-05-05 | 日記

昭和35年 棟方志功 57歳

もともと視力が弱い棟方だったが、この年の年末には眼病が悪化して

 左眼を失明しているが仕事が絶えることはなかった

 毎年の「日展」に出品するほか「板から生まれる画」を追求し続けた。

             (制作中の棟方)

     

 10月 青森県庁知事室に「鷺畷の柵」を納める。

 初めての海外旅行で、アメリカを訪れピカソの「ゲルニカ」などの名画を見た。

            ピカソ <ゲルニカ>

  

 その帰国後間もない時期に制作された板画である。

 かって「善知鳥村」(うとうむら)と呼ばれたという故郷青森の原風景を題材

 としたこの作品は自然形態を見事に「白」と「黒」のみ再構成した画面の中に

 一つの世界観を構築している。 

   飛び立つ白鳥や水鳥、菖蒲に蓮、白黒反転させつつ組み合わせて画面を構成している。

 バランスの取れた「白」「黒」の対比はまさに木版でしか創り上げることが出来ない

 装飾の「美」である。この作品は、幅2.5mを超える大きなものです。

 彼の才能とエネルギーには敬服するばかりです。

 

 

昭和36年 58歳

 1月  青森県庁舎玄関上に大阪壁画「花矢の柵」を納める。

       

 新築された青森県庁の壁画として制作した作品。日本の文化の

 流れがこれまで南から北に向かっていたのに対し、この矢をアイヌが祭りの

 最初に四方に美しい花矢を捧げる儀式から想を取り、日本の北から南へ吹き返す

 ことを願って作ったたという。

 馬には四神(玄武、青竜、朱雀、白虎)を示す文様が描かれ、三本足の赤い鳥がいる

 太陽と兎がいる月が加えられる。

 画面の騎上の女性は鼓と笛(東西)木製の花矢(南北)を持ち青森の発展を祈る。

 右上の太陽と左下の月は「宇宙の回転をこの中におさめる」意味である。

             <花矢の柵>

 

 「故郷の土に生まれ、その土にかえるわたくしは、青森の泣きも笑いも

  切なさも憂いも、みんな大好きなモノです。 

  ナントモ言えない、言い切れない、湧然没然があるのです。

  ーーーまたそれだからこその「青森」です。」

                          私の履歴書より

 

  昭和38年 60歳

  「東海道棟方板画」に着手。

  完成まで1年を要す。

駿河銀行から現代の東海道五十三次版画の制作を依頼された棟方は

7回の取材旅行を重ねた末、東京から大阪までを61点、(表題、柵外

開扉、閉扉を加えて65点)にまとめた「東海道棟方板画」を翌年4月末

に完成させた。棟方は単に目の前の風景を写すだけではなく、そこに

生きる万物の生命感を「板画にする」作業に徹し、縦(彩色)と横

(黒白)の画面を交互に置いて構図的な効果も考慮している。

 

     とても作品の数が多いので、適当に選んでアップしました・・・

  <開扉>

      

 

    <大磯 徳永晨雪(とくながしんせつ)

      

 

     <袋井 裂戸堀(きれとぼり)

      

     <豊橋 招城天守(まねきしろてんしゅ)

      

 

     <桑名 鳥居波(とりいなみ)

      

 

     <京都 雪見台(ゆきみだい)

      

 

     <大阪 街心雑踏(がいしんざっとう)

      

 

   昭和39年 4月 

  「東海道棟方板画」が完成。

 10月 朝日新聞社より「東海道棟方板画」を刊行。

  自伝【板極道】を中央公論社より刊行。

      

 昭和40年 62歳

  ㋁~㋄ 2度目の渡米。

 昭和41年 63歳

  6月 草野心平との共著、詩画集「富士山」を刊行。

        *この項、アップ済み

  7月 脳血栓で倒れる。 秋ごろより製作再開。

 

 昭和42年 64歳

 10月~翌年1月 個展開催の為三度目の渡米、その後各地を巡回。

 昭和43年 65歳

          <門世の柵>

      

別名「なでしこ妃の柵」画面に彫り込まれた撫子は棟方の愛する花のひとつである。

数多い女人像の中でも想いの深い作品。

門世とは、画面の四隅に置いた東西南北の文字が世界への門だという棟方の造語である。

 

           <飛神の柵>

  

  「御志羅(おしら)の柵」と題して日展に出品。のちに表題を改めた。

  東北地方には、祭りの日、巫女たちが、桑の木で作った男女一対の

  素朴な偶像(おしらさま)を両手に持って舞わせながら、祭文を唱えて

  五穀豊穣を祈る民間信仰がある。

  「飛神の柵」は神の使徒である神馬と姫君とが、艱難辛苦の果てに共に

  天高く舞い上がって神となり、さらに蚕に変身して人間に幸福をもたらす、

  という巫女の祭文を表したもの。

  棟方は画面に男女二神を遊ばせて、貧しい郷土の人々への豊穣の祈りを

  込めている。

 

 昭和44年 66歳

 ㋁  青森名誉市民(第1号)の称号を贈られる。

 8月  万国博覧会出展するに日本民藝館のための板壁画

     「大世界の柵・乾坤」が完成する。

 

大世界の柵・坤(こん)ー人類より神々へ

昭和38年 原題を「乾坤頌ー人類より神々へ」といい、

向かって右半面には「栄光の柵」、左半面には「慈航の柵」という副題がつけられている。

  倉敷国際ホテルの壁画を依頼され制作したもの。

  上下2段の板壁画として現在もホテルロビー壁面におさめられている。

 

 大世界の柵・乾(けん)ー神々より人類へ

 大阪万国博覧会のため棟方は「乾坤頌」の板木の裏面を使って同寸の板壁画を制作、

 「大世界の柵・乾ー神々人類へ」と改題乾坤合わせて全長27mの巨大な板壁画「大世界の柵」

 2図を完成させた。

  「森羅万象をいままでの仕事いっさいをこめて表現した」と棟方は語っている。

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「棟方を追いかける~」第9話

2024-05-01 | 日記

 今日から㋄ ゴールデン・ウイークというものの朝から雨。

どこに行くというあてもさらさらなし。

ゴールドでなく、事実が「シルバー」の私。

出れば、何かとものいりとなる。

 じっと家で静かにこのブログのキーを叩く。

も、そしても、

みな「金(かね)」が付いてのこと。

ここはゆっくりと過ごすにするか・・・・。

 

さて、こんな日は、 じっと何かを見つめていろいろ考え

自分の過去の読書風景を振り返ってみるのもいいではないか?

好みもあるから、ひとそれぞれ。

 

 この棟方志功も、大忙しの板画制作の中に、小品としての

「装画本」の仕事も多数引き受けているのには驚き。

どこまで奥深いかたなんだろうと~

 今日は無差別、解説なしにご披露いたします。

本を買うとき・・この挿画ってのも、大いに関心ごとではある。

なんと棟方は、現在確認されているだけで書籍が600冊。

雑誌を始めとする刊行物1000冊以上という装画を手掛けているのだ。

  みているだけで楽しいいよ! じゃ、行きますよ・・・

 

        

 

    

 

 

       

 

   

 

    

 

   

 

   

 

   

 

   

  

 

 

              上の一部分を拡大します。

     

 

  最後に  谷崎潤一郎を

 

 

       

 

    

 

   

 

  いかがでしたか 素晴らしい挿絵 作品を十分に理解したうえで制作に向かっている。

  彼の卓越した才能・・・シャッポ脱ぐしかないようです~

 

    ではまた ゴールデンウィーク 皆様なりにお楽しみください! 

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「棟方を追いかけよう~」第8話

2024-04-30 | 日記

 少し戻りまして…

 昭和26年 年末 東京都杉並区荻窪に居を移す。     

 

 

                   (中央 赤い部分が画室)   

 この家は、洋画家鈴木信太郎の家を周旋してもらったもの。

 東側一面が天井までガラス窓になっている20畳ほどの本格的な画室

 家の中心になっている。

     

   石門のポストには郵便屋さんのために

  「有り難く」と書かれていた。手紙が好きで青梅街道角のポストまで

   投函に行くのが日課だった。

    

  数年後増築した「裏の家」に設けられた囲炉裏の間。

  床には大谷石が敷かれ、窓際にはお気に入りの飾り棚があった。

       *後ろにある大きな陶器の皿は…きっと濱田庄司さんの作?

 

 昭和29年  棟方52歳

 すでにアップしていますが、この年の1月、 棟方邸で裏千家の企画で、

実験茶会」を開催しています。

      

 7月には第3回サンパウロ・ビエンナーレに「二菩薩釈迦十大弟子」

 「湧然する女者達々」を、出品し、版画部門最高賞を受賞する。

昭和31年 53歳

 6月 第28回ヴェネチア・ビエンナーレに「二菩薩釈迦十大弟子」

 「柳緑花紅頌」などを出品し、国際版画部門大賞を受賞。

    

 

  昭和31年    <鍵板画柵>

昭和31年 谷崎潤一郎が、雑誌「中央公論」の正月号から書き下ろした小説を

連載するにあたり、挿絵を棟方にと希望した。

         

小説の進行にあわせて板画を制作するのはかなりの緊張を要したようだが

棟方はそれまでの板画技術の粋を駆使し、最大限の印刷効果を上げる工夫うを

こらしてこれに応えた。その結果、小説、挿絵ともに連載当初から評判を呼び、

棟方が装幀単行本も記録的なベストセラーとなった。

      

 

    <鍵板画柵>

              大首(おおくび)の柵

      

 

            <大鏡(おおめがね)の柵>

       

 

              <腹鏡(はらめがね)の柵>

       

 

          <艶杯(えんぱい)の柵>

       

 

「鍵」の連載から谷崎の都合で中断した3ヶ月の間、一度決まった制作意欲

 を維持するべく、棟方は谷崎の歌を板画にしたいと願い出た。

 快諾した谷崎が主に戦後に詠んだ和歌の中から24首を自選。

 これを棟方は1ヶ月ほどで彫り上げた。

 棟方は「刀を使い切ったということでは、「歌々板画柵」が極限のような

 気がする。

  特に三角刀はこの板画24枚で初めて会得したようなものだ」と述べ、

 「わたくしの、板画への大きな道をつけてくれたような」作品であると

 自賛している。

            <花見の柵>

      

 

            <夕涼の柵>

      

 昭和32年 54歳

 鎌倉市津(鎌倉山)にアトリエ「雑華山房」を持つ。

志功は、四季とりどりの富士山や相模湾を望む鎌倉市鎌倉山に、

別荘 兼アトリエ「雑華山房」を構えました。

 国際展での輝かしい受賞などで一躍時の人、となった棟方は

作品の注文や、来客が絶えず多忙を極めていました。

そうした喧騒から離れ、制作のための時間と落ち着いた環境を

確保できる場所がこの雑華山房でした。

 1970年(67歳)頃には制作だけでなく生活の拠点も東京の自宅

からここに移しました。 

   

 

 

 昭和34年 56歳

  この年の1月、初渡米。欧州各地で巡回展。 11月に帰国。

  この項については、前回にアップしています。

 

         次回は 「挿画本」について

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「棟方を追いかけよう~」第7話

2024-04-29 | 日記

 国際派としての棟方の活躍ぶりはご紹介した通りですが

時代を戻して、戦後以降の活躍ぶりを追いかけます。

 

昭和22~23年 44歳の時、小品の板画を多数制作発表している。

 そのうちのひとつ。 <挿頭花(かざし)板晝柵>

   *平安時代、髪や冠にかざした花や枝、造花を「挿頭花」と呼んだ。

    後の「かんざし」に通じる。小さくて可愛いという気持ちでつけたという。 

       

       

 

     

 

 戦後、疎開先、富山県福光町で家を建て住んでいる近くに棟方が愛した

 小川があった。この川には河童が棲むという。志功が描く河童の絵を

 見ながら、村人たちが真顔で敬意を示し棟方は、河童の棲む小川を

 「瞞着川」(だましがわ)と名付け、白昼夢のような物語を記して板画絵巻とした。

 数多くの詩歌や物語を板画にしている棟方だが、自作の随筆を作品にした

 のはこの作品ひとつである。

  現地の名付けられた川

  

       

  

           <瞞着川板晝柵> 全39点のうちの作品

   

 

 昭和24年 46歳 

 岡本かの子作「女人観世音」12枚を発表   

    

            <女人観世>

       

      <表の柵>             <名の柵>

 

 >             

            <仰向妃の柵>

 

  

             <牡丹の柵>

 

   <無碍(むげ)の柵>        <優色(ゆうしき)の柵>

 

岡本かの子著(観音経)に掲載された「女人ぼさつ」の詩に

「ふるいつくほど憑かれた」棟方が、11年の歳月を経て仕上げた作品。

 女性を礼賛してやまない棟方にとって、詩の中の「女人われこそ観世音ぼさつ」

というリフレインが、どれほど画魂に響いたことだろうか。

「文字によって板画が生まれ、文字がこの板画の良さを決定したところまで、

 上がってきているように思います」と述べている。

 

    昭和27年 第2回ルガノ国際版画展で優秀賞を獲得

      「世界のMunakata」への第一歩となった。

 

 昭和28年 50歳

 4月、国画会展に吉井勇の歌31首を版画にした「流離抄板画柵」を出品する。

  吉井勇の最新歌集「流離抄」に題を取る

          

  吉井自ら代表的歌集10冊から年代順に選んだ31首を棟方に託したもので

  棟方は正味1ヶ月で仕上げている。

  日頃仕事の早い棟方としてもこの作品にかけた日数は異例に短く、それに

  反比例して完成度は非常に高い。いかに、吉井の歌に棟方が惹かれたかが

  うかがい知れよう。

   作品は評判を呼び、棟方の名前は全国的に知れ渡るようになった。

               吉井勇の歌

          

   <角屋の柵>            <獅子窟の柵>

    

 

   <孤狼(ころう)の柵>           <屏風の柵>

    

 

  <広鮱(ひろはた)の柵>             <天狗の柵>

    

 

  同じ年に 「雄然する女者達々」を発表

 一切経の主要6経典を6人の女体で表現したもの。当初は女体を横にした

 組み合わせで「大蔵経板画柵」と題して発表したが、昭和30年

 サンパウロ・ビエンナーレには縦にして出品。 現代に改めた。

  湧き上がる女体となだれこむように没する女体とを、丸刀一本で彫り上げ

 非常に力強く、躍動感あふれる構成をなしている。

 棟方は多くの女体像のなかでもとりわけてこの作品を好み、「女者(じょもの)

 という感じを、いっぱいにつもったもの」と述べている。

         <湧然(わくぜん)の柵> 

         <没然(ぼつぜん)の柵>

 

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「棟方を追いかけよう~」第6話

2024-04-28 | 日記

棟方が、日本を飛び出し、海外へ渡ったのは彼が56歳の時

それまでに海外での棟方の作品の評価は受賞のたびに人気を増していた。

 49歳の時、スイス・ルガノで開催された第2回国際版画展に

「女人観世音」を主品し、日本人初の優秀賞を受賞。

     <女人観世音 仰向きの柵>  

   

丁度その年の10月、欧米講演巡行中の柳宗悦が企画した初の海外個展が

ニューヨークのウイラード・ギャラリーで開催される。

52歳 7月

第3回サンパウロ・ビエンナーレに

「二菩薩釈迦十大弟子」「湧然する女者達々」を出品し、版画部門最高賞

を受賞する。

  

 

 53歳 6月

第28回ヴェネチア・ビエンナーレに「二菩薩釈迦十大弟子」「柳緑花紅頌」

等を出品し、国際版画大賞を受賞。

          「柳緑花紅頌」

 

 

こうした実績を持って、彼が初の海外へ旅発ったのが・・・

 56歳、1月、 ロックフェラー財団とジャパンソサエティの招待で

渡米・欧米各地で巡回展。そして滞在中の彼の制作。

    この旅行中の彼を追いかけてみることにしましょう。

昭和34年(1959) 56歳

1月26日に横浜港を出発し、㋁18日にニューヨークに到着。

少年時代、パナマ運河開通(1914)のニュースは強い印象を残した。

船が山を越える様をいつか見てみたい、という長年の夢を叶えた棟方は

300日に及ぶ欧米滞在中最も感動したのがパナマ運河だったと語っている。

 

初めてのアメリカ滞在中、彼はニューヨーク、ボストン、クリーブランド

シカゴ、サンフランシスコの大学で日本美術と板画の講義を行った。

 ニューヨークを拠点にして制作も貪欲に行い、ウイラード画廊で個展を

開催している。

  ニューヨークの朝、書を制作中の棟方。

        筆で何枚も何枚も、素早い速さで揮毫した。(1959)

   

 この渡米に大きく関わったのが、アメリカ屈指の財閥

三代目デイヴィッド・ロックフェラー氏とその夫人。

  

日本には使節団訪日の後、再来日し、その折に柳宗悦を介して日本民藝館

で棟方志功と面会し、夫人は棟方の<鐘渓頌>を購入している。

棟方自身も柳に手紙を出し 「…ロックフェラー様の厚志の程と、先生が

つくしてくださった御恩の程を拝伏してゐます」と述べている。

 棟方がロックフェラー夫婦と知遇を得たことは、その後の彼の人生を左右

したともいえるだろう。

 

 この年の3月25日、フィラデルフィア在住の石版画家、

 アーサー・フローリーに会い、美術学校の版画工房を見学、彼の自宅に

 招かれている。

 フローリーは棟方のためにリトグラフ用ババリアン石灰石七個を用意し

 食後に制作に取り掛かった

 のだが、その夜のうちにすべての作画を終えた棟方の素早さにフローリー

 は驚愕した。

    フィラデルフィア在住のの石版画家・アーサー・フローリーの

   版画工房での制作風景。 石板に作画する棟方。

  

    アーサー・フローリー氏のリトグラフ工房にて

           棟方とフローリー

   

      

      <日月の柵>

    フィラデルフィア滞在中に制作したリトグラフ作品

         棟方自身が美術館に寄贈した。

    

          

           

            フィラデルフィア美術館

 なんとこの美術館には棟方志功の自画像が四点収蔵されている。

 そのうち二点が1959年の最初の渡米時にニューヨークで制作した木版の

 自画像<ハドソン河自画像>がある。

         

 

  米欧滞在中、棟方は夥しい数のスケッチを残し、風景版画を多作

  <摩奈那波門多(マンハッタン)に建立す>の大作も着手

 

 また、かねてより邦訳で愛唱していた

 ウオルト・ホイットマンの詩集「草の葉」を求め、英字を彫り込んだ

 抜粋板画12点を制作した。

      

  

 滞米欧中の作品は実際の景色を板画にしたものが大多数を占める。

 が、自画像板画が目を引く。それまで彼は油絵の自画像を数点残しているが

 板画は、年賀状以来、1点も彫ってない。

 初めて海外に出、改めて自分を見つめ直す機会を得たということであろうか。

 <ニューヨークの自由の女神の柵>

      

 <ホイットマン生家の柵>

  

 <巴里ノートルダム寺院の柵>

  

 <オーヴェールのゴッホ兄弟の柵>

          ゴッホ兄弟の柵.jpg

 棟方がゴッホに憧れて画家を志したのは有名だが、ヨーロッパ旅行での目的のひとつが

 オーヴェール行きであった。妻(チヤ)の眉墨で拓本を取ったゴッホの墓は、深く長く

 棟方の心に留まり、最晩年に自分の墓を設計した時の手本となった。

   <オーヴェールの兄弟の墓の柵>は、その時のスケッチをもとに板画にしたもの。

   実際のゴッホの墓              棟方夫婦の墓

            

 

  

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棟方を追いかけよう~第5話

2024-04-23 | 日記

棟方の周りには、まさに綺羅星のような友人がいた。

そのジャンルは広く、その影響が彼の生涯に多大なる財産となっている。

 彼、「草野心平」もその一人。

 詩人。棟方と同じ東北人、明治36年㋄(福島県、現在のいわき市)出身。

 棟方が明治36年9月の青森県生まれ。

 「わだばゴッホになる」草野の詩から広まる。

 

    

 昭和49年 

  草野は棟方の生涯を讃えた「わだばゴッホになる」という詩を書いた。  

   表題のことばは、正確には棟方自身の言葉ではない…という。

   東北弁の一人称の「我(ワ)」に「だば」という

   「強調を表す青森弁の助詞」を付けたことで、草野は棟方志功という

    人間を一瞬にして浮かび上がらせた。見事な言葉の魔法である。

    詩人の力に敬服するばかりである。】    

                       別冊太陽 製作スタッフ言より引用

    

 

 同い年、東北の出身です。 とても仲良し・・・。

 こんなエピソードが

 一緒にインドに旅した際、右眼失明の草野と、左眼失明の棟方と

 「二人合わせしても一人分だな」と笑い合ったという。

      

 二人の付き合いは長い。

 棟方は宮沢賢治と親交があり、その宮沢の作品の紹介に尽力したのを

 きっかけに知り合ったのではないか…。と。

     

  *棟方は、宮沢賢治の詩「雨にも負けず…」にを手掛けている。

    

  しかし、草野の詩を棟方が作品にするまでには、その後、長い年月

 が経過する。

  はっきり二人の接点が残っているのは、草野の詩集「亜細亜幻想」

見返し画の依頼を受けた。が、この時はかなわなかった。             

 昭和31年に

 草野の連作の詩「富士山」の中から制作。       

 草野はこの作品に対して「棟方が勝手に作った」という。

 詩は一言一句、句読点一つで印象が変わってしまう言葉と文字の

 芸術だ。だから 自分の詩を「板」にすることに一抹の不安が

 あったのではなかろうか…と、草野は語る。

 しかし、棟方は、最大限の配慮を見せて見事に作品と一体化させた。

 

 これを機に、草野の詩をもとに「富獄頌」を制作。     

 翌年、詩画集【富士山】が岩崎芸術社から刊行された。

     

  「富獄頌」

      <表題の柵>

     

 

   <赤富士の柵>

   

 

  <三百の龍よの柵>

 

 

   <門扉の柵>

        

   <大天竜の柵>

 

   <青銅の富士の柵>

 

   <満天に海の柵>

 

   <黒むらさきの柵>

 

   <春の柵>

     

   <黒いさんてんの柵>

  

 

   第4話の中で~

   棟方が、茶席でベートーベンの第九。 を流す ♪♪♪ 

   追加でご紹介します!

   こんな板画もありました。昭和38年 木版 彩色

      <歓喜自板像 ・第九としてもの柵>

夢を喰うといわれる猿の木像を枕に、河井寛次郎、濱田庄司らの壺や茶碗、鎌倉の庭にある

朝鮮型の石灯籠や竜舌蘭、自分の分身ともいうべき板刀、大好きな撫子、桔梗、朝顔、ライラック

の花々などの中に、陶然として横たわったている

      

   

    分厚い眼鏡、板に鼻をこすりつけるような姿勢・・・

       ものすごい勢いで筆を走らせ・・・

          彫刻刀を動かす姿・・・

      時々、意味不明な 大きな声で 吠える? 

           そんな仕事ぶりが 目に浮かびませんか?

   

    こんな 写真もありました。

  

 

   志功さん!  どこから  あなた そんな エネルギーが出てくるの? 

          圧倒! 驚嘆!   敬意を表します・・・

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棟方を追いかけてみよう~第4話

2024-04-21 | 日記

画家というのは、自画像を残したくなるのはどうして?

世界のどの画家でも同じように自画像を残す。

絵を描くということの始まりが「自画像」なのだろうか?

いままで多くの画家についてブログにも掲載してきた。

 揃って、自画像が登場する。

幼少期から、晩年まで。

生涯、数十点もの自画像を描き残す画家もいる。

 以前に紹介した「ゴッホ」もそうだ。

     

やっぱり、志功もゴッホを追いかけたのか?   

     

画法の変化とともに、自分の顔も変わるからなのか?

それとも、その時代に「生きている証」として描くのか。

いつも興味を持って眺めているの自画像なんだが。

棟方志功も同じように感じる。

彼の場合は、紹介したように~彼流の画法

 板画、油絵、倭絵、書入り

自画像にも大いに変化ある作品を残している。

 

 探し出した・・・作品を眺めてみましょう。

とてもユニークで楽しく、ほほえましい!

絶対的芸術作品の「柵」とは違って…ほっとする瞬間です。

   

      彫り、描く…ねぶた調

     

     板に彫る…こんな格好で、の蓑先が見えるの?

         

 

      

          黒を彫る

      

        墨がはみだす

      

       油絵で描くと…?

      

         筆で洒脱な線

      

      

   凄い、凄い !

  海外でも彫り続ける彼・・・

 

  アメリカに行ったとき

      <ハドソン河の自画像>

 

 

  眼鏡越しにぎょろりと眼をむく棟方。強い意志を感じさせる表情。

  志功は、板画による自画像を「自板像」と呼んだが・・・

  50代の半ばまで「自板像」をほとんど残していない。

   この作品以降、海外に出るたびに自板像を描いていく。

 

 棟方に興味を持って調べ始めると・・・

  ほんとうに多彩な方だと感心するばかり。

 

 こんな話も。

 下戸だった志功は、茶を好んだ。 という。

 一日に何回も、仕事の切り替えどきに、少しの甘味と一緒に薄茶を

 一、二服。声を掛ければ、家人が即座に茶をたてる。

  結構、威張ってるなぁ~…「お~い、お茶 」? 今、こんなCMも。

 

昭和11年 民藝運動の同人として迎えられ、初めて京都の河井寛次郎邸に

滞在したときに覚えた習慣である。

河井家に伝わった安来流の茶の湯の流れが棟方家に繋がった。

茶道とは、「五感」(茶碗の温もり、色、香り、味わい、呑みきりの音)

一連の動作がこれである。

       

昭和30年 裏千家の機関誌「淡交」の企画で、棟方邸で「実験茶会」が

開かれた。茶人でない素人が茶の心だけで茶会を開くという試み。

棟方はアトリエを茶室に見立て、

 西村伊作、 草野新平、  檀一雄らを招いて

 画家・陶芸家       詩人         小説家

  

自ら点前座についた 。

          実験茶会点前風景 荻窪自邸画室 

    

 

         「雑華堂胸肩井戸碗々楽游亦極道図」

               木版・彩色

     

 

 棗と茶筅は黒田辰秋の作。 

          

 茶碗は柳宗悦から拝借した大井戸茶碗「山武士(山伏)」

       

亭主がおもむろに茶筅を構えたところで

ベートーベンの第九交響曲「歓喜の歌」が流れるという趣向。

    

棟方一流の演出といえよう。

この後、棟方は、江戸大和遠州流の始祖小堀権十郎政尹旧蔵という

井戸茶碗を入手し、「胸肩井戸」と名付けたこの茶碗を自慢にした。

        

現在は日本民藝館の収蔵になっている。

               (この記事…別冊太陽から引用しています)

 

  まぁ、才能の独り占め・・・・天は、二物を与えず ?

    志功さんは いくつ与えられたのかねぇ~

    いや、いや 少し 不公平感出て参りました。

 

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棟方を追いかけてみよう~第3話

2024-04-20 | 日記

棟方志功の業績の数々を追いかけていますが…

 気がついたこと。

なんと多彩な人なのか。 

あれもこれも、手がけながらどれも一流

棟方志功の作品を大きく分けてみると…4種類だ。

1.板画

 志功は自分の版画「板画」といい、板の命を大切にすると

 いう想いから板(いた)という字を使った。

 幅26mに達する世界最大の作品から縦横約6㎝の小さな作品まで

 創っています。

          <門世の柵>

 

 

 ◆棟方志功の作品のタイトルに「柵」というのが付いている。

  最初は、これ何に・・・意味は?

  志功が考える「柵」は、たくさんのお寺を巡り、願いをかけて歩く

 「お遍路さん」が、ひとつひとつのお寺に願いを込めて収めていく

  <お札>があります。

 そのお札のように、志功は作品の創作に当たって願いを込めて

 「人生の道しるべとして、柵を打つように」という意味から

 板画作品の題名の最後に「柵」という文字を付けた。と言う。

 

 2.倭画 

  板画のような彫刻刀ではなく、筆に日本画用の絵の具をつけて

  描いた作品です。板画でもそうですが、棟方さんが使う色は、

  どこかで見たことがありませんか?

  そうです。志功さんが大好きなねぶたの色づかいに似ていますね。

         <青森ねぶた柵>

 

 

3.油絵

  棟方志功は画家を目指すきっかけとなったのが油絵。

   ほら、例のゴッホの「ひまわり」の絵。

  板画家として成功してからも、自由に楽しみながら描き

  続けました。

           <薔薇>

     

 4.書

小さい頃から字が上手だった志功が書く文字は、白い紙に

  黒い墨が飛び散って、元気いっぱいです。

 芸術の書は「キレイな形にこだわるのではなく、心の中から

 飛び出すような気持で書かなければいけない」と棟方さんは

 言っています。

          <乾坤>

         

 

倭画にこんな作品が

        <御二河白道之図>

昭和26年 高岡市の飛鳥山善興寺住職・飛鳥寛栗の依頼により描いた

富山時代の最後の作品。「二河白道」は浄土宗の重要な逸話。

底知れぬ水(善意)と燃える火(怒り)に阻まれ立ちすくんだ時、釈迦に

示された道の先に阿弥陀仏の声を聞く。煩悩を振り払い一心に進めば彼岸

に達する意。

棟方は「白道」を墨で一気に描き下し、逆に一般的には黒衣で表される

旅人の姿を白衣で表した。

説話の本質を棟方なりに熟慮し捉えた渾身の作品。

 

 

大原の話の続きに~ 

時代は進みますが…昭和38年と43年に「乾」「坤」合わせて横幅27m

いう世界最大級の版画となった「大世界の柵」を作らしめたのも大原だった

倉敷国際ホテルの壁面に、木版画による作品

  向かって右半面には「栄航の柵」、左半面には「慈航の柵」という副題

が付けられている。上下2段の板壁画として現在もホテルロビー壁面におさめ

られている。約60cm角の板木72枚を、鎌倉のアトリエの芝生に並べ、板木

に直接絵付けをした。

 大世界の柵・乾 <人類より神々へ> 昭和38年 

 大世界の柵・坤 <神々より人類へ> 昭和44年

 大阪万国博覧会の日本民藝館に出品した。

 38年 板の「乾坤頌」を「大世界の柵・乾 <人類より神々へ>と改題。

乾坤合わせて2図を完成させた。

 「森羅万象をいままでの仕事いっさいをこめて表現した」と棟方は語る。

 

 昭和39年の東京オリンピックは日本の景色を変えた。

 東海道新幹線が開通、高速道路も続々とつながり、高層ビルやホテルも

 急増。倉敷国際ホテルもその一つで、翌年の開業に向け大原総一郎の

 肝いりで、棟方はその制作依頼を受けた。

     倉敷国際ホテルの開業竣工式での大原総一郎    

         

          

       玄関ホールの「乾坤ー人類より神々へ」

     

            3階から眺めた作品

  

            一面に展示した作品

 

        大原総一郎と棟方志功、魂の交わりが 大作を生む。

 

 

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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。