オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

期末&降板

2018-07-31 | Weblog

7/31(火) 今日が会社の34期の期末で〆日となる。併せて、私とTUGAWAさんが会社の舞台から降板する日となる。34年前に映像演出家であったTUGAWAさんが個人事務所を株式会社にし、紆余曲折を越えてここまで来た分けだが、今後の発展を考えて我々は舞台から降りることにした。

TUGAWAさんが創立した会社を、確固たるものに出来なかった私の至らなさは詫びるしかない。されど、会社は、(株)ナチュラルはこれからも存続し、新たな資本家と経営者の手で、更に発展するものと信じている。そためのサポートは、これからも如何様にもさせていただくつもりでいる。

赤穂浪士に例えれば、殿のご乱心で赤穂城を明け渡すようなものだが、我が社(この言葉も今日一日)では、私が慣れ親しんだ席を空けるだけのことだ。家臣が浪人するすることもなければ、禄を削られるわけでもない。むしろ、向上するチャンスである。働き次第ではあるが。

後、五時間ばかりで私の務めは終わる。そして今夕、ナチュラル社特有の山賊の酒盛り、乞食の宴会である。34期をつつがなく終えた打ち上げ、暑気払いを社内にて敢行する。スタッフには、この一年間と私との16年、創業以来の34年間に、ただただ御礼を申すのみだ。

これまで肩書で呼ばれることが結構多かった。以前は、名前はARISAWAです、とか言ってなるべく肩書で呼ばれないようにしていたが、ここ数年は拘らないようにした。名前で呼ばれ様が肩書で呼ばれようが、どうでもいいじゃないか。呼びたいように呼べばいい、と。

処が明日からは、肩書が無い。これで愈々元のARISAWAに戻る分けだ。ARIさんでも、ARIちゃんでもなんでもいいや。呼びたいように呼んでくれ。二人いる孫にだけは「兄さん」と呼ばせているが・・・・。

7/26~30日まで帰省。天気がもったのは木・金の二日、それも昼間だけだったか。台風前のそれまでは、カンカン照りがつづいたそうだ。私の野菜たちは枯れ果てていた。トマト、茄子も胡瓜もカボチャも瓜も、スイカまで。ピーマンだけが薄い皮で生き残っていた。手間暇かけないと、人も野菜も育たねぇ~か。

土曜日から帰京の月曜日まで雨だった。時折陽がさしたり、大粒の雨が降ったりであった。そんな中、入院先の病院に母を見舞う。認知症がすすみ、直ぐに忘れてしまう、おまけに耳が聴こえなくなっている。如何ともし難し95歳であるが・・・。

私や妹、従姉のことは認識するが、それも日により、体調にもよる。認識するまで時間が掛かることも多い。調子のいい時は、握った私の手を放さない。眠ったと思い、手を放そうとしても握っているのだ。耳元で大きな声で云う『食べなきゃダメだよ。命は食にありだよ』なんて、言ってみるが。食が滅茶細いのだ。これが一番の心配である。

そんなことで、蜜柑畑の草刈りもできなかった。池の金魚に餌を遣る日々であった。キリギリス生活も、次女の一家が土曜日に来たので中断された。娘一家の飯使い(召使)とは、上手い言葉だぜ。

                

                         庭の花木は「木槿」だけが・・、

そして月曜日、帰京の日である。今回はごめん~奈半利線(土佐くろしお鉄道)の地元駅「安田駅」からたった一両だけの電車にて「野市駅」で下車。タクシーにて高知空港へ。安田駅の眼前には田園が広がり、上流は我が村落からそして柚子の馬路村へと安田川がつづく。

                     

                 片側ホームの無人駅、ホームに立つと森山良子の歌を思い出す

空港内でNISHIOKA先輩夫妻にバッタリと出会った。空港内の和食レストランで生ビールを飲みながら奇遇を祝した。

16時、人形町に着き会社へ。20時半に退社「ローカーボ」にて喉の渇きを癒し、今日に備えて帰宅した次第。

 

かくして今朝になり、久々の弁当作りタイムとなる。昨夜、食材を贖ってあった。今日のメニューは「黒毛和牛のスキ焼風煮」「ブリの照り焼き」「卵焼き&蒲鉾」である。

手慣れた品をサクサクと作ってお仕舞である。ご飯の上に、「高松」で頂いた佃島・天安の佃煮を載せてお仕舞である。

        

皆さん、お世話になりました。また、これからも宜しくお願いします。

 

 

 

 

コメント (3)
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